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2004年8月2日(月)
8月も、まだ2日だというのに陽射しも風も何やら秋の気配を感じさせる。野口裕之先生の論考『生きること、死ぬこと−日本の自壊』を読んで以来、また考えさせられる事が多く、このところ気分はかなり重めの錘をつけられて深海へと沈んでいっている感じがしている。
29日、蔵前の会の帰り、岡山で25日の夜、光岡師の動きに啓示を得てからずっと考えていた足首、膝、股関節、腰、肋骨、肩といった関節部の連動について、漸くひとつ気づくところがあり、途中まで帰る方向が一緒だったI氏の下車駅で一緒に降り、人気のないホームで技を受けてもらう。I氏の崩れ方が今までと違ったので、翌日30日の藤沢での朝日カルチャーセンターの講座や、31日にちょっと人が来た折にこの技を試みて、この連動のさせ方が今までとは違った働きを生み出している事を確かめる。 以上1日分/掲載日 平成16年8月3日(火) |
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2004年8月3日(火)
気持ちは低空飛行のままだが、2日は思いがけぬ電話を2本頂き、話している間は人心地ついた。ひとつはヒューストンから。私が4日にJAXA(宇宙航空研究開発機構)に行くことを聞かされたらしい宇宙飛行士の野口聡一氏からのもので、1月に私の道場に来られた時、何人もの人が同席していたので、つい自分が宇宙飛行士であることを言いそびれたという事と、是非JAXAのスタッフといろいろ交流して頂きたい、といった極めて丁重な内容だった。1月にヒューストンから一時帰国の折、私のところに訪ねて来られた人物が野口宇宙飛行士にほぼ間違いのなかった事は、6月の11日浜松町のJAXAのオフィスへ招いて頂いた時に分かっていたし、ことさら宇宙飛行士を強調しない人柄には大変好感が持てたから、丁重なお電話には恐縮してしまった。
最近、人間の文化の意味をあらためて考え直して溜息をついている私にとって、宇宙開発が本質的にどれほど意味があるかを考えると辛いものがあるのだが、現代は、こういう事を考え出せば果てしもなく、まるで身動きがとれないので、直接会う方に好感がもてるかどうかが、今の私の行動決定に最も大きな影響を与えている。
こうした誠意ある人の真心が力になったのか、今日は諸用をこなしつつ足裏の垂直離陸の動きと打剣をいろいろ体感を確かめながら工夫する気になり、動いているうちに思いがけぬ閃きを得て、今まで考えた事もなかった気づきがあった。それがどういうものかを言葉で表すのはきわめて難しいが、今までは打剣でも太刀を振っても(体術でも同じだったろうが)ある方向へある力を及ぼそうとすると、どうしてもその方向へ力が偏り、身体の一部が潰されていたという事にあらためて気づいたのである。 以上1日分/掲載日 平成16年8月3日(火) |
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2004年8月6日(金)
4日の朝、家を出てから62時間ほど経って、いま土浦発の"スーパーひたち"に揺られて家路についているが、今回の旅もさまざまに変わった環境の中にいたので、2泊3日の旅の終わりとはとても思えない。
その後は、かねてからコーチの高橋氏に招かれていた筑波大学の野球部へ。130km弱に設定されていたピッチングマシーン相手にバッティングをする。はじめは戸惑ったが、足の向き、足裏の離陸の仕方などを工夫していくうち、磁石のS極とN極が引き合うように、ボールにバットが引き寄せられるような感覚が芽生えてきた。現在は、とてもそんな時間はないが、2〜3週間お付き合い(特訓)すれば、ボールとバットはもっと強い恋愛関係になりそうだ。 5日は土浦から水戸へ出て、茨城県歯科医師会主催の講演会へ。終わって再び土浦へ戻り、タクシーで筑波山のホテルへ。筑波山は前から1度は行かねばと思っていたから、ひとつの課題をこなした事になる。
6日はホテルまで岡田慎一郎氏に迎えに来てもらい、30分ほどのところにある岡田氏宅へ。江戸時代末に建てられたという長屋門を入り、庭に隣接した柿林のはずれに三脚を立ててもらい、ここで打剣。典型的な日本の里山を背に、夏の夕方、剣を打っていると2時間くらいのつもりが結局夕闇が迫る頃までやってしまった。私は努力しているという気は微塵もなく、こんな、又とない環境を得て止めるに止められず、という感じなのだが、これも他人が見たら努力に見えるのかもしれない。
それにしても私の場合、自分の仕事の一番核になっている部分が、私にとって一番気持ちの上でも得難い楽しみな時間なのだから、やはり今の私の仕事は一番私の性に合っているのだろう。ただ、そこから派生してくる、本を書いたり人に説明するという私の収入につながる仕事の部分は、これも決して嫌いではないのだが、あまりにも数多くこんがらかっているので、今はそれがストレスになっているのだと思う。
追記 以上1日分/掲載日 平成16年8月7日(土) |
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2004年8月8日(日)
何とか時間をつくって目前に迫った雑誌のゲラの校正をしているが、校正する意欲を殺がれる編集の粗雑さには本当に嫌になる。三部やっているが、最もひどいO誌は、この前も書いたように赤を入れようもない白ヌキのゲラ(電話で普通の原稿を送ってもらうように申し入れたが)の上、殆どそのまま入れれば記事として使える、私が校正済みのI女史の文章を送ってあるにも関わらず、妙なふうに言い換えているところが何ヶ所もある。 以上1日分/掲載日 平成16年8月8日(日) |
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2004年8月13日(金)
昨日は、二子玉川駅近くの社団法人整体協会本部道場で催された、野口昭子整体協会会長の協会葬に参列した。
野口先生の許を辞してから、二子玉川の駅に出、そこからバスで5、6駅のところにあるH女史宅を訪れる。H女史とは、先ほどの葬儀で数年ぶりにお会いし、御自宅へお誘いを受けたのである。木彫作家のH女史と亡くなられたH女史の夫君H画伯とが、御一緒に開かれていた展覧会にお誘いを受けたのは、もう28年ほど前。その後勧められるままに何回か私が鍛造した鉄の燭台や火箸を一緒に並べさせて頂いた事があった。そんな縁からH画伯が亡くなられた後、現在では織手もいないような貴重な着物をたくさん頂いた。現在でも年間を通して私が着ている着物の六割(晩秋から春にかけては、その殆ど)が、その時頂いたものである。 以上1日分/掲載日 平成16年8月14日(土) |
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2004年8月15日(日)
今日は、昨日までの暑さが嘘のように10度以上も気温が下がり、蝉しぐれはもちろん、夕方になっても、昨日までの暑さのなか1週間ほど前から鳴き始めていた青松虫の声さえ殆ど聞かない静かな1日となった。 昨日は、いろいろと多くの方が来られたが、京都からの日帰りの人までいて、いったい全部で何人の来館者があったかはすぐには思い出せない。動きにあらたな気づきはあったが、何かもっと根本的な気づきとの出会いがないと、ただ、今の忙しさの中に埋まって自分を見失うのではないかという気がしてくる。その思いは、現在中国の韓競辰先生の許で、殆どこの8月いっぱい稽古をしている光岡英稔師に昨晩電話をして話しているうち一層ハッキリとしてきた。
どこか静かな山中へ『無門関』と『荘子』、それに最近M君らが解読してくれている『梅華集』『願立剣術物語』、それから無住心剣術の『前集』『中集』などを持って籠り、あらためて日本の武術について考えたいと思う。 以上1日分/掲載日 平成16年8月16日(月) |
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2004年8月23日(月)
「光陰矢ノ如シ、ツツシンデ雑用心スルコトナカレ」とは、山岡鉄舟居士が禅へ志すキッカケとなった大燈国師の遺戒の文章の中にあった一文だと思うが、その昔、深く山岡鉄舟の影響を受けた身としては、今この文を思い出すと何ともうしろめたい。
この随感録も、かなり間が空いてしまったが、先週は結構いろいろな事があった。19日はお台場近くの科学未来館で、失敗学の畑村洋太郎先生と公開トーク。これは東大の跡見順子先生からの要請で伺ったのだが、何人もの科学者の方の反応が予想以上に好意的というか、事実に対して率直で、時間をつくって伺った甲斐があったと思った。 20日はNHKFMの『日曜喫茶室』の収録のため、渋谷のNHKスタジオへ。この日は、ピーター(池畑慎之介)氏と対談。他はホストのはかま満緒氏と荻野アンナ女史、ホステスの小泉女史。ピーター氏は話していて、その頭の回転の早さが気持ちよかった。時間があれば、その後もいろいろと話をしたい御様子だったが、既に次の仕事先への時間が押しているとの事で、マネージャーの方の名刺に御自身の電話番号を書き込んで、「また今度、是非」と言われながら慌しくスタジオを出て行かれた。 その後、この日はフルートの白川女史のコンサートに招かれていたので、ルーテル市ヶ谷へ。吹奏を直に拝見して、動きと音の間には、実に密接な関係があることを確信する。 以上ザッと書いたが、この間いろいろと印象的な方との出会いがあった。補遺的に記すと、19日は会の後、毛利衛氏が見えられ御挨拶する。又、この半年ほどずっと消息を気にしていたE氏から会の後の打ち上げで声をかけられて驚いた。今は世を忍ぶ身との事だったが、宿題を果たし、また大いに活躍して頂きたい。
それにしてもやる事の多さには参る。とにかく余りにも多いので、何かやっていても、「いや、あれがあった、これの他にあれをやらねば…。いや、あれより、あっちが先だ」と次々に頭に浮かぶから浮足だって一つのことに集中出来ない。 以上1日分/掲載日 平成16年8月23日(月) |
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2004年8月31日(火)
次々と新しい本の企画や、制作途中の本の問い合わせが入るが、今は片づけを最優先にしている。1週間ほど前から大量の本や雑誌、テープその他諸々の物品整理のため、ついに道場近くのアパートの1室を借り、そこに荷物を運び込んで、道場や部屋の立て直しに入っている。ともすると、つい急ぎの校正やら本の制作のための調べものや執筆をしがちだが、極力片づけに向かっている。
ただ、技の上での発見や気づきには、つい時間を割いてしまうし、25日は私への殆ど無かった夏休みの1つとして、板橋区の区立熱帯環境植物舘へ、写真家、吉田繁氏が撮影した世界の巨樹の写真を見に行く。印象的なものはいくつもあったが、周囲45メートル10センチという世界最大のバオバブの巨木の写真には圧倒された。 と、ここまで3日ほど前に書いてから筆が止まっていた。理由は片づけながら稽古をしたり、種々の依頼に対応していたからだが、それにしても「どうして?」と言いたくなるほど時間がすくってもすくっても、ドンドン指の間をすり抜けるようにして消えてゆく。気づけば今日で8月も終わる。 ただ、この間、身体の使い方ではいくつか書き残せる発見や気づきがあった。まず、26日に気づいたのだが、抜刀術などの時、太刀1本を帯びるよりも、大小二振、つまり脇差も帯びた方が動きの焦点が決まって動きやすくなっていた。以前は大小二振帯びると、太刀の抜き差しもやりにくいし、「昔の人は一体どうしていたのだろう」と思ったりしたものだが、久しぶりに大小二振を腰に帯びてみて、以前とは全く違い、むしろ「この方がいいなあ」と思えた事に少しだけ気持ちが高まった。そして、この体験により、武蔵が『五輪書』のなかで、「脇差の鞘に腹をもたせて帯のくつろがざるやうに くさびをしむるといふ教へあり」と述べていたことが、具体的実感を伴ってひとつ分かった気がした。 それから、ごく最近になって久しぶりに下丹田の集約について思いを絞って工夫している。下丹田の重要さは今更述べるまでもないが、白井享・天真兵法開祖や、肥田春充・肥田式強健術創始者といった先人は、宝くじにでも当ったかのように、修行を始めてから比較的早いうちに丹田の実感を得られたため、その後の飛躍的進歩があったのだろうが、一般人は中々そうもいかない。現に「無住心剣術は素晴らしいが、練丹という手掛かりがないから後の人間が上達しようもない」と述べていた白井享に、他流にまで名を噂されるような後継者は一人も育っていないし、あれだけ明確に丹田(正中心)の解明をした肥田翁の後にも、肥田式強健術を実践して傑出した能力を開花させた事を衆人が認めるような人物は皆無である。それだけに丹田については、しばらく手つかずだった私だが、打剣の工夫などで、又あらためて取り組んでみる気になってきた。 そうした折、今日、宇田川氏から『武田真里谷家譜』の解読文が届いた。これによると、一雲の門人であった初代真里谷円四郎、つまり義旭は久留米藩から五百石で召し抱えの話があったようだが、自分は断って嫡男を出仕させている。また、三代目の円四郎信栄は、子供の頃は凡庸だったようだが、大病を経て傑出した使い手となり、又、この代で真里谷の剣名が挙がりかけたが惜しくも壮年にして逝ったという。この信栄こそ、かつて私が三田の南台寺の過去帳で見た義性院大道哲勇居士の居士号をもつ人物である。
片づけをしていても、このように興味のある事実に出会えば忽ち2〜3時間は飛んでしまう。そこへ新しい企画の話が今日も2件。 以上1日分/掲載日 平成16年9月1日(水) |
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