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2004年10月1日(金)

 いま仙台での稽古会のため、会場の宮城県青年会館に着いたのだが、時間が早かったため、会場に付設しているレストランの"テラス"で、これを書いている。他にも本の校正2冊分を持っているのだが、ここでそれらの用件を措いてもこの随感録を書こうと思ったのは、このレストランのメニューにあった山ぶどうジュースを注文したところ、本当の山ぶどうで、これがアルコール抜きのワインのような味で、感動的なほど甘くなかったためである。きっと料理に合うだろう。現代これほど甘くないジュースをレストランで出すという事は珍しいと思う。是非今後もこの姿勢を続けて欲しいものだ。
 今回、会場に早めに着いたのは、昨日から仙台入りしていたためもある。木立に囲まれた、ちょっと都会とは思えない旅館で、雑誌『オール読物』誌の依頼による対談。対談相手は時代小説作家の高橋義夫氏。藤沢周平作品について語ってほしいとの依頼だったが、その枠からは、かなりはみ出した話をしてしまったかも知れない。そして後はひたすら手紙書きと校正、原稿書き。
 ただ、マリナーズのイチロー選手のリーグ最多安打に関するニュースは、どうしても見てしまう。先ほど12時少し前、新記録達成の時は、居残って校正をしていた旅館の部屋で、1人テレビに向かって思わず拍手を送ってしまった。
 もしも今後直接会って話すような機会があれば、かなり突っ込んだ面白い会話が出来そうだ。最近は、しばしば誰か対談したい人はいませんか?と出版社等から尋ねられて、あまり積極的な返事をした事がないが、彼、イチロー選手なら会って話してみたいと思った。

以上1日分/掲載日 平成16年10月2日(土)


2004年10月3日(日)

 何がどう作用したのか分からないが、2日の仙台での稽古会は最近になく体調が良く、稽古中も術理の説明に様々なたとえが口から飛び出し、それを聞きながら、また更に動きが進展していった。
 今回の動きの進展の元は、先週の27日に気がついた身体各部の「追い越し禁止」の交通規制を始めたからである。これは非常口に殺到すると、うまく人が流れない例でも分かるが、アソビをつくらず流れるように動けという『願立剣術物語』の教えとも重なる。この事の"たとえ"としては、糸電話は引っ張りすぎたら切れるし、弛んだら音がうまく伝わらないというものも何かピッタリくる。
 この"たとえ"は、つい最近思いついたが、以前にも似た事は言っていたかも知れない。「追い越し禁止」の言葉を思いついたのも、何年か前、信州の江崎氏から、打剣方法で「逆走禁止」「追い越し禁止」という言葉を使った稽古研究の近況報告の手紙をもらった記憶があり、多分意識の奥に、この印象的フレーズが残っていたからのように思う。したがって、もっと早めにこの術理を思いついていても良かったような気もするが、単に言葉の上と感覚として備わるというのは別の事なのだろう。
 今回の「追い越し禁止」に関連して、「細い竹竿でもかなり大きな岩も支えられる。但し、撓まぬように絶えず方向を整えていれば…」というたとえも使っているが、これはかなり前に私が思いついたもので、昔の私の本の中のどこかに書いてあったと思う。しかし、これを書いた時は、現在のような「追い越し禁止」の感覚による上腕部の解放は見つけられなかった。尤も、上腕部の解放の重要さについては10年以上も前から、しばしば語ってきたので憶えている方々も少なくはないと思う。ただ、この上腕部位のなかでも、特にぎこちなさが浮き出てくる三角筋の具体的解放方法が分からなかった。
 これが、まがりなりにも分かってきたのは、既に述べたかと思うが、9月の20日に四国で稽古会をした後、世話人の守氏にホテルまで送ってもらった時に、その守氏とホテルの部屋で稽古した時であり、その時の気づきは、その前夜に岡山で韓氏意拳日本分館の責任者、光岡英稔師と朝までいろいろと話し、多くのヒントを頂いたからのように思う。(光岡師からは、30日の夜もお電話を頂き、ついつい小1時間ほど話してしまった)
 この追い越し禁止に関連して、やはり数日前に気づいた、「刀に振られず、振らず」刀を扱えないものか、という事も、その微妙底を得れば、「今までとは全く違った景色が見られそうだ」という感覚が芽生えてきたので、これについて、やはり稽古会で解説しながら太刀を振ってみて、現在の自分がいかに未熟者であるかという事を、これは全く謙遜などではなく、殆ど感動的な思いで味わった。
 この「振らず、振られず」の"微妙底"が分かるという事は、例えて言えば、外から見れば野原に厚さ10センチの塀があるが、その塀に付いているドアを開くと、何だか下へ降りていく長い階段があるというような世界のような気がする。(この"たとえ"も以前どこかで言ったか書いたかしたが…)
 自分で自分の動きの変化に目が離せないというのは、何だかちょっと高揚した気分になる。

 そして今日3日は、午前中仙台での稽古。上腕部を中間管理職にたとえたりして、いろいろと解説する。
 また、左右の2人に右手と左手をそれぞれ両手で掴まれた場合への対応で、両方から持ってくれているから、却って片手では出来ない姿勢がとれ、相手に動きを予測させないというやり方があるのだという事に思いがけず気づいて、これは収穫だった。
 午後からはS女史に送られて炭焼きの佐藤宅へ。明日はここで『アエラ』誌の「現代の肖像」の写真撮影がある。

以上1日分/掲載日 平成16年10月4日(月)


2004年10月7日(木)

 10月5日遅く、5日に渡る東北での旅を終えて帰宅。今回はこの留守の間に届いた郵便物を見る暇もなく持ち帰ったものの、整理やら、帰宅の翌日から連日複数は入っている用件への対応のやり方等を考えているうちに午前4時。久しぶりに約7時間、11時すぎまで寝て、ちょっと休めた感じはしたが、その分6日に出かけるまでの時間が少なくなってしまい大慌て。そこへ学研の椎原氏から電話。またまたナンバに関するムック本の企画で、どうしても協力して欲しいとの事。
 学研のムック本は、今まで著者の意向を無視するような誌面づくりもなかったし、協力してもいいとは思っていたが、何しろ時間がない。そこで、グズグズと迫力のない断り方をしているうちに、4日の夜東北で陸上競技の女子中距離で、日本記録を持っているY選手からの要望で会い、私の考えている走行法の原理を話し、深夜の駐車場でY選手と共にいろいろ走った事を思い出してしまった。
 その時、Y選手から、ナンバドリルとして片足ずつに体重をかけて走るトレーニング法が最近紹介されているとの話を聞き、内容からいって、どうみても脚足に害がありそうなので呆れてしまったのだが、椎原氏の話を聞いているうち、ナンバというと私にも責任がないわけでもないので、おかしなナンバ・トレーニングを注意するためにも、時間をつくるのは大変辛かったが、取材を受けることにした。
 そうした電話を受けつつも、その後昼食は家のなかを歩きながらとり、3時過ぎに家を出て、角川書店で本の企画の打ち合わせをし、その後新宿で音楽家の方々対象の講座。(この講座はいくつか新しい発見があったが、書いているヒマがない。いずれ又、書くことでご容赦頂きたい)

 そして、今日は蔵前の稽古会だが、その前に急遽入った面会というかミニ講座があり、明日は池袋のコミュニティカレッジ。ただ、その前に数年ぶりに梶川泰司氏と会う約束を東北旅行中に入れたので、いま凄まじい状態の道場の片づけをしなければならず、池袋の講座の後は、今回はいつものように喫茶店にも寄らず、新宿発の列車で山梨へ。
 9日は山梨県歯科医師会主宰の講演会。これは若干一般参加も可能なようなので、御関心のある方は山梨県歯科医師会055−252−6481までお問い合わせ頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成16年10月7日(木)


2004年10月8日(金)

 台風22号が接近しているが、私の身辺も既にその台風に巻き込まれているような状況。昨日7日は午後2時から10時頃まで、場所は3度変わったが、殆ど喋り詰めの動き通し。さすがに帰路は疲れがドッと出た。
 しかし、帰り着けば、今日8日からの一連の予定(池袋コミュニティ・カレッジの後、甲府へ。そして9日は山梨県歯科医師会での講演会)の準備が待っている。とにかく3時に久しぶりに梶川泰司氏来館なので、何とかそれまでに新潮社の本、冬弓舎の本、仮立舎の本、それぞれの後書きの進行を整理し、甲府に持ってゆくものは持って…と思っていると、岡山の光岡英稔師から電話。今日、東京での講習という事だったが、飛行機の都合で、東京に早く着くので伺いたいとの事。もちろん大歓迎だが、これはちょっと時間が…と思ったが、僅かでも会えれば又何か刺激を受けられる。「もうこうなったら、なるようになれ」と思って寝る。

 起きてから、それなりにいろいろやったが、5時間あると思っていた用意の時間が2時間となると、実際はやる事の多さに振り回され、道場の半分ほどが動けるスペースになった程度。忽ち時間が経ち、光岡師を羽田空港に迎えに出ていたK氏から電話。先に自宅近くの自然食レストランへ行ってもらい、私は手足に絡みつくような諸々の用事に無理に折り合いをつけて合流。食事後、道場まで3人で戻り、技の話などをしているうち、梶川氏来館。
 数年ぶりに見る梶川氏の彫りの深い顔立ちは、白いものが混じったアゴヒゲ以外は殆ど変わりなかった。光岡英稔、梶川泰司という2人の天才の顔合わせは、梶川氏がいま取り組まれているテンセグリティの話で一気に間が縮まり、濃い空間が現出した。
 テンセグリティは構造力学の専門家が、「こんな細くて弱いもので、そんな大きな構造物が出来る筈がない」という常識を覆すような極めて精妙な構造で、最近は人間の細胞構造のモデルとしても考えられているという。
 お二人に来て頂き、結果としては「来て頂いて良かった」という感想が残ったが、当然の事ながら、さまざまな用件は繰り延べに…。多少なりとも、今夜甲府に向かう"かいじ"の車中で進めたいと思っている。

 来週は15日の倉吉を皮切りに、16日四国、17日大分とまわるが、16日の四国松山は、団体のキャンセルがあり、かなり余裕があるとの事である。御関心のある方はどうぞ。

以上1日分/掲載日 平成16年10月9日(土)


2004年10月14日(木)

 9日、台風22号直撃の予測の出ていた山梨県は、強めの雨以外は全く台風を思わせる風もなく、山梨県甲府市歯科医師会での講座は予想以上の方々に集まって頂いた。今回は2泊にわたって旧知のN氏宅に泊めていただき、大変お世話になった。この場を借りて深く御礼を申し上げたい。
 10日は、このN氏宅から千代田の会へ直行。当初は十分に時間がある筈だったが、色々と話が弾み、16時10分発の"かいじ"に乗るのは危なそうになったので石和で乗る事にし、N氏ご夫妻らに車で送って頂くことになったが、幹線道路に出てみると、これが渋滞。空いていれば5分ほどのところだが、15分ではかなり危なそう。ただ、私は不思議なことに、会を持って地方に出かけるようになってから(もっとも会は昨年解散したが)26年になるが、この間あらかじめ取っておいたチケットの列車に乗ろうとして駅に急ぎ、乗り遅れたという経験がない。(完全に遅れることが分かって、予定を変えたことはあるが)何度かは、下駄を履いたままでは間に合わないので、下駄を手に持って裸足で階段を駆け上がった事もあったが、とにかく1度も乗り遅れたことがないのである。
 したがって、今回もその運に身を委ね、遅れたら遅れたで、また対処を考えようと気持ちを落ち着けていたから、殆ど焦る気は起きなかった。(私よりもN氏夫人の方が気を揉まれ、もし乗り遅れたら中央高速を東京まで私を送り届けそうな気配だった)そうした思いが通じたのか、今回も私の伝説は守られ、下駄をぬぐほどでもなく(といっても下駄のまま階段を駆け上がってホームに着いた時は、列車には既に多くの人が乗り込んでおり、私が乗ってからドアが閉まるまで20秒はなかったと思う)、とにかくお蔭で千代田の会にも何とか間に合い、先日から考えていた走法(前足は常に邪魔者になるので、如何にこれを早く消すか)について、以前よりも突っ込んだ展開ができた。
 その事から、12日は体術の「追い越し禁止」の術理で、同側の切込入身などで、「脇腹からの追い越し禁止」を発見、技によって格段に利きが上がってきた。しかし、バンパーをつけた何十台もの自動車が、離れもせず無用に押す事もなしに一列になって動くような、実に微妙な働きを生み出さねばならないので、今までより動きが数ランク難しくなっている。しかし、気づいた以上は、今後これを追求するしかない。

 そして昨日13日は、新しいナンバのムック本作成のためのインタビューと写真撮りがあり、その後すぐ、私はミズノ株式会社とミズノ・トラック・クラブ主宰による「アテネオリンピック感謝の夕べ」へ。
 これは、ハンマー投げの室伏広治選手の祝勝会と、ミズノ・トラック・クラブからオリンピックに出場した5人の選手の報告会を兼ねたもの。私に招待状が来るとは考えてもいなかったが、恐らくは、室伏選手が私を招待客リストに入れられたのだろうと思い、ハンマー投げの体の使い方に関しては、最近有効と思われる事に気づいたこともあるので、何とか予定をやりくりして出席することにしたのである。
 会場は、赤坂プリンスホテルの新館。体育館なみの広い宴会場に、ざっと千人近くの人が集まっていたと思う。しかし、その中で私の知り合いといえば、当の室伏選手と、アテネで110メートル・ハードルの日本記録を出した谷川聡選手の2人だけ。(谷川選手は約3年前に来館され、近くの公園で一緒に走った事がある)私を見て「ああ」というような顔をする人は何人も見かけたが、会場で話しかけて来た人は、スポーツ店を経営する人2人と、テレビのスポーツ担当アナウンサーの3名だけだった。そのため、私が会場で一番長く話したのは谷川選手で、次が室伏選手、そして室伏選手の父君室伏重信コーチぐらいだった。
 もちろん話は専ら体の使い方に関すること。室伏選手からは、昨年9月九州で会った時に私が話した足裏の垂直離陸を「ハンマー投げのフォームを考える上で参考にさせてもらいました」と礼を言って頂いた。谷川聡選手が「さすがミズノ・トラック・クラブのチームリーダーだな」と感心したのは、私と話し込んでいる最中に、会場スタッフが、選手挨拶のため再度壇上へ上がる時間がきた事を伝えに来た時である。話を打ち切り、「では、又いつか」と別れようとする私を、谷川選手に「すみません、ご一緒に写真を撮って頂けませんか?」と呼び止められたのである。谷川選手の中に、私と一緒に記念撮影をしたいという思いもあったのかも知れないが、話を打ち切らざるを得なくなった私に対する、ごく自然な配慮が、その言葉の響きに込められていて感じ入ってしまった。
 このように、この"感謝の夕べ"は、時間を割いても行っただけの事はあったのだが、詰まりに詰まっている予定に無理やりこじ入れた約6時間はかなり手痛く、本来なら今日大阪入りして名越氏に会い、翌日倉吉の講演会に行くつもりだったが、結局、明日大阪には寄らずに、そのまま倉吉へ直行することになってしまった。

以上1日分/掲載日 平成16年10月15日(金)


2004年10月15日(金)

 今日、夕方から倉吉である講演のため、いま現地に向かう"のぞみ"の車中でこれを書いている。これから大阪に出て、そこから倉吉には特急"はくと"に乗り換えて行く予定。
 昨日一日出発予定を延ばし、光岡氏との共著ゲラの仕上げをするのが一番の仕事だった筈なのに、「まず、これをやってから落ち着いて取り組もう」と思って、さまざまな用件をこなしているうちに午前3時。そこで、急用を思い出し、結局寝たのは4時すぎ。昨日一番メインになる筈の仕事を、睡眠時間3時間で明けた新幹線の中でやるハメに…。何だか情けなくて泣きたい気分だった。最近、「本職雑用」は益々酷くなる一方。その割に技の進展があるのは我ながらよくやると思うほどである。
 しかし、つくづく自分の性格は人を雇えないと思う。先日も1人、人を頼んで整理を手伝ってもらったのだが、段ボール箱の開け方から紙の捨て方まで気になってしようがない。以前から人任せに出来ない性質とは思っていたが困ったものだ。
 この春頃、探検隊の故植村直己氏が、なぜ冒険には単独で行くのか、についての理由を書いた本を読んだ時すごく共感出来たが、こうした体癖はホントにどうしようもない。まったく体癖とはよく研究したものだと、野口晴哉、野口裕之両師の慧眼には頭が下がる。

 そういえば、本来なら今朝まで泊まっていた筈の、大阪の精神科医・名越康文氏の新著『キャラッ8』(幻冬舎刊)は、この本の売れない時に、凄まじい売れ行きのようだ。ご本人は未だに否定しているが、"時代の寵児"として大ブレイクは目前だろう。『アエラ』誌の「現代の肖像」にもそろそろ登場の頃だと思う。多分ここ何回目かのうちには、藤井誠二氏の筆で載ると思う。そこには私の語る「名医 名越康文医師」も若干の行数が割かれているだろう。もっとも、これは他人事でもない。昨夜は予定通りなら、名越氏は、今度は私がマナイタに載る「現代の肖像」のために「甲野善紀とはいかなる人物か」を、ライターのユン氏に語っていた筈だからである。それが出るのは、どうやら新潮社の足立女史の念力が利いてか、年明けになると思う。(来年の1月には、新潮社から私と田中聡氏の共著が出る予定なので…)
 それにしても、足立女史の本の制作進行の進め方は見事。忙しい著者を、忙しいからこそ忘れられないように、しかも、うるさがられないように巧みに誘導して囲い込む。なんでも、新潮社にはそうした事が神技的に上手な編集者が存在していて、足立女史は、その人の門人らしいが、こうした職人技は是非代々受け継いでいって頂きたい。

 こんなふうに気楽に書いていたら、泣きたい気分も納まってきた。それは、"スーパーはくと"の車窓から見える、久しぶりに晴れ上がった秋空と海や松が見えるお蔭もあるが、どうも私は書くことが好きらしい。
 私を雑用から解放し、いい話し相手と場所を確保してもらったら、際限なく文章が出来そうだが、これはあり得ない話なので、いまの言葉に関心を示されたその筋の方は読まなかったことにして頂きたい。と言いつつ、昨日じつは又1件対談企画を受けてしまった。この春、雑誌で対談をした旧知の方で、話の通りもよかったので、企画好きの私はつい承諾してしまったのである。どうも話が通る人からの依頼を断るのは難しい。これで、ますます来年4月からの休業は確定してきた。とにかく例外をつくると、そこから堤防はなし崩しに崩壊しそうなので、例外なく完全休業にするつもりである。

以上1日分/掲載日 平成16年10月18日(月)


2004年10月16日(土)

 昨日に続いて久しぶりに見る秋晴れの空のもと、朝9時すぎに倉吉を発ち、中国山地を横断して岡山に出、そこから更に特急に乗り換え丸亀に。ここから守氏の車で松山へ。直線距離なら百数十キロと思われるところが6時間近くかかったが、久しぶりに見た典型的な里山の風景と秋らしい中国地方と四国の山々に6時間も苦にならなかった。
 倉吉で一番得ることがあったのは、沖縄の漁船サバニについて、私を呼んで下さった牧田氏から資料を頂いたこと。こうした道具の話は私にとってたまらない魅力だ。

以上1日分/掲載日 平成16年10月18日(月)


2004年10月17日(日)

昨夕、初めて大分県で行なった講習会と、その後の打ち上げも終わってホテルに入ると、光岡師から電話が入った。出てみると、後世に遺すため、近代武術史に新に刻まれるべき、一つの事実が確定したことを知らされ、しばし呆然とする。予感は、かなり強くあったが、事実は重い。今は、これしか書けないが、近いうちに事実を整理して書くつもりなので、ご容赦いただきたい。

以上1日分/掲載日 平成16年10月18日(月)


2004年10月19日(火)

 10月18日に、この随感録で発表した「近代武術史に新たに刻まれるべき1つの事実」とは、近代になって中国武術の革命家と謳われた、意拳創始者、王向斎老師の高弟中でも傑出し、韓氏意拳を打ち立てられた韓星橋老師が逝去されたということである。
 10月17日の夜、韓星橋老師の入室弟子である光岡英稔師から電話を頂き、同日夕刻、韓星橋老師が亡くなったことを知った。享年96歳とのことである。昨年、星橋老師が95歳の御高齢で、光岡師を入室弟子とされた時、王老師から受け継がれた御自身の技を広く後世に託すにふさわしい人物との出会いを果たし、何か肩の荷を下ろされたように思われたのではないかと感じていただけに、心中このような日が、そう遠くないうちに来るにではないかと密かに恐れていた。それだけに、光岡師が今月はじめて単身で中国に渡られるという予定を聞いた時、(今までは常に何人もの同行者があり、その面倒をみられるのにかなりの時間を割かれていた)私は、「それは是非行かれた方がいいですよ」と強く賛意を示したが、この時なぜか夏以来体調を崩されているという星橋老師の身を案ずる思いが、どう否定しようもないほどに強くあった。
 そのため、17日の夜、大分のホテルで光岡師からの電話を受けた時、何か自分があらかじめ決められているドラマの中に身を置いているような、実に不思議な感覚があった。もちろん星橋老師の御逝去を悼む気持ちは深いが、武術史に名を遺された星橋老師ほどの方となると(なにしろ、あの王向斎老師が唯一「これが意拳の動きである」という事を示す拳舞を他流派の人々の前でも演武することを許可された唯一の門人であり、生前から伝説の方となられていた)すでに、その存在自体が武術史の一頁であり、光岡英稔という人物を、その人生の最後に得て、安心して人生の幕を引かれたお姿が、実に星橋老師にふさわしいと映ったからである。聞けば、前日、光岡師が日本から持参した見舞いの品を大変喜ばれていたという。

 亡くなった方には力がある。
 これは私自身3年前に母を亡くして実感したし、今年の夏、野口昭子整体協会会長が亡くなった折も、いろいろ耳にしたが、おそらく韓氏意拳の今後の展開は、今までとは違った勢いが出てくるだろう。韓氏意拳に価値があるのは端的に言って、今後その活動の中核となられる韓競辰老師が、ただ星橋老師の血を引かれているという事ではなく、その技術を確かに受け継がれ、実力においても抜群のものを持たれていることにある。
 唯ひとつ気になることは、意拳のこととなると何もかも忘れてしまわれるほど集中される競辰老師の許に、今後多くの人が教えを受けに行かれると、御自身の情熱によって、どうしても無理を重ねられるのではないかという事である。
 ここで、昨年自分の会を解散した私が言うのもおかしなことだが、光岡師が率いられている韓氏意拳日本分館・内家武学研究会は、今後しっかりとした組織を整え、かけがえのない意拳の体現者である韓競辰老師に極力ご負担のかからないようにする必要があると思う。
 そうなると、光岡師の責任は益々重くなると思うが、それは背負っていって頂かねばならないだろう。なぜなら光岡師は、韓競辰老師に「あなたを教えている時が一番楽しい。なぜなら、あなたほど速やかに私の言うことを理解してくれる人はいないからだ」とまで、入室一年目で言われるほどの存在となられているのだから。
 この私の発言に「他会派の事に、ここまで口を出すのは如何なものか」と思われる向きもおありかと思うが、実は私は光岡師からの要望で韓氏意拳日本分館・内家武学研究会の顧問を務めており、この会のことは他人事ではないのである。
 何やら旅先で思いが溢れ、一気に書いてしまったが、最後に韓星橋老師の御業績に深く敬意を表し、御冥福を心よりお祈りしたい。

以上1日分/掲載日 平成16年10月19日(火)


2004年10月22日(金)

 19日夜、台風23号に追われるようにして帰宅する。
 18日は、冬弓舎の内浦氏と大阪駅で会い、光岡英稔師との共著『武学探究』の初校ゲラ作りへの、ほぼ最後となる打ち合せをする。
 韓星橋先生が逝去されたので、進行が少し変わってくると思うが、ここ2,3ヶ月以内には刊行できると思う。
 内浦氏との打ち合わせの後、名越クリニックへ。その後、2人で名越氏のマンションに1度帰ってから、名越氏おすすめの蕎麦の店『蔦屋』へゆく。蕎麦屋へ行って、もしそこで「蕎麦がき」が出来るなら、私は必ず「蕎麦がき」だが、この蔦屋の「蕎麦がき」は、今まで私が食べたなかでもベスト3には入る。その食感は、かの野尻湖の「藤岡」を思い出した。それと同時に、この店で見せてもらった栗材で出来た肉厚な椀にはすっかり魅せられてしまい、生駒で作っているというその椀の入手を店の人に依頼してしまった。
 この店を出てから名越氏宅で寝るまでの数時間と、19日、起きて名越氏が出かけるまでの2時間ほどの間、久しぶりに時間を十分とって話すことが出来たが、名越氏が現在置かれている状況のキツさは、私の想像以上だった。

 19日夜、帰宅してみると、届いていた郵便物のなかに緊急に返事を出さねばならないものがあり、疲れてはいたが19日から20日にかけて2時間ほどの睡眠で諸用をこなす。さすがに20日は午後10時すぎに休み、約11時間寝たが、21日はいろいろと人が来て、最後に祥伝社の編集S氏と荻野アンナ女史を送り出した時は10時をまわっていて、いささかフラフラだった。(アシスタントをして下さったTさん、お疲れ様でした)
 しかし、あちこちから気の抜けない電話もあって、この夜もすぐには休めず、寝たのは2時すぎ。ただ、この晩も8時間以上寝て、22日はようやく、ほぼ普段の体調に戻ってきた。ただ、寝起きは全身のだるさと筋肉痛が伴い、やはり相当無理をしたのだという実感があった。
 ただ、この間も技の気づきはあり、極短距離走と切込入身、突き技の応用等に進展があった。これらは、いずれも足裏の垂直離陸と、追い越し禁止、逆走禁止の原理を組み合わせて進展させたもの。

 今日22日は『婦人公論』11月7日号が発売されたが、今回の号の特集「工夫しだいで介護は変わる」のなかで、私が3ページ写真入りで介護法の解説をしているので、御関心のある方は御覧になって頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成16年10月22日(金)


2004年10月30日(土)

 「塵もつもれば山になる」。ごくごく当たり前の事だが、最近このことが身に沁みて実感される。どう実感されるかと言うと、いまの私の忙しさについてである。今日24日も神田での講座。昼近くに家を出れば間に合う予定だったので、まだ3時間あると、9時前から気になっていた手紙を書き、それに関連した調べ物やら片づけをしていたら、忽ち家を出るまで後1時間。そこへ宅配便でゲラが届く。電話がある。FAXが来る。講座に持っていくものを揃えたりとしているうちにタイムアップ。
 予定より電車を2つ遅らせて片づけに後ろ髪を引かれながらも飛び出す。講座が終わっての打ち上げも、次の予定があるので、まだ料理が出始めの段階で再び飛び出す。よく考えてみると、ほんの2,3分の用事が、結局積み重なって1時間にもなる。「塵もつもれば山になる」を実感する。

 このことに関連して思い出したが、私に用件があって手紙を下さる方は、どうか電話番号も書き添えて頂きたい。番号が書いてあれば、すぐ電話できたものが、それを調べようとしているうちに1週間経ち、十日経ちという事が珍しくない。もちろん、私が住所録等を整備していればいいのだが、とにかく増え続ける連絡先に、とてもではないが追いつかない。それでも今度力強い助っ人を頼むことにしたので、住所録の件は何とかなりそうだが、ドンドン増えるので、やはり連絡先の電話は必ずその都度記入していただきたい。

 と、ここまで書いてから、既に1週間。この間、世の中にはいろいろな事があったが、私も断続的に旅館に2度のカンヅメ。それも稽古会や講演が終わった後で籠もり、しかも、そのカンヅメ明けの夕方には自宅に人が来るという綱渡りの日程。世の中の混乱に関しても、私なりに書きたい事もあるが、状況があまりにも複雑なので、私もさすがにここでは書く事を控え、今は自分の内側にこれらの問題を向けて考えてみたい。

 ただ、技は進展がある。特に、ここ10日ばかりの間の変化は、自分でもいぶかしく思えるほどだ。これらは一連の「追い越し禁止」からの進展だが、それらの基盤になっているものは、足裏の垂直離陸によるアソビのとり方。上腕の、特に三角筋にストレスを与えないこと。体幹の落ちにブレーキをかけないこと。
 とにかく自分でも信じられない思いがするのは、下体の緊張に比べ、なぜこんなに抜けていて技が利くのかと思うほど、抜けた上腕をはじめとする前腕と手の状態。
 手を上げる時、その指先にB5の大きさの紙(コピーなどに使う上質紙)を持ち上げるぐらいが、ちょうどピッタリくる。このB5の紙というのがミソで、ティッシュ・ペーパーでは軽すぎるし、B4では大きすぎ(A4ぐらいなら、まあB5に近いが)、ハガキなどの硬めの紙では、手のなじみが悪いので指に力が入ってしまう。
 B5の紙の大きさ、しなり具合と、この重さがちょうど良いぐらいなのだ。B5を1枚とはいえ持っているから、いわゆる脱力の感覚とは違うが、とにかく「こんなに力を抜いて相手に通用するのかな」と、自分でも不安になるぐらいだが、その不安を感じているヒマもないくらい足裏あるいは膝を垂直離陸することに身体の工夫をすることが当面の私の課題である。
 しかし、「浪之下」や、同側の「切込」の時に、「追い越し禁止」を守るため、肋骨下端から下げる事と、その下にあって肋骨の動きを邪魔しがちな腸骨の消し方の工夫に気づいた事は、今回の一連の進展のきっかけの一つであったように思う。
 その後、今日30日に、いくつか気づきがあったが、今夜も家の電話と携帯の掛け持ちの上に、手はFAXを送っている状態なので、今日の気づきについては、ごく近いうちに書く事にしたい。

以上1日分/掲載日 平成16年10月31日(日)


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