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2007年 正月5日 (金)

 謹んで新年のお慶びを申し上げます。                       丁亥之年 正陽
 本年も多くの方々から御年賀状を頂きました。あらためて深く御礼申し上げます。

 年は明けたが、いざ明けてみると今年はただならぬことが起こりそうだと、何とも言えぬ緊張感が心中に生まれてくるのを覚える。
 すでに正月早々、兄が妹を殺してバラバラにするという事件が報道されている。家族の崩壊が近年しきりに危惧されているが、もう臨界点を越えているのかもしれない。そうした事について、昨日名越氏とひとしきり話をしたが、そのなかで「世の中がどんどんスピードアップして便利になってきているのに家族関係というのは便利にすることが出来ないでしょう。そのギャップで皆がイライラしてきているのが家族崩壊の根本的原因でしょうね」という見解を聞くことができたが、これには深く納得した。この深い納得は、現代日本の表面上の安全と豊かさが、自殺や精神的に病む人が増えた根本原因になっているという私の意見ともきわめてリンクしているように思えたからでもあろう。
 小説『夕日と拳銃』に昨年の11月にドイツでハマって現在に至っているのも、明治から大正、そして昭和の20年頃までという日本にまだ旧来の道徳意識や家族観が残っているなか反骨を貫いたような話だから、物語が物語として機能しているのだろう。つまり、何とも言えぬ懐かしさ、やすらぎ、そして解放感と同時に哀れさ、葛藤、潔さ、そういったものが同居している時代に、人間としてたまらなく惹かれるものを感じたからのように思われる。(勿論、ヨーロッパへ行って、私自身のなかに潜在的にあったアイデンティティがひどく揺さぶられた事が直接のきっかけだったが)
 私の武術の技も、そうした人が人であるということが感じられる動きであることを願っている。
 正月は、一人稽古のほか、来日中のD夫妻や三十年以上の武友である伊藤峯夫氏に三ヶ月ぶりくらいに私の技を受けてもらったりした。その結果、私の技が変わってきたことは、どうやら確かなようである。そう思える一つの理由は、昨年の11月から12月頃は、しきりに「こんな何でもないただの日常動作の応用をわざわざ時間と費用を使って聞きに来てもらうのは心苦しくて仕方がない」と言っていたのだが、今は別にそうした気持ちは起こらなくなってきたからである。勿論、以前から言っているように「この技が正しいとか、素晴らしい」などとは夢にも思わないが、「どうです。なかなか面白い考え方でしょう」「受けていただくと面白い感じがするでしょう」「人間の体と心の働きというのは面白いですよね」ぐらいな事は言えるような気持ちになってきた。
 たとえば、短刀、ナイフ等の技で下から斜めに切り上げ気味にしつつ、突然それが突きに転じる、つまり慣性力の統禦の動きなど今までは全く出来なかったが、下半身の使い方で2日にそれが可能になった時、ただの台車しか知らなかった者がキャスター付きの台車を初めて使った時はこんな感じがしたのかもしれないと思い、我ながら不思議な気持ちがした。(もっともキャスター構造と同じで、気づいてしまえば別にどうという事のない原理なのだが)
 しかし、やはり体幹の動きの重要性とその体幹を育てる稽古法の難しさは、あらためて実感させられている。
 氷結した道で滑った時の動きなどは、いい体幹養成の機会だが、それを普通の床の上でどう日常化し育てられるかが問題。私自身は"瀧入り"で打つ剣の動きにひとつの方向を見出しているが、まだまだあまりにも分からないことが多い。ただ、そうした身体各部で一斉に同時並列で起こっていることを論文形式で論述することは、とても出来るとは思えない。
 今年は気づいたことをどうやれば二次元的な単なる言葉の世界から脱して、各働きそれぞれを有機的につなげて立ち上げられるか、その工夫をして行きたいと思っている。
 しかし、いつまた思いがけない精神的葛藤に直面するかも知れず、こればかりは今から対策など立てようもない。

 今年もこれを読んで下さる方々の御参考になることも書くかもしれませんが、かえって惑わすようなことを書く恐れも十分にありますので、どうかそのおつもりで読んで頂きたいと思います。
 なにしろ私はもうそろそろ58歳になるというのに、不惑どころか迷い、惑い、精神年齢はまだ十代か二十代というところですから…。
 ところが、そんな私の話も聞いてみたいという方が、この頃は増えてこられているようですので有り難く思っております。ですが、そのために、最近は講座や講習会も満員でお断りすることがしばしばあるようで申し訳ありません。
 ただ、21日に介護福祉士の岡田慎一郎氏と紀伊国屋ホールで行なう対談は、さすがにまだ定員に余裕があるようですので、交通至便なところでもあり、お時間と御関心のある方はお越し下さい。

以上1日分/掲載日 平成19年1月6日(土)


2007年1月9日(火)

 7日は新潮社の足立真穂女史と吉祥寺シアターに、ベルギーの「ディープブルー」と「Co.山田うん」との国際共同制作のダンス「ひび」を観に行く。出演者は山田うん女史の他、一人だけのコンテンポラリーダンスだが、山田うん女史の存在があまりに見事で、あれでは共演者も辛いだろうと思った。
 山田うん女史とは、もう何年のお付き合いになるのか、ちょっと思い出せないが、5年くらいにはなると思う。田中聡氏との共著『身体から革命を起こす』でも登場して頂き、時々公演を観に伺っていたが、今回は圧倒的に凄かった。観ていて思ったのは、やはり命をかけてやっている人には、テクニックや才能でやっている人は到底及ばないという事だ。
 山田女史は、以前からいくつもの病気や怪我で本当に大変な道を歩いてこられているが、今回も従来の難病を抱えている上に追い打ちをかけるような大病の後、練習もままならぬまま舞台に立たれているのだが、普通の人間なら寝たきりになりかねない体を抱えて、その自分の体調の悪さも「闘病の日々が延々と続いており、体はますます曖昧な存在になるばかりです」と私に送ってこられたメールにも現れているように、その状態の悪さ自体をも作品にしてゆく姿は、根性があるとかいったレベルではなく、まさに山田うん女史自身がダンスと一体化しているといえるだろう。一緒に観た足立女史が「今日のうんさんは凄かったですねえ。鬼気迫りましたよー」と私にささやかれたが、ダンスという、実用的な立場から見れば必然性のない動きの連続な筈なのに、そこに何とも言い難い必然性を産み出しているのは、やはり人間は動物であり、生きているということは動くことであって、その「体が動くということに自分の生の証を求めている人の動きは、体が動くということの有り難さを日常感じてはいない普通人とは別次元のものになるのだなあ!」と思わざるを得なかった。会場は立ち見も出るほど満席だったが、これほどの実力を持ちながら、経営的にやりくりの厳しい「カンパニー山田うん」を後援する企業なり団体なりはないものかとつくづく思った。

 吉祥寺シアターの後は、風邪気味の足立女史と別れて荻窪で私のT社刊行予定の本を1冊丸ごと引き受けて頂いているK女史と打ち合わせ。編集者兼ライターとして稀有なセンスと実力を持たれているK女史に私が大感激したためか、現在もう1社からも私の本の依頼があり、さらにB社からも私とM氏との対談本の依頼が入っている有様で、流石のK女史もB社の依頼は「引き受けたい気持ちはあるのですが、物理的に無理なのでは…」と渋りがちだが、M氏との対談現場には是非伺いたいと持ち前のエディター精神にアクセルを踏み込まれているから実に頼もしい。
 私も書かねばならない原稿が何本もあるので、1時間半ぐらいで切り上げようと思ったのだが、話し始めてみると、何しろ話の通りがいい方だから、結局その倍の3時間ほど過ごしてしまった。
 そして本格的に正月休みも明けた今日あたりから、そろそろいろいろなところが動き始めてきている。明日は初めての仕事となる綾瀬でのIAC主催の講座だが、ここにも取材が絡んでいたように思うし、1日置いての12日の池袋コミュニティカレッジも2,3取材関係の人達と会う予定になっていたような気がする。

 いつもお願いしていることですが、インタビューや打ち合わせなど仕事関係で私に会う予定をお持ちの方は直前の確認をお願いします。また依頼原稿の催促もご遠慮なくお願い致します。そういった行為で機嫌を悪くする方もいらっしゃるようですが、私の場合はむしろ言って頂いた方が有り難いので出来る限り確認をとって頂きたいと思います。

追記
 この原稿を書いている最中、人の訪れる気配が…。出てみると、何と取材日がいつだったか気にはなっていたまま確認を怠っていた月刊『省エネルギー』の取材の方々。慌てて近くのレストランで小1時間ほど待って頂き、道場を片づけて取材に応じたが、あてにしていた原稿書きのための数時間が飛んでしまった。ダブルブッキングではなくて、まだ良かったが、こういう事になるので私とお約束のある方は事前確認を是非お願い致します。

以上1日分/掲載日 平成19年1月10日(水)


2007年1月11日(木)

 暖冬、暖冬と言われているが、ここ数日だいぶ冷え込んできた。ただ、そうは言っても私が十代の頃は、いまの季節、人が乗って跳びはねても割れない分厚い氷が池や沼の岸近くに張っていたから、その頃に比べればずいぶん暖かい。ただ、年令を重ね、暖房に慣らされ、ずいぶん寒さには弱くなった。十代の頃はどんなに寒くてもTシャツとセーターの重ね着で、およそコートというものを着たことがなかったから…。武術としての体の動きは現在が最も動けるが、耐寒力、視力などは往時の面影もなくなってきた。
 しかし正月休みが明けて、いろいろなところが動き始めると、こんなにも予定が詰まっていたのかと、いまさら青ざめるほど…。ちょっとした問い合わせの答えが何十もあるので、そのただ一言ですら何日も返せなくなってきている。御年賀状もたくさんの方々に頂きながら、殆どその御礼も出せず誠に心苦しいが御容赦頂きたい。
 ただ、直接お話し出来る機会としては、20日の名古屋の山口氏主催の稽古会21日の紀伊國屋の岡田慎一郎氏との公開対談は、まだ受付けに余裕があるとの事なので、御都合のつく方はどうぞ。
 今年に入って初めて行なった昨日の綾瀬の講座では、ここ何年か私の講座に常連で来ている人達が、今までで一番私の動きが変わったとの印象を持たれたらしいから、講座や公開対談に来て頂ければそれぞれの方が興味を持っていらっしゃる分野に、多少は御参考になることをお話ししたり、お目にかけられることが出来るかもしれない。

以上1日分/掲載日 平成19年1月12日(金)


2007年1月15日(月)

 14日、ここ数年来の課題であったクヌギの木の枝降ろしをした。このクヌギの木は、私が小学2〜3年生の頃、直径10センチくらいだったと記憶しているが、それから50年くらい経って、今や一抱えもある大木といってもいいほどの太さとなり、樹高も恐らく15メートル以上はあると思われる、我が家で最も大きな木となっている。
 身近に樹木がなければ生きていけないような私だが、隣家と3メートルほどある段差の境界に生えているこの木は、根の張り方がどうしても十分ではないので、台風などの大風を受けると隣家に倒れ込んでしまう恐れがあり、何とかしなければならないと気になっていたのである。伐採する気はもとよりないが、枝を降ろして風圧を受ける量を大幅に減らす必要性が年毎に高まってきていたのである。
 ただ、15メートル以上の木で隣家の屋根の上に広がっている枝を、隣家を損傷させずに伐り降ろすことは容易ではない。そこで、以前にも我が家の他の場所に生えている木の枝降ろしを頼んだY氏の知り合いで、そうした作業も数多くこなしているS氏とR氏を頼み、いよいよ念願の枝降ろしにかかった。
 作業を始めてみて必要となった高枝ノコギリは、角材にノコギリを木ネジでしっかり固定して間に合わせ、枝を引き寄せるフックも鋼材の丸棒を曲げて、その先をディスクグラインダーで斜めに切断してハンマーで叩き、物干し竿に結びつけるといった方法で、私が即席に作ったものがけっこう役に立ち、私も腰に鉈をつけて木に登ったり、屋根に上って手伝ったが、つくづく私はこういう仕事が性に合っていると思った。
 というのも、先週後半の数日間は、講座や取材で1日2件も3件もの用件が重なるなか、差し迫った原稿6〜7種類、計2万字ほどを書くというハードスケジュールで、さすがに私も参っていたから、青空の下、寒風がかなりきつくはあったが、久しぶりに体が「仕事をした」という心地良さがあった。
 人間やはり物を書いたり喋ったりして収入を得るより、現実に体を通してものづくりや自然を相手の作業をして生活してゆく方が、精神的にも肉体的にも健全だとつくづく思った。
 相変わらず檀一雄の小説『夕日と拳銃』に今もハマっているのも、あのなかに登場している、脇役ではあるが見方によっては隠れた主役ともいえる逸見六郎の、地にかじりつくようにして、日々、鍬を離さなくなる生き方への軌跡に人として深く共感できるものがあるからかも知れない。
 しかし、そうした人らしい生き方からは、ますます離れつつある現代人の暮らしぶりをみるにつけ、なんともやるせない思いが込み上げてくる。今日もニュースで鳥インフルエンザで鶏が大量処分されることを伝えているが、効率最優先の畜産が結局このような愚かさを招いているのだが、資本主義社会の強迫観念は常に効率、効率と人々の尻を叩き続け、儲けることへと人間を駆り立てているのだろう。
 そうしたなか、私のやっていることが、どの程度意味があるのか、よく分からないが、今の時代状況をなんとかしたいと考えている方々のために、多少なりとも御参考になっているように思える間は、自分のやっていることを社会に問い続けていきたいと思う。

以上1日分/掲載日 平成19年1月15日(月)


2007年1月19日(土)

 現在公開中の映画『甲野善紀 身体操作術』の関連イベントの1つとして、尺八奏者の中村明一(あきかず)氏との対談をアップリンクで行なった。中村氏に関しての事前情報は、新潮選書の『「密息」で身体が変わる』と、新聞や雑誌に中村氏を紹介した記事のコピー類。しかし、私はとにかく現場で御本人と会ってナマのやり取りをするまでは、余計な先入観や期待は持たないようにしようと思い、資料等もほとんど読まなかった。
 ただ、中村氏御自身が私に強い関心をお持ちだということだったので、それなら気まずい流れになることだけはないだろうと、気を揉むことなく本番に臨めたのは幸いだった。対談を行なう直前に会場のレストランで御挨拶させて頂いたが、この時は、中村氏が以前私の講座に参加されたことがあるということを知り、一層対談は成功する見込みがついたので、その場では尺八の材料の竹と共通する刀の目釘の竹の話などをして、本題に入ることは意識的に避けた。
 というのも、もしそこで話が盛り上がってしまうと、本番の対談の時、「さっきのお話の続きですが」という訳にもいかず、かといって、そこで初めて聞いたような演技をするのも不自然なので、ただ「ああ、こういう流れなら話は噛み合うな」という事を確かめるにとどめたのである。
 とにかく対談を行なって何よりも驚いたのは、中村氏が尺八を密息で吹かれる時の音の微妙さと、その吹奏姿勢である。実に繊細微妙な音色なのだが、私の目の前1,5メートルのところで吹かれていて、その音が出ているとはとても信じられないのである。最近は音響技術が進み、素人同然の歌手でも口をパクパクしていれば、それなりの上手さで歌っているように見せかけられるようになっているというが、中村氏の吹奏を目の前で見ていながら、およそその尺八から、その音色が出ているという感じがしないのである。
 私もいままで何度か尺八の演奏を身近で観たことがあるが、その尺八から出てくる音と、その吹奏の様子に、昨夜のような異和感というとおかしいが、とてもそこでその音色が生み出されているとは思えない不思議さを味わったことはなかった。聞きながら、私は以前スタジオジブリの宮崎駿監督からの要請で、ジブリの作画スタッフの人達に武術の実演をして、気配なく動くことが武術にとって大切であるという話をしたところ、宮崎監督が「甲野さんのような動きをアニメにしたら、手抜きのアニメと見られてしまう」と苦笑いされたことを思い出していた。
 つまり、宮崎監督が、刀で斬るシーンの迫力を出すために、大きく振りかぶってタメをつくり、体をうねらせることで、観ている人達に凄い威力を実感させる手法を使わないとリアル感が出ないと考えられている事と同じように、私も、楽器に息を吹き込んで音を出す以上、それなりに息を吹く姿勢、しぐさが必要だと思っていたことに気づかされたのである。
 ところが、中村氏の尺八の吹き方は、まるで吹く真似をしているだけのようにしか観えないのである。中村氏の吹奏に引き込まれつつ、私は、体の動きに関してはタメやウネリのない動きを追求してきた私だが、吹くことに関してはタメやウネリで体を動かすことが当たり前だと思っている人と同じように、いかにも吹いてますといった吹き方以外の吹き方があるとは思っていなかったのだという事を、自分の無知を恥じる思いと共に知ったのである。
 私も、呼吸に関しては今まで大変重要だと思っていたが、そう思っていただけに、一層呼吸法に関わることには慎重だったのである。したがって、私が技を行なう時、強いて呼吸のことを言うなら「吸いながら吐いているような感じですね」と答えていたので、いままで私に呼吸のことについて尋ねた人達すべてに困ったような顔をされたのだが、中村氏は私のこの説明に対して大変共感を示して下さった。
 私もいままで対談を行なってきた中で、今回ほど新しい世界に目を開かせて頂き、得るものがあったことはきわめて珍しい。対談後、『密息で身体が変わる』をあらためて読んでみて、非常に興味を覚えたが、この事ひとつとっても、やはりナマでその事に接するということは、本を通して得た印象とはまったく違うものである。
 そう気づくと、私や岡田慎一郎氏の介護の技も、本で「ああ、これはこうなんだろうな」と思われている方と、実際の技の印象はかなり違うかもしれないとあらためて思った。

 こう書いてきて、ここで21日の紀伊國屋の岡田氏との公開対談の宣伝をするのも、かなり気がひけますが、ご縁のある方はどうぞいらして下さい。必ずしも保証は出来ませんが、当日予約なしでフラリと立ち寄られても入場頂ける可能性はありそうですから。
 なお、23日のアップリンクでの映画関連イベントの対談の2回目、名越康文、名越クリニック院長との対談は、すでに超満員のようです。悪しからず。

以上1日分/掲載日 平成19年1月20日(日)


2007年1月22日(月)

 昨日21日、紀伊国屋ホールであった岡田慎一郎氏とのトークショーは、岡田氏が今までに例がないくらいあがってしまったというが、よそ目にはとても上がっているとは思えないほど弁舌なめらかで、ますます今後の活躍を期待したい。
 このトークショーには間に合わず、打ち上げのみの出席であったが、その席での精神科医の名越康文氏の話術と、ごく自然なカウンセリングの妙は、10年以上の付き合いであるが、いまさらながら舌を巻く。明日、この名越氏とアップリンクで対談するのが今から楽しみである。
 帰って、私のホームページを開いて何気なくカウンターを見ると2500を越えている。「あれっ、今日は何曜日かなあ」と思い返してみると日曜日。最近は休日ともなると1500〜1600くらいの事も多いから、1000件くらい普段より増えていることになるが、その原因が何か、すぐに思い当たらない。
 ただ、考えられるとしたら、この日、卓球で平野早矢香選手が2年ぶり3回目の全日本チャンピオンになったことに関して、どこかのテレビが私との関連を放映したのかもしれないと思うが、今のところ何とも分からない。
 それにしても、2004年、2005年に続く3度目の全日本チャンピオンだというのに、今日22日の讀賣新聞のスポーツ欄は新人で準決勝で敗れた話題の石川選手の記事と写真がメインで、朝日新聞は、記事にはもちろん平野選手のことが出ているが、石川選手の写真のみ。スポーツがワイドショー化してきているのは近年の傾向だが、スポーツの種目によっては特にそれがひどいようだ。
 たとえば、大相撲で優勝者の写真がなく、敢闘賞をとった力士の写真が出ていたら、誰でもおかしいと思うだろう。「スポーツをワイドショー化するのは問題だ」というような意見も書いていたように思う大新聞が、自らワイドショー化しているという矛盾をどう考えているのだろうか。
 しかし、そうした事とは関係なく、一途に集中している平野選手の目の輝きは素晴らしい。私と縁があったから贔屓で言うわけではなく、平野選手ほどの凛々しい目力を持った女子のスポーツ選手は他にちょっと思い浮かばない。
 昨夜は、この平野選手を私に紹介された山田俊輔先生と電話で話したが、平野選手は、このところ体調不全だというのに、9月以来、国内では無敗との事。おそらく単なる人気によらず、抜群の実力でその存在感を示そうと思っていることだろう。今後のさらなる飛躍を応援したい。

以上1日分/掲載日 平成19年1月23日(月)


2007年1月26日(金)

 「"忙しい"という字は、りっしんべん、つまり心を表す字に"亡"、つまり心を亡くすと書きますから…」という忠告をかつてある人からされたことがあり、私も「忙しい、忙しいと言っていても、それを楽しみぐらいに…」と思っていたが、昨日25日の忙しさは、さすがにもうこのままでは私も長くはないなあと思うほど。
 来客の予定がキャンセルになり、やらねばならない大量の校正や原稿書きもなかったのに、ちょっとした急を要する用件がいくつも重層して襲来。家の中を移動していて、いま自分が何のためにそこにいるのか分からなくなることが何度も起こった。
 これに比べれば、原稿の〆切に追われるなどといった、まとまった忙しさの方がずっと対応しやすい。何しろ電話で話していて、そこにキャッチが入って、そちらに出ようととすると携帯が鳴るので、その鳴る方へ目を移すと、先ほどまでやりかけの急ぎの校正に気がつくなどという状況になると、「ああ、脳が壊れていくなあ」と実感をもって感じられてくる。
 そんな時、フト23日アップリンクで名越康文、名越クリニック院長と公開トークをしたことが僅か2日前なのにひどく懐かしく思い出され、その懐かしさが何だか別世界のことのように感じられたので、「これはまずい。やはり人が人として生きていくには、ある程度の時間の余裕は絶対的に必要なことだ」と悟った。
 さて、今日26日は四国へ。1月はほぼ西日本にいることになるのだが、そこで少しは人間らしさを取り戻したい。

 以上のような状況ですので、ダブルブッキングが起きない方が不思議なくらいです。お約束した方は、当日までに何度かお確かめ頂けますようお願い致します。もちろん、新しいご依頼は、当分の間とてもとても無理です。

以上1日分/掲載日 平成19年1月26日(金)


2007年1月31日(水)

 1月26日の昼に東京を発って、夜、四国に入り、27日28日と松山で講座や稽古会。27日はNHK松山放送局からも人が来たりして、今年はどうも愛媛に縁がありそうだ。
 29日は岡山で久しぶりに光岡師と会う。今回も10時間近く話しをして、お陰で武術において、また宗教的世界においても、その道に入ったものが昔から常に追い求め続けた何とも言葉になりがたい「今」について、ひとつ気づくことが出来たが、どう気づいたのか全く言葉になりにくい。古歌に「いまといふ いまなる時はなかりけり まといふ時にいの時は去る」というのがあったが、普通、人はその今にピタリと寄り添って生きていることを認めず、認識は常に先に行き過ぎるか遅れるかしてしまう。どう動いてもピタリと合っていることを見つけだせば、それはそのまま名人の世界の筈なのだが…。

 30日は、たまたまこの日講座があった光岡師と福山へ。私は、私で福山の講習会などで、いままで少なからぬ御助力を頂いているO女史の新しく開店した和食レストラン「つるべ」の開店祝いに伺う。人をそらさぬO女史は喫茶店で私と話していた光岡師も店へ案内して下さった。もっとも光岡師は講座のためトンボ返りで又福山駅の方向へ。
 私は旧知の人や新しく紹介された人と話をしながら食事を頂く。今回、ホトホト感心したのはO女史の才能。O女史とは名越クリニック院長からの縁で、知り合って十数年になるが、これほどの才能の持ち主とは気づかなかった。とにかく店の建築、設計、内装、料理、従業員との人間関係すべてにおいて人任せにせず、見事な手腕を発揮されている。
 内装が江戸の町を感じさせるというアイディアの面白さに、料理はそれほどでもないだろうと内心思っていたのだが、以前ある企業で講演した折、大阪の何とかいう超一流の店に招かれたが、味はその店よりもずっと上で、たまげてしまった。そして何より感心したのはO女史と従業員との人間関係。従業員、スタッフに対して偉そうにするわけでは無論ないし、機嫌をとっているふうもない。傍目にはとてもこの店の総指揮をとっている人とは見えないほどに気配を消していて、しかも細かい気配りを、それと感じさせずにされているのである。
 O女史はこの店では新人スタッフにも意見を言いやすく萎縮させない雰囲気をつくり、しかも要所は毅然として後へは退かないようだ。長年O女史の御好意に甘えて、随分とお世話になっていながら、これほどの人物と見抜けなかった自分の眼の甘さを恥じた。
 この「つるべ」は料理レベルの高さに対して価格は極力抑えているから、やがて予約を取ることが困難な店となってしまうだろうと思われることが欠点といえば欠点になるかもしれない。
 それにしても、教育再生とかで、ある居酒屋チェーン店の社長が政府から委員か何かを任されているが、私が文部科学省の人間なら三顧の礼をもってO女史を招いて話を伺う企画を立てるだろう。(もっとも、O女史にそんな話をしたら、とんでもない!と辞退されてしまいそうだが…)

 明日からいよいよ2月。TVやDVDの撮影、本のための対談など企画が目白押し。ダブルブッキングをしてはいないかと冷や冷やものである。
 このような状況ですので、私と何か企画を約束されている方は、どうか御確認をお願い致します。

以上1日分/掲載日 平成19年2月1日(木)


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