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2003年1月3日(金)

 暮れも正月もない、という言葉は今年の私に限っては単なる形容ではない。実際年賀状を書き始めて数十年、喪中でもないのに暮れのうちに1枚も書けなかったなどという年はなかった。年賀状を戴いた方々にこの場を借りて御礼申し上げます。

 今切迫している岩波の原稿に目を通しつつ書き足しているのだが、2,3枚の原稿を直すのに3時間も(書き足しも含めて)かかってしまったりしている。一体これではいつ出来るのかと、進まぬ原稿の山と増大する書き足し原稿の厚みに心中さすがに青ざめるが、性分なのか手が抜けない。ここまで暮れも正月も返上してやっているのだから出版社には待ってもらうしかないだろう。

 正月早々こんなことを書いてばかりでは仕方がないので、久しぶりに最近の私の技のことについて少し書こうと思う。暮れに私が“現地集合の原理”と名づけた身体が別々に目立たぬように働いて、最終的に威力を発揮せねばならない所と時に合流する使い方は更に進展中。また足の裏の垂直離陸は、前後に置いた両足の同時運用と、そのこと自体でロックがけをするという高等技術への模索をはじめている。とにかく5分でも稽古時間をとれば、そこで様々に検討を始めるから放っておいても進展はある。以前だったら稽古をすれば技が上達するとは限らないが、現在の私の場合幸いなことにやればやっただけ発見進展がある稽古法だけはいつの間にか自得したらしい。もっともそれは私が常に自分がいかに未熟で古人に比べたら恥ずかしい技倆かという事を骨身に沁みて感じているからだろう。

 かつて米国でその実力を広く示した太極拳の鄭曼青師に学び、その後後継者ともいわれた羅邦骼tは「もし楊澄甫(鄭師の師)先生が自分の前に現れて『お前のやっているのはいったい何だ』ときかれたら、『これはただの体操です』としか答えようがない」と嘆かれていたが、古人の実力の凄まじさは、それはそれは凄かったと思う。(昨年秋その片鱗は幸い見られたが、最近自分の内側をみていて一層実感する。その実感からみて)今の私はまだまだ山の裾を登っているに違いない。だからまだまだ少し位の坂道なので登りようはいくらでもあるのだろう。早くどう登ったらいいか考えあぐねるほどの絶壁に辿りつかねばと思う。

 しかし、まあ人のそれぞれの登山ルートがあるようだし、当分は裾野を歩いて(出来れば走って)行きたいと思っている。そうしたらちょっとは又「ヘェーッ」とそれまでの自分が思える位の状態を迎えた自分に出会えるような気も予感も最近してきた・・・。

以上1日分/掲載日 平成15年1月4日(土)

2003年1月6日(月)

 2003年の会社一般の業務がスタートした今日6日は、私にとってもまるで曲芸の皿回しのような日だった。まず急いで出さなければならない急を要する手紙を書いているうち、訪ねて来る約束の人の時間が迫り、そこへ出版社2社の原稿やゲラの校正その他の連絡が入る。電話での校正箇所の質問をFAXにしてもらって、その間に郵便を出しに行く。訪ねて来た人に技を体験してもらい、その人達が何が起こったのかいろいろ話しをしている間に急いでゲラの写真のキャプションの原稿書き。皿がまわっている間、つまり待ちくたびれない間にあれをやり、これをやりといった有様。待ちくたびれそうになったら、順次校正を送ったり電話で連絡をしたり、皿をまわしつづけた。それにしてもこんなサーカス芸がいつまでも続くわけがないから、何とかしなければ・・。神戸女学院の内田樹先生は、昨年大晦日で物書き廃業宣言を出され快哉を叫ばれていたが、私は書くのも仕事のうちで廃業宣言は出せないし、何とか上手い交通整理法を考えないといけないと思う。

 そういえば、その内田先生とは今度の日曜日NHKのラジオ深夜便でトーク。ナマ番組で23時10分から。夜お電話すると廃業宣言ですっかり御機嫌。私も12日は楽しみだ。とにかく体調を崩さないようにしないと。うっかり風邪もひけないし喉を荒らしても大変だ。

 もうずっと正月以来の無理を重ね、常に喉の御機嫌が悪いので、ここ2日ほどで拳ぐらいの量の生姜を少しずつ削っては食べ削っては食べして何とかなだめているが、12日までには更にかなりの量の生姜が必要そうだ。

 それにしても、いろいろ稽古工夫の時間が欲しい。昨日、吉田健三氏らから伝えてもらったある中国武術の練功法は、今まで接したどの中国武術とも異なり、今まで我々がやってきた事との適合性がきわめて良かった。考え方も、功を積むというより『願立剣術物語』でいうところの「無病の本の身となる也」というところと近く親しみがもてた。それにしても暮れも押しつまってから、いきなり中国まで行って学んでくるとは、そのさり気ない情熱にはあらためて舌を巻いた。

以上1日分/掲載日 平成15年1月7日(火)

2003年1月7日(火)

 昨日は皿回し状態の忙しさと書いたが、今日は皿回ししながら更にやらなければならない曲芸がまた増えた感がする。午前中に真里谷円四郎の新資料『武田真里谷家譜』の全コピーが宇田川氏から届く。これを読むと円四郎の初代義旭は万治3年野州駒場村に生まれるとある。幼名孫八・・・。しかし、この資料を読むまで2時間以上かかった。何しろ電話がたて続け、読み始めていても更に電話電話で子機の電池がなくなってしまう。そういった諸々の用件を一段落した時は、すでに夕闇が迫っていた。岩波の校正済み原稿の再校正も急ぎだが、PHPの多田女史との方も急ぎ、どちらも優先順位が高いので判断に迷ってしまう。

以上1日分/掲載日 平成15年1月11日(土)

2003年1月10日(金)

 昨日は夕方から恵比寿の稽古で、今年になって初めて家の近くのポストより遠い所に出かけた。稽古に行く前に、恵比寿の駅前で光文社の小野氏に『古武術の発見』文庫化の追加原稿の校正を渡す。この小野氏に会う少し前まで、この日久しぶりに稽古に来ていた信州の江崎氏と車中で話しをしていたのだが、それにしても手裏剣術以外、対人稽古を全くやっていない江崎氏の練功度が毎回必ず上がっているのは率直に不思議な気がする。もっとも、かねてから私自身いかに手裏剣術の稽古が体の感覚を養成するのに有効かを説いているから、当然といえば当然なのだが、対人の稽古を全くやらずにここまで対応力が上がるというのは、江崎氏のセンスの良さだろう。うねり系ではない体の使い方ということについて、ここまで深く突きつめて考えている人物はちょっと他にいないと思う。

 人にはそれぞれの進歩の道筋があるのだという事を、江崎氏によってあらためて考えさせられた。ただ、電話は来る、FAXは来る、手紙は出しに行かなければないないという有様で、稽古は再三中断。その上コピーまでとりに行ってもらって落ち着いて稽古が出来ず、江崎氏には申し訳ないことをしてしまったが、現状では致し方ない。

 この日恵比寿の稽古会は、新年早々というのに又新しい人がかつてないほど多かった。それも野球、バスケットボール、カヌーと様々なジャンルの専門の方々が今回特に多かったと思う。この日新たに知ったことで、「ああ、やっぱり日本はそういうところが遅れているなあ」と思ったのは、T大の野球部の指導者の方から聞いたのだが、アメリカのピッチング理論は「木が倒れるように」という指導法が主流になりつつあり、現在の日本の指導法の主流の「ねじって、うねって」というものとは異なってきているという事だった。それだけに、私の動きの理論への理解も早く、新たな動きへの取り組みはきっとプロ野球界が一番遅くなるのだろう。

 この日はまた月刊の『文芸春秋』誌の2月号が送られてきたのだが、その中の一番の特集である「失わなかった十年−輝き続ける三十人−」の中に、塩野七生、野茂英雄、国谷裕子といった方々と一緒に私の事が田中聡氏によって紹介されていた。田中氏がこの記事を書かれる事は承知していたが、“−輝き続ける30人−低迷する日本をよそに素晴らしい仕事を成し遂げた人たちがいる。この十年をすべての人が失ったわけではない”とは恐縮してしまうサブタイトルとリードである。おまけに私のところのタイトルは、古武術の達人とある。

 私はかねがね言っている事だが、私が達人という言葉を躊躇なく使えるレベルは、振武舘の黒田鉄山先生の祖父に当たられる黒田泰治鉄心斎翁のレベル以上である。つまり、演武中、手から刀を落としてもスッと腰が下り、「あの時刀を落としたんだが、置いたように見えたろう」と言われるほど身体のハードの部分が完全に質的転換を遂げている人であって、私ごときを達人というのは日本武術のレベルに対する認識があまりに浅いと言わざるを得ない。勿論、悪意があっての事ではないと思うが、私のレベルと鉄心斎翁のレベルは幼稚園児と大学の講師ぐらいは違うだろうし、鉄心斎翁と松林左馬助とは一般の大学の講師と世界でも屈指の学者ぐらい違うだろう。願わくば私如きを達人扱いせず、更なる高峰の探求に向けて本格的研究を志す人の出ることを願ってやまない。

 それにしても、これほど忙しいのに、又新しい本の企画の具体的相談が今日2件入る。とにかく当分はどう考えても受付けは不可能。このホームページを読まれて、何か企画を考えられている方は、その事をよくよく御承知おき戴きたいと思う。

以上1日分/掲載日 平成15年1月11日(土)

2003年1月15日(水)

 昔、ある為政者が「百姓は生かさぬように殺さぬように・・・」と言ったと伝えられているが、最近の自分自身をみていると、まるで何か目に見えぬ大きな意志によって、まさに生かさぬように殺さぬようにと操られているのではないかという気がしてくる。とにかくある程度でも1日の区切りがついていたのが10日の金曜日まで。11日は時間を盗むようにして岩波アクティブ新書の初校のゲラ直しをしながら稽古。その後名越氏らと待ち合わせ、身体教育研究所へ。この時、昨年渡部誠一師に彫っていただいた彩漆の剣入箱を持参し、野口裕之先生に観ていただく。野口先生は、この箱を観て、「開ける前から開いてますね」とコメントされ、お手近にあった、やはり木彫りの箱と比べ、渡部師の作品の次元の高さを端的に解説して下さった。その後話しは様々に展開、野口先生の許を辞したのは2時近かったと思う。

 帰宅して寝ついたのは午前5時近く。5時間ほど寝て起きると、すぐ岩波の初校の校正。夕方吉田氏らが稽古に来館。共に稽古しつつ、「ラジオ深夜便」出演の為に出かける用意をし、8時過ぎに家を出て渋谷へ。ここで同行の中島章夫氏や名越氏らと合流し、NHK放送センターへ。「ラジオ深夜便」のディレクターK氏の迎えで迷子になりそうなほど巨大なNHKの建物の中を5分近く歩いてスタジオへ。先着の内田樹先生や司会の村田アナウンサーと挨拶し、その後晶文社のA氏とA女史も来場。

 サンデートークは別に緊張することもなく終わったが、話そうと思っていた事の10分の1も出たかどうかで、それはちょっと心残りだった。その後打ち上げで、朝まで開いている東南アジア料理の店で様々な話に盛り上がる。

 この時までは勢いにまかせて元気だったが、午前5時過ぎに帰宅し、岩波のゲラが気になってか2時間ぐらい寝て目が覚めると頭がボーッとしている。そこでもう2時間近くうつらうつらしてみたが、ゲラが気になってとうとう起き出して再び校正開始。なんとか午後3時近く岩波の編集者S氏来館の頃には目鼻がついて、S氏に説明しながら多少書き足してゲラを渡す。

 岩波が終われば次はPHPの多田女史との原稿だが、頭が朦朧としてきて、まるで能率が挙がらないと思っているうち立ちくらみがしてくる。7時にダウンし、そしてひたすら寝た。途中2度ほど目は覚めたが、とても起きる気力はなく、ようやく起きた時は14日の午前10時過ぎ。15時間くらい寝た事になる。ただ、起きても、まるで病み上がりのようで2,3時間は立ち上がる気力も殆ど出なかった。それでもようようの事ノロノロ仕度をして大坂からの多田女史とカメラマンの奥村女史、PHPの編集部の大久保氏を迎え、一緒に写真撮影や原稿の打合せ。夜、食事に出て帰ると様々な打合せや依頼ごとその他の電話電話で、結局電話が終わった時は午前4時。

 そして15日は終日北風が強かったが写真撮影で戸外に2時間半。。幸い撮影中は風を木々が防いでくれていたものの、終わって家に帰るまでの吹きさらされぶりは永く記憶に残ると思われるほど寒かった。帰って一休みするものの、私はすぐ仕度をして揃って山ノ上ホテルへ。ここで漸くこの随感録を書く時間を得た。そして、後はひたすら多田女史との原稿を書く。

以上1日分/掲載日 平成15年1月19日(日)

2003年1月18日(土)

 15日の夜に入った山ノ上ホテルでの泊まりが明けた16日は、又朝から原稿書き。11時すぎ岩波のアクティブ新書の再校ゲラを編集者のS氏がホテルまで持参。10分ほど打合せ。その後PHPの大久保氏と太田氏を交え、多田、奥村両女史と5人で食事をして多田女史との本の写真撮りと打合せのイベントの東京での全日程を終了する。

 その後、私は神保町に出て、古書店で資料本を購入し、身法研究会の小用氏と会う。最後は新曜社に寄って吉田女史と『続・剣の精神誌』制作についての初めての打合せをして、漸く帰途についた。

 17日は午前中からハワイの光岡門下のL氏がJリーガーのK氏らと来館。この日は午後、そして夜もすべて稽古やら打合せで人が来て、再校ゲラの校正は何も出来なかったが、来てもらった人達とはいずれも興味深い話が出来たので、それに関しては満足している。

 それにしても17日の3件の来客の内、2件は思ってもいなかった臨時の来客と約束をしていた私が忘れていたもので、予定は大幅にズレ、校正はさすがに少しどうなるか心配。ほぼ1冊丸々残っている岩波の再校ゲラ、それに「ナーシング・トゥディ」誌のインタビューゲラの赤入れが待っている。しかもそれらをやっても追い込みのPHPの本の原稿がまだかなりあるし、この月末や来週出来てくる本の送付先リストづくり、来週末からの東北旅行の仕度、その上書きたくて書けない葉書や手紙が50通ぐらいある。

 しかし今日も何人も稽古に人が来る。稽古に発見があったりして熱が入れば又校正はお預けだろう。
・・・・・まあ、もう先の事は考えないことにしよう、取り敢えず今日は・・。

以上1日分/掲載日 平成15年1月19日(日)

2003年1月19日(日)

 18日は久しぶりに剣術を長年稽古しているN氏や、正月に縁の出来たアイスホッケーの関係者の方々の来館で、予想はしていたが、やはり殆ど稽古漬けとなる。アイスホッケーでの競り合いでは、今までのアメリカン・フットボールやバスケットボール、サッカー、ラグビー等の球技と違いスティックがあるので、一層武術的な体の使い方が有効であることが分かった。これは何といっても私の武術の基盤となっている鹿島神流の合掌崩しとか不動剣といった鍔競り状態からの崩しが体に沁み込んでいたからだと思う。いくつかの状態での様々な崩し方を例によって生産直売、つまりその場で思いついてやってみたのだが、ずいぶん驚かれたし喜ばれた。剣術を長くやっているN氏も結構崩せたから、やはり武術的な体の使い方は踏ん張らぬという一点を取り上げても、踏ん張るのが前提の競り合いには有効なのかも知れない。

 この他、私自身興味深かったのは、逆袈裟的に相手に仕掛けて、相手の打ちや払いの手を搦めてゆく技。体のアソビをとって接触の瞬間ロックをかけると、相手の払おうとした手がそこで止まるから小手捕りなり小手返しなりが掛けやすくなる。また、小手返しは今まで何十回そのやり方を変えてきたか分からないくらいだが、今回は今までになく2方向、3方向の動きの合成が出来てきて(これはもちろん相手のレベルや力量によって出来るかどうかは異なるが)、相手が小手返しを防ごうと拳を握って手首を固めた上、もう一方の手でその拳か手首を掴んで小手返しを防ごうとしても、そのままズーッと技に入る事が出来るようになってきた。

 ただ残念なのは、何がキッカケでどういうことが出来るようになったからこの技が出来るようになったかという事がよく分からない事である。よく海に慣れた漁師が海岸近くの海中で容易くアワビやウニを見つけても、素人には中々見つけられないという話があるが、この技に関しても、なぜか今までは別々に働かせようとしていた力がどうしても相手に作用する時は、それらが混じった“ある方向の力”となっていたように思う。それが昨日あたりから、相手に作用させている間も、ちゃんと別々に力が働いていて、そのため相手がその力の方向を特定出来ずに迷い、ずっと体がセンサーモードのままで探り続け、出力モードに切り換わらなくなったような気がする。もっとも繰り返し言うが、実際には何が起きているかは分からない。

 この動きに関しては、今日も稽古に来た人達に試みてみたところ、やはり有効だった。今日あらためて感じたのは3方向の動きの合成というより合成されないまま動いている感じがするということ。もちろんある方向へと動いているのだから、3方向の力がそれぞれずっと同じように働いているとは言えないだろうが、実に妙な感じだ。

 妙といえば、どうして出来るようになったか分からない事だが、どうも中国武術との関連がありそうで、今日も暮に中国に行った吉田氏にいろいろと解説を受ける。

 当然ながら校正の進行具合は予定を大幅に下まわっているが、武術稽古研究会の主宰者としては稽古法の研究という優先順位は譲れないところである。まあ、あと10時間あるから何とかなるだろう。

以上1日分/掲載日 平成15年1月20日(月)

2003年1月23日(木)

 ここ2,3日、オーバーワークという言葉では追いつかない状況になってきて、少し以前なら優先順位がきわめて高かった用事も後回しになってきた。例えば15,16日か、せめて18日までには上げられるだろうと思っていた多田女史との共著原稿が16日山ノ上ホテルで書いて以来1行も進んでいないし、読み直しすら出来ていない。控え目にみてもあと数千字は残っているのにである。そこへもってきて2日ほど前に食べた貝に当たったらしく、夜中吐き気に襲われ、とうとう自分で吐き、その後芹を食べりんごを食べして毒消しに努めたせいか大事には至らなかったものの体調的には低空飛行。そこへもってきて思いもかけぬ用件、すっかり忘れていた用件の催促が22日はたて続けに入り、当初の予定は大幅に狂ってしまった。電話をかけなければいけないのにかけられない方、手紙を出さなければならないのに待っていただいている方、本当に申し訳なく思っております。どうかご容赦下さい。

 このような私のどうにも首のまわらない状態のところへもってきて、ライターや編集者で気の利かない人が多いのも参る。私は物書きはセミプロで向こうはプロの人間の筈で、本来こちらの至らぬところを補ってくれる役目だと思うのだが、この頃は逆のことが多い。

 今回、本来ならとても書く暇がないのに、この随感録を書かねばならないのも、そうしたライターのいい加減さのため、今日23日付の『スポーツ報知』の一面に大きく桑田投手が中国武術を練習していると出ているのだが、その中国武術が太気拳となっている。桑田氏の中国武術は、私が紹介した岡山の内家武学研究会の光岡英稔氏に学んだものだから、意拳を中心にいくつかの中国武術やシラット、カリ等から成るものであり、太気拳ではない。この記事を書いた柳田女史はわざわざオーストラリアから私に電話で取材しながら一番肝腎なところを間違えている。

 今日夕方に都内である稽古会に出るため家を出ようとした7分ほど前に光岡氏から私へ電話があり、「あれはちょっと困りました」との事。私は現物を見ていないので、急いで報知を読んでいそうな知人に電話し、FAXで送ってもらったが詳しくは分らない。そこで、あまり客が入りそうもないコンビニに寄って売れ残りの『スポーツ報知』を購入して読んだ所、なるほど大間違い。しかも念のいった事に太気拳の解説まで載せている。そこで柳田女史に電話を入れ、事情を尋ねた所、彼女がインターネットで調べて勘違いをしたことが判明。「すべて私の責任です」と平謝りで25日に訂正を載せることで了解して欲しいと言われたので、今後不確かな事は書かないようよく念を押して、一応は了解した。

 それにしても、よりにもよって体調は悪い、東北への荷物は出さねばならない、約束の稽古の人は来る、と畳み掛ける予定に加えて、全く非生産的なこのようなトラブルに遭うと、さすがにもう霧の中を歩いている気分。ただそれでも何故か技の進展はある。

 昨夜は10時に私の一番古くからの武友伊藤氏が来館。「22日の夜にでもどうですか」と少し前に私から誘っておきながら、諸用に追われすっかり忘れていたから大慌て。しかしお蔭で剣術の下段からの突きを伊藤氏が払い落とそうとするところに、最近やり始めた新たな体のロックがけ(股関節付近を伸ばした体幹部の働きが利くようにしたもの)をやったところ、かつてない威力が出て、私の突きが払われないで残った。伊藤氏にも驚かれたが、今日は私からの依頼ごともあって来館した剣道5段で桐朋のバスケットボール部の長谷川コーチにも驚かれる。又、この長谷川コーチに対して竹刀を交えてみると、昨夜の対突き返しに有効であった以外に、相正眼から、相手の右籠手へ竹刀を飛ばした時、これを相手が払おうとした際、私がしないの裏鎬で落とす技がかつてない威力で決まりはじめた。長谷川コーチは、「剣道をやっている者ならこんなことが出来たら夢のようだと喜ぶでしょう」といささか興奮を隠しきれない様子だったので、私も少し元気が出た。

 ところがそこへ先ほど述べたように光岡氏からの電話。そのため今日は都内の稽古会は格別人数が多そうなので、遅刻しないように出ようと思っていたのだが、報知新聞を買いにまわったりしていて当初の予定の電車に遅れ、稽古会場に着いた時はすでに20人以上の人達を待たせていた。すぐ着換えて始めたが、今日来た人々は、ハンドボール。卓球、テニス、バドミントン、野球にブラジリアン柔術、合気道に少林寺拳法と実に多彩。ずっと動きっぱなしの喋りぱなし。終わって古くから来ている2,3の人達と剣術をやったが、やはり裏鎬の払いは以前より一段か二段は質が変わってきている感じがした。この日は稽古会参加の各スポーツ関係者とも話せて興味深いことも多かったが、とにかく人の多いのには参った。このまま参加人員が増えたらとても応じきれないので何とかしなければならないだろう。

 とにかく明日には日経新聞の取材があり、その次の日から東北、そして週が替わると山形から直帰で新宿。その後藤沢、防大と次々予定が入っており、2月になったらなったで埼玉県の教育庁や山梨県の昭和町から招かれての講座の他、取材の約束がすでに5本くらい入っている。もちろん稽古もあるから本の原稿など一体いつ書けるのかと思うほど。しかし多田さんとの原稿は何としても時間を作って書かねばと思っている。

以上1日分/掲載日 平成15年1月24日(金)

2003年1月31日(金)

 24日から、ここ1週間の日の流れはまるで夢の中にいるようだった。夢の中というのは、頭では日々起きた事をハッキリと思い出せるのだが、それらの事に対して感覚的に現実感が伴っていないからである。24日は日経新聞のN記者の取材を受けていたのだが、剣道経験者のこのN氏に剣の実演を行ない抜き技などを使って動く度に頭痛、そして体じゅうが痛い。過労、食あたり、その上ここ最近の新しい動きに筋肉が馴染まぬためなのか、とにかく旅の仕度も片づけもノロノロ状態。こんなことで25日からの東北行きはどうなるかと思いながらもやらなければならない事が多いので、寝たのは午前4時近く。4時間ばかり寝て起きるが、何とか起きられたというレベルの体調で、漸くの思いで10時過ぎ家を出る。

 旅の出だしに体調が悪い事は今までにもよくあったが(私は不思議と大きな出会いの前に体調が崩れる)、それにしてもその悪さは前例がないほど。ただ風邪とは違うことは確かなので、途中での劇的な回復に希望をつなぐ。東北新幹線は初めての“はやて”。途中から一面の雪景色。お蔭でいくぶん気分は良くなる。

 仙台駅へは藤田氏とI君が迎えに出ていてくれて、「ああ、自分を待っていてくれる人達がいるのだ」と思ったところでもう一段体調がシャンとしてきた。そして稽古の会場に着き、又何人かの常連の人達の顔や新しい参加者の方々に会い、また少し回復。

 稽古を始めてみると、最近の動きを解説しているところで思ったより体が動き、フェンシングの人とも剣を合わせたりしているうち何とか普段の5割くらいの体調まで戻ってきた。一日目の稽古が終わって案内された瑞鳳殿近くの宿で、夜は早めに寝ようと思いつつ常連の人と話したり技の工夫をしたりして、寝たのは結局1時過ぎ。それでも26日は7時に起きられ、宿から藤田氏の車で再び稽古会場へ。稽古では剣道7段のT氏と最近の動きを試したり、二刀を相手に工夫したり。右手小刀の逆二刀の場合の方が対応しにくく、これは私自身への宿題として今後検討したいと思う。あと鍔競りから太刀を奪う場合、相手との状況で展開が全く違ってくる。この辺も具体的研究課題がハッキリとして幸いだった。

 他には、やはり合気道の人が多かったので、いわゆる一教の技への応用で最近私が気づいた“肘にかかる手は動かさないように”という術理(もちろん相手との動きの中では動くが、こちらの動きの全体のなかで結果として動くだけで、部分的には決して押したり引いたりはせず、相手の肘についたままにするという事)を試み、その有効性が何人もの人達で検証出来て、ひとつ工夫が納得出来た。こうして技の工夫に気持ちがゆくと体調の不調も忘れるのか、稽古前よりも終わった後の方が又一段と体も気分も良くなっていた。

 仙台での稽古が終わると、直にこの日の稽古にも参加された山形からの迎えの方達の車で山形のデジタル・スポーツ射撃センターへ。そしてこの日以後いつかはガクンと又気のゆるみと共に体調が落ちたり、体調が落ちぬまでも半日ぐらいは死んだように寝るのではないかと思ったが、そうした事もなく今日まで体調がもったのである。その恐らくは最大のキッカケになったと思われるのが山形での2日間であるが、今日はこれから防大での講座があり、その仕度やら何やらでとてもこれ以上この随感録を書いていられないので、山形での話はまた次回に報告させて戴きたいと思う。

以上1日分/掲載日 平成15年2月1日(土)

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