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| 2003年9月2日(火) 31日は山形で講座。JリーガーのF選手が大変熱心にいろいろと質問してきたので、体と体が競り合った際の抜き方、あるいは抜こうとする際のブロックの仕方にいくつか発見があった。なかでもこちらの背後に回って抜こうとする相手をブロックする動きは、当初ただ尻餅をつくような膝の抜きで防いでいたのだが、その後三方斬りの応用ということに気づいてからの動きはF選手が本当に驚いた顔をしていたから、多分プロ・サッカー界でもこのような動きは滅多にないのかもしれない。 しかし翌日の9月1日、神山氏宅に積まれていたナラの丸太を薪に割っているうち、初めは「薪割りは滅多にひけをとりませんよ」と得意になっていたが、次第に「ここで、こういうふうに体を使えたらなあ」という自分の動きの問題点に気づいてきて、もしそれを可能にする人間なら私の倍ぐらいの早さで割ることが出来るに違いないと確信するようになって、自分の未熟さが恥ずかしくなってきた。
しかし、まあそういう事に気づいただけでも今日はよしとしようと、ついついこの日は自分を甘やかしてしまった。
以上1日分/掲載日 平成15年9月2日(火)
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| 2003年9月2日(火) その2 高畠のDSSFで2日半過ごして、今“つばさ”で帰京中。ここで過ごした約77時間は半日ぐらいにしか感じないほど短かった。 印象深い事は数々あるが、わんぱく少年がそのまま大人になった観のある藤井優監督(射撃のナショナルチームをアテネでも率いる)と、高畠にその人ありと知られた神山氏との絶妙のかけ合いは、今こうして車中で揺られている最中も思い出すと笑いが込み上げてくる。しかし、この高畠滞在中、かつてないほどあちこちから電話があり、何だかこれから東京へ戻るのが少々憂鬱である。
何度も何度も書いているが、200メートル走で末績選手が銅メダルを得た事につながったと言われるナンバの走りは、状況からいって私が桐朋高校バスケット・ボール部の金田監督に伝えた動きが広がったものだと思われるが、マスコミ各社がその繋がりをハッキリさせぬまま、私に取材をされるのは本当に困る。
そういえば昼頃までは昨日の薪割りの影響で打剣もめちゃくちゃだったが、動きの悪さを自覚したお蔭か、夕方打剣していて気づきがあり、今回世話になったマルミツの小関氏にちょっと受けてもらったのだが、切込が今までで一番重くなっていた。
以上1日分/掲載日 平成15年9月3日(水)
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| 2003年9月3日(水) 昨日ちょっと書いたが、高畠のDSSFで夕方得た打剣上のきづきは『田中葵真澄鏡』に出ていた松野女之助や弟の小山宇八郎の弓射のエピソードがヒントになっている。 これは何かというと、女之助は六分の弓で厚さ六寸のケヤキの板を射抜き、宇八郎も「強弓は弓の力を借りるから」と、さほど強くない弓を使ってどんな兜でも一矢で射抜くので、江戸の甲冑師の間で恐れられていたという話である。このような俄かには信じがたいほどの技も、弓は矢を飛ばす1つの筋道をつくる道具とし、真の威力は弓の反発力よりも体から発する力を利用したと考えていたのだが、手裏剣術に於いても手の振りで筋道をつくり、剣を飛ばす威力はピッチングのようなうねり系ではなく、体全体から発することが重要だということである。 もちろん言葉にすれば、このような事は以前から言っていたのだが、その体全体から発する力をどう造るか、という事に微妙な気づきがあったのである。
以上1日分/掲載日 平成15年9月4日(木)
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| 2003年9月6日(土) 昨日はNHKの「人間講座」の撮り。11時にNHKに入って終わってみれば8時近く。私は前のことは考えず後のことも考えず、ただただ、その時その時をこなしていたから、それほど疲れたという感じもなかったが、受けやオーディエンスとして来て下さった方々には心から「お疲れ様でした」と感謝の意を表わしたい。 特に仙台から駆けつけてもらった藤田氏、翌日早くから野球部の練習があるのに最後の最後まで付き合ってもらった高橋氏には深く御礼を申し上げたい。 撮影といっても、相手がいればいつも自分の稽古をしてしまう私だが、昨日も、この日の撮影では予定外の体術の投げ技に1つ新たな工夫が生まれたので、体術がメインとなる撮影日までにこの動きを工夫しておきたい。 しかし、それにしても対応しなければならない事の多さは先月を更に上回ってきた。そのため、もう目の前のこと以外あまり頭がまわらない状態ですから、私と何か約束をされている方は必ず事前確認をお願い致します。
以上1日分/掲載日 平成15年9月6日(土)
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| 2003年9月8日(月) 昨日は内家拳のH先生の今期最後の講習会に駆けつけたが、諸般の用件で最後の15分ぐらいを見学出来たに止まってしまった。ところが幸いな事に、その後打ち上げのお別れパーティーの後に日本滞在中にH先生が借りられているマンションにお招き頂き、鍛えることに熱心な人が何故そのことで体を害してしまうのか、体を害さぬためには何が必要なのか、という事に関して実に詳しくその練功の理を解説して下さった。お蔭で望んでも得られぬ貴重な知識を得ることが出来たが、通訳をして下さったK氏の帰宅予定時間を大幅に遅らせてしまい申し訳ない事をしてしまった。 H先生並びにK氏、この講習会の世話人であるU女史に、この場を借りてあらためて御礼を申し上げたい。
そして今日はまたNHKの撮影。まだまだ人間の心身の構造に関して無知であることを思い知った身で、『人間講座』などという公共電波を使って多くの人達に話をするのは気がひけたが、私程度の知識と動きでも世に出ないよりは出たほうが現在の体育の人間理解の状況を変えるキッカケにはなりそうなので肚を括った。
以上1日分/掲載日 平成15年9月9日(火)
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| 2003年9月10日(水) 今日は『中央公論』誌のグラビア撮影の為、多摩川の河原へ。カメラマンのM氏は大変情熱的な人物で、川の流れギリギリに立った私を川の中に短パン1つで入ってシャッターを切り続けていた。M氏の注文に応じて上を見たり遠くを見たりする度に、撮影の為というより忙しさを忘れるために河原へ散歩に来て山や雲を見る事そのものになりきっていたから、私としてはむしろ気分転換になった。 その後、河原に沿って建っている読売新聞社の大きな施設の玄関を借りて表紙用の写真撮影に臨む。話がどういうふうに伝わったのか分からないが、前から私の事に関心があるという社員の方々何人かに迎えられ一緒に写真を撮ったりサインをしたり等々・・。もうこの頃は余り考えなくなっているが、これで『人間講座』が始まったらもっと大変だなとフト思った。 しかし昨日今日と比較的時間があったように思うのだが、ドンドン流れる時間は押しとどめようもない。予定では昨日、今日で15日の岡山での稽古会とそれに続く某山中での山籠り用の仕度を大体終えたところだったのだが、まだ殆ど何も手つかずの状態である。 山籠りは数日間とはいえ、電話もテレビもない所で完全に1人で過ごすので、「ああ、あれを持ってくるんだったなあ」という事がないようにと思うと荷造りはかなりのプレッシャーがかかる。 それにしても今回も多くの人達の好意に支えられての旅となりそうで、そうした力を貸して下さろうという方々には、あらためて感謝の意を表わしたい。
以上1日分/掲載日 平成15年9月10日(水)
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| 2003年9月13日(土) 昨日は目まぐるしい1日だった。午前中ひさしぶりに桑田真澄氏来館。この頃調子を落とした事で、もし昨年のままの調子だったらまだまだ目が向かなかったと思われる、より武術的な体の使い方へと気持ちが向かうようになったようで、私としては良かったと思っている。今後いろいろ気にせず新しい体の使い方を集中して研究出来る場を何とか作って欲しいし、周囲もどうか理解して見守って欲しいと思う。登り降りして自分で自分の人生の税金を払い、家族にそれが及ばぬようにしているのが桑田投手の特色なのだから・・。
午後は3時から永田町の民主党本部で講演というか動きの原理の説明と、私が日頃感じている事を話した。これは先日菅直人党首から電話で依頼を受けたためで、10数年前初めてお会いしてから薄い縁は繋がっていたのだが、このような立場でお招きを受けたのは初めて。
その後は池袋コミュニティカレッジの講座へ。この日、ここでは人に何か話すというより、講座という場所で聞き手と相手を得て自分の動きの研究をするというモードに入ってしまった。お蔭で僅かな腰の操作によって、普通4歩弱の歩数を3歩で歩くという動き(確か今月初め頃に工夫したもの)が、まさにナンバ的に自然と同側の手足を同方向へ動かす動きになることに気づくことが出来た。これは多くの人達に、効率よく動けるようになってもらうという事では有益な発見となりそうだ。
しかし、今日はこれから若干稽古をして、その後身体教育研究所へ。名越氏と途中で落ち合って行く予定。明日は千代田区での会。そして明後日は岡山の講座と息つくヒマもないので、とにかく時間を無駄にしないようにと思うのだが、気になることが余りにも多く、寄り道わき道が数限りない。
以上1日分/掲載日 平成15年9月14日(日)
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| 2003年9月15日(月) 昨夜の千代田区体育館での会は、又70人以上の人々が集まり、様々な展開が出来たが、私自身の個人的感想としては「新・石鑿の原理」ともいえるものの実効性が確かめられた事が一番得るところがあった。 この新たな術理の進展の兆しは、11日の木曜日に信州の江崎氏と久しぶりに稽古を行なった時に芽生えた。この日、両手持たせの直入身から相撲の寄りのような形まで真正面から当たり合ったが、足裏の垂直離陸による体のアソビをなくす働きを使った抱え上げで、相手の太腿を楽に抱え上げる時の脚部と上半身の独特の連動を感得した。そして、これを応用することの出来如何によって相手の払い手に惑わされずに入れるかどうかの度合いが大きく変わる事に気づいたのだが、その翌日池袋の講座の時の感覚などを通して「石鑿の原理」を更に進展させた、というか自動的に「石鑿の原理」が働く、この「新・石鑿の原理」ともいえる動きが具体的に見えはじめてきた。 その具体的に見えはじめたこの原理の気づきのキッカケとなったのは、以前から私が講座の折などにも話していた次のエピソードである。 あるお婆さんがキレイに吹き込んだ対耐撃用の丈夫なガラスの壁を、そこにガラスの壁があると気づかないで通り過ぎようとして、ガラスにぶつかりガラスを割ってしまった。このガラスはラグビー選手が助走をつけて体当たりしても割れない丈夫なものなのに、特に急いでいた訳でもないただのお婆さんが何故かブチ破ってしまったのである。
これに対する私の答えは、お婆さんがガラスにぶつかりつつもその自覚が無く、更に前に進もうという働きを捨てなかったためお婆さんの身体の側の部分、つまり殻が割れて中身のエネルギーが飛び出したのだろう、というものであった。 この日はこの他にもビーチフラッグの選手からの質問に答えて体の起こし方の工夫をするうち、これが体幹部の養成にもすぐれたものがある事に気づいたことや、アマレスのタックルで四つに組んで動かなくなった時、「抱え上げ」の体の使い方だと返しやすいことに気づいた事など、私にとっても得るところがいくつもあった。
以上1日分/掲載日 平成15年9月16日(火)
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| 2003年9月15日(月) 昨日は昼少し前に東京を発った「のぞみ」で岡山へ。発車の5分ほど前に車内に入って荷物を整理していると、私の席から3列ほど後に何だか見おぼえのある顔が見える。「あれ、あの方は宝島の本で対談したアシモの開発に携わった田上勝俊先生じゃないかな?」と思ったが、単に似た人物かも知れないし確信がない。そこでその人物の視線が上がった時に一歩その方向へ踏み出して反応を探らせて頂いた。すると果たして「ああ!」というお顔。(こうした時は私の着物姿は都合はいい。もっとも最近はそれがために思いもかけぬ場所で、私の本の読者だという方から突然挨拶をされたりして恐れ入ってしまうというか、驚くことも多いのだが)その後、結局空いている座席を転々として、新神戸駅でほとんどの座席が埋まるまでいろいろとお話しをすることが出来、交流の輪が広がった。
この日の岡山の稽古会でも様々な武道やスポーツ関係の方々が集まって来て下さり、いろいろと気づきがあった。なかでもレスリングのクォーター・ポジション(というらしい)四つんばい状態で引っくり返されないように頑張っている相手に対して、これを返すのには足裏の垂直離陸の体の使い方が有効らしい事に気づけたのは収穫だった。 さて、今夜からしばらく山中で独居となります。21日までは一切連絡がとれません。山から出た直後にも直ぐにという用件を伝えたいという方は守伸二郎氏に連絡を入れておいて下さい。
以上1日分/掲載日 平成15年9月16日(火)
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| 2003年9月17日(水) 昨日から、四国の山中の山小屋に守氏の車で(なぜか医者の卵S氏同乗)清水氏の案内で送り届けてもらい、まる1日経った。まるっきりの1人となると淋しさもあるのではないかと思ったが、ここでは家にいる以上に時間が経つのが早い。 ひとつは、この山小屋は結構いろいろ揃っているとはいえ、生活のための仕事に時間がかかること。例えば薪で焚く風呂の薪が湿っていたり大きすぎたりしているのだが、この薪を割るのに用意されている与岐(よき)の刃がつぶれて刀の棟ほどの厚さになっているため、なかなか薪が割れない。それから洗濯の物干し竿がないので、これも自分で造らねばならない等々。しかし、何かあっても電話もないし携帯も通じないと思うと、怪我をして体の動きが制限されるのを無意識にうちにも警戒するらしく、焚付けを造るにも何時もよりずっと用心深くなっている。 たとえば、焚付け用に置いてあった孟宗竹を鉈で切るのも、竹だけに変に叩くとハネ返って思わぬ怪我の恐れがあるため、台の上に平らな面を寝かさず立てるようにして鉈を打ち込んでゆく。作業しながら、これは垂れている縄梯子を登る時に、正面から登ると縄梯子が向こうへ逃げてしまい大変登りにくいので側面から登るのと同じ理屈だなと気がついた。 しかし、それにしても薪が湿っていたせいで、薪さえ良ければ30分で沸く風呂が2時間もかかってしまった。しかし、私だから2時間かかっても沸かせたが、不馴れな人だったらきっと諦めてしまったろう。 そして午前1時半頃寝たのだが、今朝9時頃目が覚めた時、今まで抑えていた芯の部分の眠気がやっとこの地で誘い出されてきたのか、立ち眩みするほどの眠さに更に3時間ほど寝る。その後、近くを速歩の稽古で歩いたり、物干し用の竹竿を造ったりした。 このように今日は体を使うことが多かったが、今日一番衝撃的だったのは、近々刊行される予定の多田容子女史の小説『甘水岩』。この本の腰帯の文章をPHPの大久保氏から依頼され、そのゲラを守氏経由で昨日渡されていたのだが、今日読み進むにつれ多田女史の小説家としての才能に背筋が寒くなった。ひとつには、もうずっと前から多田女史と知り合い、その品のいい、そして面白い人柄をよくよく知っているからだと思うが、よく知っていると思っていたのはホンの上辺で、その奥に凄まじい修羅の世界を実際は宿しているのかも知れないと何度も思ったほどである。 デビュー作『双眼』とは比べものにならない地の底から響いてくるような重低音な読感は、どう考えてもこれは“筆先”のように自らの体を何者かに貸して書き上げたとしか思えない。 ただ、最後はさすがに我に返ったのか、多少少女趣味的な終わり方になっており、その事で少しホッとさせられた。
以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)
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| 2003年9月18日(木) 十分すぎるほど寝たりすると起こりがちな事だが、昨日背中に起こった攣るような筋肉痛は、今日一層ひどい。全くの1人暮らしだから怪我をしないようにと思っていたのに、ちょっとした寝返りも辛い。こんな時は仕事に限ると、清流を引いた風呂に漬けてあった新品の藍の袴や道着を、昨日造った青竹の物干し竿に干したり、内田先生との対話の原稿を書いたりしたがあまり変わらない。ならば稽古に限ると清水氏に置いていってもらった茣蓙に打剣。 ここは山中とはいえ幅五間の谷川に面していて、六間以上距離がとれる。打剣の稽古にこれほどの良環境は滅多にない。もちろん背中は痛かったが、各剣の距離への対応の具合や重心調整をしているうち、背の痛みを忘れていた。そして、抜刀の抜きつけに斬るという働きは、打剣と密接な関係があるという事に気づき少々興奮した。そして、そういえば私の師匠である前田勇先生が、「手裏剣は全ての武道の元じゃきにな」と私に話して下さった事があったなあ、と突然30年前の記憶が蘇ってきた。
そんな事をしているうち日も傾いてきたので、2度目の風呂焚き。今日は段取りを考えて昨日から少しずつ準備をしておいたため、極めてスムーズにいった。尤も清水氏がまっとう鉈を用意して私に貸して下さったからこそ準備も出来たのである。清水氏にはあらためて感謝している。
食事は計画通り、というか予想以上にうまくいっている。主食は持参の土釜で玄米と黒米とキビと麦とを炊き、これに胡麻と納豆、あと大根、人参、玉ねぎ等を生で食べ、モロヘイヤをざっと熱湯をくぐらせて食べる。ワカメでも持って来るんだったなあと思う以外は何の不満もない。動物性のものと菓子を持ってこなかったのは正解だった。菓子の代わりにに守氏差し入れのリンゴと梨を食べる。
以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)
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| 2003年9月19日(金) 昼 背中の痛みは昨日より大分治まってきたが、ここに来てすぐ蜂に刺された処が2ヶ所今頃になって腫れてきた。それにしても薄暗い風呂場でたまたま手をついた処に1匹だけいた蜂に刺されたのだから、これはどうしようもない。そして同じ風呂場で2時間後、次に洗濯物を掴んだ時、やはり1匹だけいた蜂に刺された。最初は右手の中指、次が左手の拇指。すぐに持っていた「アンジェローパ」と「マリマリ」という南米のインディオが使う樹液で手当てして、数時間後は全く気にならない状態となったので昨日は殆ど忘れていたのだが、1日置いて腫れてくるとは・・。もっとも腫れたといっても大した事はないが、いったん治まった腫れがぶり返したのは私としては初めて・・。 しかし、今日はここに来て一番よく晴れたので急いで洗濯し、僅かな日向を追って洗濯物を干す。ここは谷川を目の前に前も後ろも傾斜地だから、日の照らす場所が限られていて、木漏れ日ごしでは2日経っても乾かない。その経験から今日は入念に場所を選んだので、今日はうまく乾くだろう。
以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)
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| 2003年9月19日(金) 夜 今晩を過ごしたら、もうあと一夜を残すのみになってしまった。夕方2km近く歩いて、この山小屋の緊急連絡人となっているK氏宅を訪れ、郵便物の投函を依頼する。茶菓に呼ばれたが、菓子には全く興味がなくなっている。山中独居で、気を紛らせるために食べ過ぎるという事は全くない。食べる量も少ないし、動物性のものや菓子を食べたいという気は全く起こらない。 とにかく今回山中1人で幾日かを過ごして分かった事は、極めて平凡なこと、普段いかに食べ過ぎているか、そして運動不足ということ。稽古をしていて、この間も3時間動きっぱなしの喋りっぱなしで少しも疲れないと思っていたが、説明しながら動いていると言っても大した状態ではない。 ここへ来て食を減らし、普段歩かないほどの距離を歩いても、疲れるというよりまだまだ体の欲求を満たしていない感じがする。それでいて膝下の筋肉がいきなり普段歩かない距離を歩かされてびっくりしているのだから、そうした部分を鍛えるためにもやはり体を動かす時間をつくらないといけないと思った。 K氏と話をしていて「昔は雑木が多かったので雨が降っても急に水が増えることはなかったんですが・・・」という嘆きに、産業第一で突っ走ったかつての日本の国策の愚かさをあらためて思った。ただ、上に登ればブナの大木もあるという。明日、天気さえ良ければ是非登ってみたいと思っているが、夜に入って雨が降り始めたので、これはどうなるか分からない。
以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)
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| 2003年9月20日(土) 昨夜からぱらついていた雨が本格的に降り出し、今日は終日雨。晴れていれば近くにある標高千メートルを越す山に歩法の研究も兼ねて登ろうと思っていたが、晴耕雨読ならぬ晴稽古雨書。 ただ、この地にゆっくり出来るのも今日限りで、明日は午前中に全て仕度して此処を出なければならないから、雨の音を聞きながら寝ていたいと思う限りは寝ていようと思い9時間ほど寝ていた。 それにしても山中で1人誰にも煩わされることなくせせらぎの音と雨の音を聞いていると、時が止まったようでいつまでも飽くことなく窓の外を眺めていられそうだ。やはり山の中というのはよほど私の体質に適っているのだろう。 ここは広葉樹が少なくて植林した杉が多いのだが、それでもこのような気分になるのだから、私の好みの樹相と地形の場所だったら都会に戻るのが嫌になるかもしれない。 しかし時代は動いている。この山の中の自然もかつての豊かな森から暗い鬱々とした針葉樹ばかりに変わったように、遺伝子組み換えの植物を普及させたりする人間の飽くなき科学技術進展の流れは止めるに止められぬ勢いだ。又、中国の工業化が進めば強い酸性雨が降る危険もある。今は昔のように「国破れて山河あり・・」というような、人間の営みと関わりなく大自然は存在している、と言えた時代ではないのだ。 1962年、レイチェル・カーソン女史が衝撃的な本『沈黙の春』を刊行し、農薬メーカーや行政を相手に尖鋭的な戦闘を開始したことにより、世間の多くの人々は環境問題という意識を持つようになったが、まだまだそれは「気になる」という程度で、とても本気とは思えない。もし本気なら「不況、不況」と騒ぐ前に、現代は昔のように燃やしてしまえば、あるいは海に捨てたらそれで終わりという気楽な時代ではなくなり、人々の潜在意識の中に微妙なそして抜きがたい環境への不安が宿っていることをもっとハッキリさせ、この問題とどう取り組むかについてもっと真剣な検討をあちこちではじめていると思う。 カーソン女史が時代に楔を入れられたのは、女史が単なる科学者ではなく自然に対する詩的感性にもすぐれ、その言説が多くの人々の心を打ったためだと思う。 山中で雨音を聞きながらこれを書き、私もカーソン女史には及ばぬまでも、最近私の書いたものに目を通して下さる方が増えてきたので、私に出来る範囲でこの国の自然について真剣に考える方の輪を広げなければと思った。こんなふうな考えを持てたのは、この地に来て一番の成果かもしれない。
今日の食事は午後4時過ぎに朝昼晩の3食かねて摂る。今日は終日山小屋に籠っていたため1食で十分だった。私は幸か不幸かいわゆる空腹感というものを感じることが滅多になくて、1人で旅行している時など連れがなければ食事をしに店に入るということはまずない。ただ、夕方まで殆ど何も食べていなかったりすると、ガソリンが切れてきたかな、という物理的実感はするし、食べ始めると好物なものなどついつい食べてしまうが、空腹感がまずないから便利といえば便利である。(それじゃ人生の楽しみが半分ないという人もいるだろうが)
以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)
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| 2003年9月23日(火) 一昨日は9時頃、清水氏の迎えで山を下り、多度津で稽古。山を下りた時、なんだか凄く弱くなっている気がしたが、四国や九州、岡山方面からも来られた方々数十人にそれなりに技が通った。 また今回は稽古会の最中いくつも気づきがあり、山に籠っていた間に多少は変わったのかもしれないと思った。例えば、抱き上げの潰しでは胸の辺りがわだかまるように落ちずにひっかかっていた事に気づき、ここをよく割って崩落させるようにすると更に重くなること、柔道の双手刈りのように急に姿勢を低くして両足を抱き込んでくる相手に対しては、慌てずすぐに相手の足をこちらの足裏の垂直離陸で抱え上げ返すこと、体術の相手への斬り込み技は、手で払ったり斬るというよりも、手に持った太刀で斬り払うという感覚で手というか腕を使う方が自然と斬り続ける感覚が出て、その腕が相手に触れた時、自然にロックがかかり威力が大きいこと等々が分かった。
そして昨日、四国から東京駅に着くと、新しい本の企画の相談があるという新潮社のA女史にホームで出迎えを受ける。A女史を伴って御徒町の岡安鋼材へ。ずっと気になっていた支払いを済ませ岡安社長と暫しいろいろな話をして、骨董工具を譲り受けてからタクシーで新宿の朝日カルチャーセンターへ向かう。
以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)
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| 2003年9月26日(金) 四国から帰って4日間家に居て、今日九州に向けて発つ。ただ、この4日間の忙しさは四国で山の中に籠る前より一段と用件が増えていた。それこそ次々と入る様々な依頼で、自分が今どこにいるのかをしばしば見失いそうである。 多くの方々から「秘書がいりますね」とか、「マネージャーが必要でしょう」等々の助言を頂くが、誰か頼んでもその人の居場所もないし、何をどう対応したらいいのか、その時その時の判断を任せられるほどの人など容易に見つからないし、私の人脈や対応の仕方を教えている時間もないので、結局今まで通りホームページの管理や原稿の清書や整理などを篤志の方に助けて頂く以上のスタッフは置くところが出来そうにない。 そのためダブルブッキングならぬトリプルブッキングの可能性さえ出てきたので、私と何か約束されている方は事前確認を電話でくれぐれもお願いしておきたい。 ただ、この忙しさの中でも23日、25日の稽古で発見はいくつかあった。主なものは組んだ状態からの両足裏の垂直離陸による発力。この動きは全身に均等に負荷がかかり、体のアソビがとれることがバックにあると思うのだが、現実には何がどう働いてこのような事が出来るのか、具体的な術理は今もって不明である。これ以外にも一つ有効な気づきがあったが、この方は更に術理がよく分からないので、さすがにここに書くのも憚られる。もう少し原理が見えてきてから書くことにしたい。
以上1日分/掲載日 平成15年9月27日(土)
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| 2003年9月29日(月) 27日の土曜日は、4時前に大阪から熊本入りし、5時過ぎから熊本劇場でのシンポジウムに臨む。時間が押していて思っていた事の何分の一程度しか話せなかったが、司会の松原隆一郎先生は空手と柔道に打ち込まれているため、シンポジウム前から話がいろいろと展開した。 シンポジウムが終わって、このシンポジウムに来て下さった方々から求められたサインをしたり質問に答えたりしていると、つい数メートル先でも同じようにサインを求められて何人もの人に囲まれている雄偉な体格の人物がいる。その人物はサインが一区切りしたところで私に笑顔で会釈。私も会釈を返してお互いに近づき初対面の挨拶をする。 新聞や雑誌、またテレビで何度も見かけてはいたが、いざ直にこの人物、室伏浩二選手その人に会ってみると、想像していたより一回り大きく、体重は100kgに1〜2kg欠けるくらいだということだった。つまり私より35kgは重いことになる。これだけの身体を造っている人と会って、「初めまして。室伏さんの事は以前から野口先生によく伺っていました。」「いや僕の方も甲野先生の事は何度も野口先生から聞いています。」といった言葉の挨拶だけではつまらない。「ちょっと体験されますか?」と言って、早速切込や直入身などを試みる。 室伏選手はかねてから野口先生に伺っていた通り、大変動きに関するセンスもよく、私がシンポジウムで「鎧は手に持っていると重くて大変ですけれど、着れば普通の体格の人でもある程度飛んだり跳ねたり出来るでしょう」という話を聞いて、「そうか、ハンマーも着れば違ってくるかなと思ったんです」と早速連想をいろいろ広げたとの事で、私の技も熱心に体験したいというその熱意についつられて次々と技を繰り出し、最新の、私もその術理が今までの技の中で最も掴みずらい「片腕浮かし」も体験してもらう。 この技は、私の右手前腕の上に室伏選手が両手を揃えて手掌を下向きにして頑張ってくるのを、足裏の垂直離陸と或る意識操作で体全体を浮かすものだが、室伏選手にも有効だった。その他、やはり足裏の垂直離陸を使う、相手に坐ってもらってこちらの片腕に抱きつくのを上へ引き上げるものや、お互いに棒の両端を持って押し合うのを一気に入ってゆくものなども試させてもらった。 その後、いろいろ話をして、結局体幹部をどう養成するかにまだまだ多くの可能性がある事、ものを飛ばすのはロックのかけ方に鍵があるのではないかという事などを話し、会場が閉まるというので他日を約して別れた。
翌28日は11時頃平田氏とM氏の迎えで佐世保の術理講習会へ向かう。
その後、2時間ほど寝てから十数年ぶりに私の手裏剣術の恩師である前田勇先生の遺族の方の御宅を訪ねるべく、北九州の黒崎駅に降りる。黒崎駅には兄弟子に当たる寺坂進先生が迎えに来てくださり、寺坂先生の案内でまるっきり風景の変わった筒井町の前田宅へ。御次男の奥様に前田先生の遺品のひょうたんやら根付印材など、いろいろと先生ゆかりの品々を頂いた上、夕食まで御馳走になってしまった。
以上1日分/掲載日 平成15年9月30日(火)
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