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2005年1月2日(日)

 気がついてみると2005年乙酉(きのととり)の年は、もう1日過ぎて正月二日になっていた。数日前から2004年の終わりに臨んで、何か書こうと思いながら何も書けぬまま年を越し、元日ももう過ぎてしまった。
 暮れに1枚の年賀状も書かなかったのは、確か2年前もそうだったが、元日にも1枚も書けなかったのは、私が年賀状を書き始めて以来、恐らく今年が初めてだろう。
 「忙しいからか」と問われたら、それも理由の1つかも知れないが、一番大きな理由は、何かは分からないが、何とも知れない私を急き立てるものがあって、年賀状など書いている気になれないのだ。その理由は1つや2ではなさそうだが、自分の心の中を覗き込むようにして観ると、1つは11月中旬から始まった、武術の新しい術理『三元同立』の展開がどうにも止まらなくて、その変化を追い続けているうちに様々な事を考えているからのように思う。
 それと、この事と密接に関連していると思えるが、12月25日、身体教育研究所で野口裕之先生にお会いし、非常に強いインパクトを受けてしまった事も大きな理由のようだ。お話しを伺った時間は、さほど長くはなかったのだが、今まで何十回どころか何百回とお話を伺った中で、かつて無いほど野口先生が遠かった。天才は孤独というが、この日わたしが今まで55年生きてきて、少なくとも私が直接会った人の中で、これほどの孤独感を感じさせる人は他に誰も思い浮かばなかった。そして、この時、このところ野口先生の所へはいつも一緒に行く名越氏の事が思い浮かび、「名越さんなら、まだ私よりこの野口先生の孤独を癒す力があるなあ」と、あらためて畏友名越康文氏の精神科医としてというより、人としての力量を思い知らされた気がした。
 ともかく、この日、野口先生から自分自身の身体に関する感覚の研ぎ方に、あらためてひとつのヒントを頂き、そのことを稽古にも転用しようと思ってから、更に『三元同立』の術理が進展。ただ、それが有難いとか嬉しいというよりも、とにかくとり憑かれたように工夫研究せずにはいられないように私を駆り立てるのである。
 そこへもってきて、12月29日の深夜、NHKスペシャル『地球大進化』をまとめてやっている事に気づき、これを観はじめたら、また思考が止まらなくなってしまった。地球全体が火の玉のようになったり、氷に覆われたりを繰り返し、何度も地球上のさまざまな生物が絶滅し、又、代替わりして登場を繰り返し我々に至るという歴史をみていると、本当に我々が生きているという事が稀のなかの稀なことだという事を今更のように感じた。
 こうした事が、ちょうどスマトラ沖地震津波の天災とも重なったせいか、山積みしている原稿や校正、片づけも殆ど止まったまま、稽古を通して自分の身内を見つめていくしかなくなってきた。その一人稽古のため、打剣で動きを検討しようと思ったが、昨年9月の末、取り敢えず組み上げた的の伐根が崩れかかってきていたので、これを新しく組み替える作業を始め、始めると止まらなくなり、30日、31日、元日とで計12時間以上は、この事に使ったと思う。
 その組み替えの途中、大晦日にはM氏に依頼してあった『願立剣術物語』の詳しい語句の注釈つきの訳の概要が届く。あらためて古人が体験と体感を文字にしたものと、現代スポーツ・トレーニングとの差を思った。
 術が術たる働きをもつのは、科学的な二次元思考法では矛盾することを成し得ているからだろう。科学的にどれほど研究しても、矛盾を矛盾のまま成し得ている生命の働きから生まれる術の究明は不可能だろう。もちろん、術を研究し、術を進展させるための術理は、直観や閃きだけでなく論理的推考を重ねることが少なからずあり、科学的手法とも重なるが、これは本来科学が様々な現象や技術を考え工夫進展させるためのものであったから当然であろう。
 ただ、いつの間にか科学が権力を持ち、論理的記述の不可能なもの、科学では扱いきれない事が排除され、すべて論理によって説明しようという空気が支配的となってしまった。それが決して人間にとって幸いであるとはいえない事は明らかだと思うのだが、現代社会は、ますます感覚を削ぎ落とし、論理のみで考える方向へと向かっている。
 大晦日、思いがけぬ量の降雪で、家族と共に雪景色を見に近くの公園に出かけたが、その往復2キロの道程で、雪遊びをしている子供の姿を1人も見かけなかった。私が小学生か中学生の頃、この地域に住む子供の数は現在の数十分の一だったと思うが、雪が降れば至るところで雪合戦や雪だるまを作る光景を見ることが出来た。それが山中ではなく、少なからず人が住んでいる地域で、大晦日とはいえ休日に1人として戸外で遊んでいる子の姿を見なかった事に心は一層寒くなった。
 今年は後三週間ほどで新潮社から『身体から革命を起こす』が刊行される。この本が多少なりとも感覚という事の重要さを社会が本気で考えるキッカケの1つともなれば幸いである。「社会のために」などという押し付けがましい気持ちは毛頭ないが、私自身生きる意欲を失うほどの感覚の鈍い人ばかりが溢れない事を、年頭にあたって心から願わずにはいられない。
 そのために、本年も志のある方々の御協力をあらためて乞う次第である。

以上1日分/掲載日 平成17年1月3日(月)


2005年1月3日(月)

 暮れから浮世離れしたモードに入っていた私を揺さぶるような便りが続々と入ってくる。そのなかでも群馬大学の清水先生の情熱は群を抜いている。御自身が日本のエイズ研究の草分け的存在でありながら、科学について、医学について、人間にとっての幸せを置き忘れ、それを口実にはしていても現実には研究の進展にしか興味のないような医学界に対して、これほどの情熱をもって告発し続ける科学者は、日本でもそう何人も存在しないのではないだろうか。
 また、福島大学の白石先生からも、御自身のNHK「日本語なるほど塾」のテキストとDVDを送って下さった中に、思わぬ所で思わぬ人(この人物は、もう20年以上前に私のところで稽古を始めたI氏で、今でも交流が続いている)に会い、人の縁の不思議さをつくづく感じた旨のお便りが入っていた。
 そして、まだ1枚も賀状を出していない私に来る申し訳ないほどの量の賀状やお便り・・。シナジェティックス研究所の梶川泰司氏からは、「銀河新年 あけましておめでとうございます」との書き出しで、私がすぐにでも行きたくなるような雪景色の山中に建つ、かつての学校(現在の梶川氏の研究所)の画像つきの御挨拶メール‥。テンセグリティーは、今後武術の技を考える上でも少なからぬヒントになりそうなので、この地には今年は是非伺いたいと思っている。
 賀状を頂いて、すぐにでも御返事を書きたいと思う方が数十人もあり、それだけに、どの方から書こうかと迷ってしまい一層筆が鈍ってしまった。取り敢えず、この随感録で、年賀状を下さった方々に深く御礼を申し上げたい。

以上1日分/掲載日 平成17年1月4日(火)


2005年1月6日(木)

 やらなければならない事は山積みしているが、稽古をし出すと、のめり込む。5日も午後から来館者があって技の工夫をする。総合格闘技関係の人も混じっていたので、最近の工夫をいろいろやっているうち気づきがいくつもあったので、つい蔵前の会に出る時間に間に合わなくなり、稽古していた恰好のまま、暮れに四国の守氏から届いた藍染の半纏(はんてん)を羽織って飛び出す。半纏の下はやはり藍染の道衣で、下は私が特注した極太の藍染の柔道衣。この、まるで植木職人のような恰好で草履ばきだと駅の階段もこんなに楽かと思うほどで、それだけに着物に袴、そして朴歯という普段の私の外出姿は常に転倒に気を配っていて、自然と稽古になっているのだろう。蔵前には少し遅刻する。
 遅刻の理由説明に、気づいたばかりの新しい技などを解説して実演。たとえば、肘関節を逆にとる腕ひしぎ逆十字に入られそうになった時、抜刀、納刀の体を作っておくと、相手が肘関節を逆に極めようと後方へ体を倒す動きで上体を起き上がらせてもらえる。こんな方法があるなどという事は、三元同立の動きが展開するまでは全く気づかなかった。もちろん、気づいてから、まだ十数回しか試みていないから、実際どのくらい有効かは分からないが、以前だったら全く想像も出来なかった状況で体が動くというのは面白いものだ。
 この技でも実感したが、胸辺りの横方向の動きのアソビをとるというのは、十年以上前、「井桁崩しの原理」に気づいて数ヵ月後に展開した「四方輪」の術理と重なるものを感じる。もっとも、重なるというより正確にいえば、あの当時よりは『願立剣術物語』で説く「四方輪」に「近づいたかな」という感じがする。あの当時は「これが『願立剣術物語』で説く四方輪とは思えないが、この伝書で気づきを授かったことに因み、その恩に感謝する意味から四方輪という言葉を使わせてもらった」といった意味の事を本にも書いた記憶があるが、今回の三元同立からの展開で立ち上がってきた四方輪は、十年ほど前の思いつき的命名の四方輪よりはかなりマシだと思う。
 念のため、ここに「四方輪」が説かれている『願立剣術物語』の三十四段目のはじめの部分を引用しておこう。

 手は車の如し。車の道をよく直に押せば自由自在なり。横に押せばたちまち砕けるなり。習いの道を我が太刀の行く処まですらすらとやれば敵の怒りは我と砕け落ち、敵も独り行き、我も独り行く道也。向こうへ行く心の車一つ左右へ行く車一つ此の二つを合わせて四方輪也。しかるゆえ玉を転ばすの形是なり。此の輪を回すこと大事也。太刀のあたる際にて俄にちやくと回すこと悪し。初めなく終わりなし。循環の端無きが如し。

 ここで、「左右へ行く車一つ」というのは、向こうへ行く(前へ行く)心の車を、ただの車輪ではない球とするために、常に前方向と直交する円を描く左右の車の連続体であり、球を形作っている円だと思う。すなわち、常に回転し、前転して行く車輪の集合体としての球なのだと思う。
 こんな事をいろいろ考えながら解説していたら、参加者の中にJリーガーの深沢選手の顔を見つける。早速、走り抜けようとする私の動きを止めてもらうところを抜ける技を体験してもらい、その場で後ろ向きに抜ける法やら回転して抜ける法やら、いくつか新しい抜き方を工夫した。
 その後、極短距離走について深沢選手から質問を受けたので、ちょうどいい機会でもあり、いろいろ状況も変えて受けてもらい、感想を聞いたところ、床を蹴らないため動き出しのタイミングが掴みづらいし、きわめて有効との事。お蔭で私はこの走りの有効性について自信を深めた。
 それにしても、こんなに余計な事を考えず稽古に集中できたのは一体何年ぶりだろう。ひょっとしたら三十年ほど前、合気道を稽古していた頃以来ではないかと思ったほどである。帰路は身軽で草履ばきだった事もあって、最寄り駅から走るようにして帰宅したが、もう3〜4時間くらいは楽に稽古出来そうだと思えるほど調子は良かった。そのため、結局2〜3時間一人で稽古をしてしまい、寝たのは午前4時に近かった。
 これも時間が無くて稽古着姿のまま急いで飛び出した事も理由の一つだろうか。もしそうなら守氏のお蔭である。何しろ守氏に送ってもらった半纏があったので、とにかく稽古着姿のままでも、その上にひっかけて出かけられたのだから…。この半纏は、例えば作務衣姿で、よく出かけるような人にも好まれるのではないだろうか。御関心のある方は私のホームページともリンクしている「いかりや呉服店」のホームページを御覧頂きたい。
 半纏の宣伝をしたついでに有用なインフォメーションをもう2つほどしておきたい。一本歯の朴歯が膝痛・腰痛の回復に一時的対症療法ではなく有効なことは、前からいろいろ報告を受けていたが、最近も「あれを履くようになって大分楽になりました」という話をいくつか聞いたので、あらためて腰痛・膝痛のリハビリに関心のある方は、履かれてはどうかとお勧めしたい。一本歯の入手については、既に告知板で紹介してある大野屋履物店が、安くて良いものが入手できる。価格は従来どおり5400円で、八寸と八寸五分がある。勿論、私が日常の外出で使っている二本歯の朴歯の下駄も入手可能。こちらも大きさは八寸と八寸五分で価格も一本歯と同じである。
 そして、最後に、今日久しぶりに髪のカットに行った谷原氏の店「ALQ 」のインフォメーションも載せておきたい。私の身体の動きに関しては、あと1ヶ月で56歳となる現在、昨日も現役の総合格闘技の選手やJリーガーに驚かれるほど二十代や三十代の時よりも速さも威力も技術も上回っているが、ハッキリと衰えを実感するのは視力。そして髪である。視力は、遠くはあまり変わらないが近くは本当にボケてきた。髪は、髪が沢山あった頃は適当に家人にカットしてもらっても自然とまとまっていたが、少なくなってくると下手なカットではどうしようもない。思い切って短めに刈り上げてしまおうかと思ったが、顔が長いため、何とも異相になりそうなので、会う人の迷惑も考え思い留まった。そのため、この薄い髪をそれなりにカットしてもらえるところを考えていたのだが、数年前、大阪で畏友の名越康文氏の達ての勧めで、カットの腕が抜群という美容院「タクシー」に行ってみた。(その時のことは、確かこのホームページでも書いたように思う)
 その後、自宅近くの美容院に、一人たいへん腕の良い人がいるというので、妻の勧めで行き、カットしてもらうとタクシーに劣らぬ見事な腕で、以来ずっとその美容師である谷原孝之氏にやってもらっていたのだが、その谷原氏が秋に独立して、美容室「ALQ」を出店。ただ、私が都心へ出るのとは反対方向だったため、行きづらくなり、何回かはいろいろと場所を変えて床屋にも行ったのだが、どうも谷原氏の小気味良いハサミさばきを知った身としては納得がいかなかった。それでも、何しろどうしようもないほど忙しかったので、あちこちと行き当たった床屋で済ませていた。しかし、谷原氏のところが目立たないところで、「これほどの腕の人が、なぜこんな所でひっそりと十分に腕が揮えずになければならないのか」という状況だという事を聞いていたので、今日、初めて「ALQ」へ行き、久しぶりにカットしてもらったのだが、そのピタリと来る感覚は、交通の少々の不便さには代えられないとの思いを持ったので、これからもまた髪のカットは谷原氏にやってもらおうと思っている。都心からは少し遠いが、これを読んで御関心を持たれた方は、是非「ALQ」に一度行かれることをお勧めしたい。

以上1日分/掲載日 平成17年1月7日(金)


2005年1月9日(日)

 「今日の京都の講習会は夕方からだから、ゆっくり出ればいいな」と安心していたせいか、思いがけず11時まで寝てしまい、大慌てで仕度して家を出る。どういうわけか神様は、常に私をせきたてるような状況を作るのがお好きなようだ。ただ、お蔭で久しぶりに7時間以上寝られたため頭はスッキリした。昨日までの技の展開も、何だか随分昔のことのような気がする。
 さて昨日は何があったかなと思い返すと、ひとつ大きな仕事が入ってきた事を思い出した。それは、今まで7回ほども依頼があり、2年前、制作会社の熱意に負けて引き受けたが、話が決まってからNHKに企画を上げたところ、NHK側から拒否されて潰れた「課外授業・ようこそ先輩」への出演依頼である。そして、今度はNHK側の意向もあって、私を取り上げようという事になったようだ。
 2年前、渋る私を口説きに口説き、私の出身校にまで交渉に行って了承を取り付け、「さあ、やるぞ」と張り切っていた担当者は、憤懣やる方ないといった口調で、NHK側が私を取り上げることを却下した不可解な理由を私に伝えてきた。その理由とは、「あまりにも時の人すぎる」というコメントだった。当時、桑田投手の事が話題になっていた頃で、それが「時の人」という表現だったのだろうが、私は、恐らくは私に対する評価がNHKのなかでも分かれ、慎重論が勝ったのだろうと思った。というのも当時私をよく知るスポーツ指導者の許に、別のNHK看板番組の担当者から、私の事について「あんな事はまるでインチキだ、という話も聞くのですが…」という誠に率直な問い合わせが入ったという事を、問い合わせを受けた御本人から聞いていたからである。
 まあ、それが、その後NHK教育テレビの「人間講座」に講師として出たり、卓球の平野選手やバスケットボールの浜口選手への指導、介護者にも被介護者にも負担のかからない介護法の展開等々から(もっともNHKの担当者がどこまで知っているかは分からないが)少なくとも私のやっている事に関して、それなりの評価は確定したのだと思う。
 私としても1度引き受けた話だし、負担のかからない介護法をより多くの方々に伝えたいという事もあって、今回引き受ける方向で返事をしたが、少なからず時間を要するこの企画の打ち合わせと準備、そして撮影が、現在の私の過密スケジュールの中で、4月の全面休業前に行なうことが可能かどうかは難しいところである。そして、引き受けたにしても、その授業で何をやるかを選ぶのが大変である。
 恐らく、この番組に今まで出演された方々のなかでも、私ほど多くの分野にまたがった事をしていた方は、まず見当たらないのではないかと思う。例えば、スポーツ的な動きにしても、サッカーやバスケットボールのガードの抜き方、躱し方、極短距離走、ラグビーやアメフトなどのタックル潰し、野球の牽制球のフォーム、すべり込み、バッティング、カバディの両足掴みの対抗技、楽器演奏の際の体の使い方、フルートの持ち方、ピアノを弾く前の肘と肩の沈め方、介護での各種体の起こし方・抱え上げ方。こうした動きを育てるための一本歯の朴歯歩き、茣蓙引き、受け身、また基本的な生きる技術のための火の燃やし方、薪の割り方、粗朶のつくり方、いわゆるナンバ的な歩き方による階段昇り、そうした事と関連付けて木刀の振り方、杖の扱い方等々やってみようかと思うことは数々ある。そして又、放映されない可能性は大だが、最も簡単かつ安上がりな災害回避法である「三脈の観方」なども教えておきたい。
 とにかく頭優先の現代にあって、身体を使って考えることの重要さを伝えられたら何よりだと思う。それに関連して、コロとキャスターのこと、逆風も使えるヨットの話、動滑車のこと等々、さらに大工道具やその他各種道具と使い手のことなど展開し始めたらキリがなさそうで、企画の会議をやっているうちに収拾がつかなくなりそうな気がしてきた。
 あらためて自分でも、よくここまで手を拡げてきたものだと思う。その上、数日前に電話のあった梶川泰司氏と、テンセグリティに関して2人で何かやりましょうという話にまでなってしまい、まだまだテリトリーは拡がりそうである。しかし、あのアインシュタインも感嘆したというテンセグリティ構造は、武術の技を考える上できわめて興味深い。諸々やることはあるが、梶川氏からは是非詳しく解説を聞いてみたい。
 こんな事を書いているうちに、"のぞみ"は京都に近づいてきた。そして、ふと窓の外を見ると、何と雪。米原駅付近は絵のような雪景色。雨具を何も持って来なかったことに初めて気づく。旅に雨具を忘れたのは今まで記憶にないほどだから、やはりあまりにもやる事が多いのだろう。
 この旅から帰った翌日は朝日カルチャーセンター湘南の講座。この事も、つい忘れそうである。そう言えば、この13日の講座はまだ空きがあるそうだ。御関心のある方は告知板にも出ているのでお問い合わせ頂きたい。多分、今月25日、新潮社から『身体から革命を起こす』が刊行された後は、どこの講座も受講者がかなり増えそうなので。それほどに、この本は田中氏の名文が光る。おまけに書店向けのチラシにあった養老先生の推薦文は、さすがに自分でここに書くのは気がひけるほどスゴイ。まったく、この先どうなってしまうのか、まるで見当もつかない。

以上1日分/掲載日 平成17年1月10日(月)


2005年1月13日(木)

 昨日12日、夜10時すぎに帰宅。3泊4日の旅も決してのんびりしたものではなかったが、帰ってみると、またいくつもの依頼のFAXやら何やらが溜まっており、それらに一応ザッと目を通して寝たが、旅の疲れで7時間ほども寝ると、起きてからが大変だった。片づけをしている最中に何件もの電話。電話が一段落した時、シナジェティックス研究所の梶川氏から『宇宙エコロジー』(美術出版社刊)の大著が届く。光岡師も深い関心を寄せているテンセグリティについて詳しく書いてある。
 20分ほど、つい夢中になって見てから、「これはいけない」と慌てて片づけを続けると、ほどなく今日撮影の受けを頼んでいた岡田氏とNHK教育テレビのスタッフが来館。ろくに片づいていない道場に入ってもらい撮影となったが、福祉ネットワークの中の、恐らくは2分程度の時間しか放映にならないであろう私の武術の紹介に、何と3時間もかけての撮影。
 そのため、この日初めての食事は、撮影の後、藤沢の朝日カルチャーセンター湘南に行く為の小田急線の駅のホームで食べた小さな握り飯(家で食べることが出来なかったので、家人に出掛けに大急ぎで握ってもらったもの)2つ。その2つを出すためにバッグを開けたら、昨日の旅行から持ち帰ったもので、家に置いてくるべきものがいくつもあり、今更ながら私がいま置かれている状況の只ならなさにタメ息が出た。(もうやがて1月も半分過ぎるというのに、出した年賀状は2枚きり。宛名は10枚ぐらい書いてあるのだが、それ以上書くヒマがない)
 NHKの福祉ネットワークに、NHKの「ようこそ先輩」とテレビが2つ重なり、そこに又、新しい出版社からの依頼。ずっと止まっているPHPと仮立舎の原稿のことも、とても気になるし、昨日久しぶりに稽古に来たいと連絡のあった桑田選手とも会いたいし、11日の夜から12日の昼にかけて、岡山でいろいろと話しをした光岡師との話の内容についてもあらためて検討したい。
 また、今回の関西行きでは久しぶりにアメフトの選手にいろいろ体験してもらったが、今までにないほど選手側にも理解をしてもらうことが出来、話しをしていても張り合いがあった。また、女子プロゴルファーのS女史の熱心な質問に応えて、私の、現在のゴルフスウィングとは全く異なるスウィングを兵庫のとある河原でお見せしたが、何度か実演してみて私自身「これなら現行のゴルフスウィングよりは、絶対に正確にボールが打てるに違いない」と強く感じるものがあった。
 ゴルフは、私が最も関心の薄い分野だが、これを武器と考えれば、それなりに関心も高まってくる。今年は機会をみて、実際にボールを打ってみようかとも思っている。
 今回は初めて赤星氏が世話人で、京都で講習会を持ったが、底冷えのする京都の夜にも関わらず、熱心な方々が数多く集まられたのには驚いてしまった。京都は私にとって関西の中では最も思い出深い所なので、次回は打ち上げの懇親会にも最後まで居られるようにしたい。
 「世話人の赤星さん、打ち上げの場所取りや世話をして下さった二村さん、お世話になりました。この場を借りてお礼を申し上げます」

 明日は池袋の講座。その前にも人が来るし、次回23日に名古屋を経て関西に行くまで、殆ど休める日はなさそうだ。そして、関西にいる25日、新潮社の『身体から革命を起こす』が刊行される。この本は既に何度も言っているが、今まで私が出した本の中で最も社会に影響を与える本となるだろう。それがどういう波紋を広げてゆくのか分からないが、出来る限り私にとって納得のいく方向に身を置きたいと思う。

以上1日分/掲載日 平成17年1月14日(金)


2005年1月17日(月)

 曲芸のようなスケジュール消化が、いつの間にか始まっている。13日、NHKの撮り。それが終って藤沢の朝日カルチャーセンター。深夜に帰って14日は郵便物やら片づけをやりかけているうち、急に来館が決まった桑田投手が少年野球のスタッフ同伴で来館する。久しぶりだったし、普段にも増して楽しそうな様子だったので、池袋コミュニティカレッジに出かける時間ギリギリまで稽古。桑田氏らに解説しているうちに、極短距離走の稽古と工夫は、殆どの武術やスポーツの体づくりの基盤に好適であることが実感されてきた。
 池袋の講座では、前日に続いて再びNHKの「福祉ネットワーク」の取材が入る。スタッフが感じの悪い人ではなかったので、あまり講座の邪魔にもならなかったが、「福祉ネットワーク」の30分番組で、私の出演が仮に20分あったとしても、私の紹介として使うには、長くて5分ぐらいと思われる武術の実演や解説を中心にしたものを、2日かけて5時間も撮って、一体使わない分はどうするのかと気になる。
 ただ、添え立ちを実体験してもらった受講者の中で、この介護法をやっているうち、自分自身の腰のダルさがとれたという感想を聞くことが出来たのは、私としては大変嬉しかった。この後、喫茶店で常連の人達と話しているうちに、つい時間が経ち、帰宅してみれば日付は15日。片づけの続きを多少はしたが、この日15日は午後からスポーツ関係者対象の実演・実習会を桐朋でやることになっていて、その後、野口先生のところに行くことになっていたため、体を休めておこうと2時には寝た。
 そして同日15日午後1時過ぎ、防大の入江助教授や筑波の高橋氏にバスケットボールの浜口さんの迎えで桐朋へ。この企画は、昨年入江先生から話があったのだが、人数や場所は二転三転し、けっきょく桐朋高校の先生方の御厚意で、小学校の体育館を空けていただき、開くことが出来た。従って、主催者も世話人も定かではない、きわめてフランクな会となったが、別の見方をすれば、実質本位の大人の会でもあり、私としては大変やりやすかった。とはいえ、場所が桐朋だったので、桐朋の中高のバスケットボール部員に、小学生も混ざっていたかも知れず、参加人員は全部合わせれば100人を越えていたと思う。ここでバスケ、サッカー、アメフト等の選手やコーチの質問に答えていろいろと試みたが、様々な状況、状況で具体的質問を貰ったため、この日新しく創った技法は20ぐらいあったと思う。
 そのあと、ファミリーレストランで冷えた体を暖めながら、入江先生や高橋氏、深沢選手、浜口女史らと歓談。その後モードを切り換えて、野口裕之先生の所へ向かうべく、二子玉川の駅のセルフサービスの喫茶店で名越氏と待ち合わせる。すこし遅れて到着した名越氏に、「東京に来ても見られるでしょう」と言うと、「いや、もう全然そんな事ないですワ」と答えていた端から、名越氏が注文のため席を立つと、近くにいた3人連れの若い女性が、「あの人、ほら、『グータン』に出ていた先生と違う?」と早速噂しあっていた。近々、東京での仕事にも本腰を入れるという名越氏だが、「グータン」は降りても注目度は増すばかりだろう。
 しばらく喫茶店で名越氏と話をしてから身体教育研究所に向かう。この日、寒かっただけに、野口先生は逆に熱くなられている予感がしていたのだが、どうやらその予感は的中したようであった。この夜、野口先生の「明治以後の文学なんて、あんな便利さだけを優先させた明治の日本語でも『文学の真似ぐらいは出来る』という事をやっただけの事でしょう。誰がどう頑張ったって『方丈記』や『奥の細道』のようなものが書けるわけないんですから」という過激な発言には、明治以後の近代化路線が、いかに日本に育まれてきた感覚を中心とした文化の基盤を破壊してきたかという事に対する野口先生の深い深い悲しみと、決して晴れることのない恨みをあらためて感じた。これは野口先生の人間を観察する技法がますます科学化・数値化には程遠い感覚主体のものへと回帰しているというあらわれでもあろう。そして、この事は、この日記録的な滞在時間(野口先生の許を辞したのは午前4時に近かった)の終わりに解説して下さった内観技法の一端が五感を駆使した感覚技法そのものであり、文字や記号がかろうじて、その消息を伝えているに過ぎないことを知って、名越氏共々嘆息してしまった事でも確認できた。
 国を挙げて科学化・数値化に走っている時代に、このような志向の野口先生が、どんなにか生きづらいことかと思うと、本当に気が遠くなりそうである。それだけに、ますます無知蒙昧な、時に不作法で「私はとても世の表に出られる人間ではありません」という野口裕之像を演じられているのだと思う。私も少し前までは野口先生に世の中に出て頂きたいと思ったが、最近は少しでもホッとできる時を持って頂きたいと思うだけで、これ以上無理強いは出来ないと思うようになってきた。
 そんな事を思いつつ5時頃家に帰りついて、寝たのは結局午前7時近く。5時間ほど寝て、起きて片づけをする間もなく、群馬大の清水先生から電話。この方も科学の問題点をここまで自己批判するかというほどの方。結局90分ほどもお話しする。ただ、この間、以前から気になって仕方がなかった私の佩刀の鍔の緩みを直す。まず、径5ミリのサラ(純銀)の棒をボルト・クリッパーで喰い切り、ハンマーで打って鍔の緩んだ処に押し込み責金とする。そのための、ただ鏨も作り直し、ヤスリかけ等いろいろやっているうちに、ほとんど90分使ってしまったが、久しぶりにものづくりの充実感を味わった。
 その後、片づけをしているうち気づくと、もう千代田の会に出る時間。大急ぎで、結局また四国のいかりや呉服店特製の長半纏を引っ掛けて稽古に駆けつける。ここでも前日に続き、いろいろな質問に答えているうち新しい技法をいくつも創ることが出来た。特に総合格闘技系の技に気づきがあったが、これについては又あらためて書きたい。
 そして今日は「紀伊民報」の石井氏(先日まで朝日新聞の編集委員)から電話で起こされる。卓球の全日本選手権で、再び平野早矢香選手が優勝して二連覇したとの知らせ。そして今回は毎日新聞とサンケイ新聞が、平野さんが古武術を取り入れた成果を報じているとの事。「あの平野さんが・・」と暫し感無量。平野さんを私に引き合わせられた淡路島の山田先生にお祝いを言わねばと思っていると、当の山田先生からお礼の電話が入った。そこへ新潮社の足立女史から連絡があって『身体から革命を起こす』は、いよいよ18日に見本本が出来、店頭には25日、早いところで(書泉などだろうか)23日に並ぶとの事。(それにしても新潮の『波』に載る予定の、神戸女学院の内田先生の本書の書評は、私のことだけに、ここで紹介しにくいが、文章的には見事というかしない)
 そして、夕方は『ようこそ先輩 課外授業』の打ち合わせで、ドキュメンタリージャパンのスタッフY氏とU女史が来館。話し込んでいるうち気づけば8時を過ぎていた。

以上1日分/掲載日 平成17年1月18日(火)


2005年1月19日(水)

 「盆と正月が一緒に来たようだ」という表現は昔からあるが、今の私は新潮社の本の刊行を目前にし、地震と大掃除と法事と葬式と誕生日と結婚式等々が同時に来ているような状況…。
 それは対外的な忙しさに加え、野口裕之先生に体を観て頂いているからだと思うが、凍結状態となっていた古傷が一斉に解凍状態になってきて、右肘に加えて左足の甲も痛む。左脇腹もひきつる。右下腹部の異和感等々、黙っていた部分が一斉に蜂起してきた感じである。しかも、それらの古傷は微妙なネットワークを組んでいて、全てつながっているようなのである。野口裕之先生が開発された内観的身体を整える技法が、どのようなものか、まだとても理解出来ていないが、従来の身体観・健康観とは全く頭を切り換えなければ、これに取り組むことは難しそうである。ただ、それだけに稽古の質的転換に生かせれば革命的な進展があるような気もする。
 しかし、そうした事に取り組みたくとも、年賀状はいまだ2枚書いたきりで、小さい用件まで入れれば数百件の「ああ、やらなければ」という事がひしめきあっており、その上、配慮のない編集者が少なくないのには参る。私が出かけて不在となるのも構わず、締切りギリギリの原稿を送ってきたりする。どうして「見ていただく原稿は○日頃できますが、その頃のご予定はどうでしょうか?」と1週間くらい前に聞く配慮が無いのだろうか。こんな事も加わって、凄まじくストレスが溜まる日々が続いている。
 以上のようなありさまなので、FAXや手紙で何か依頼されている方は、必ず電話で直接私と話をして確認をとって頂きたい。とにかく、封を切ってもいない手紙が思わぬところから出てくることは、このごろ珍しくない状況となっているので…。

以上1日分/掲載日 平成17年1月19日(水)


2005年1月20日(木)

 20日の午前2時28分、市ヶ谷の私がいつも泊まる旅館で、新潮社の足立女史から『身体から革命を起こす』(からだから かくめいを おこす)の見本本を受け取る。受け取る時間がこのような非日常的時間になったのは、足立女史が大変忙しかった事と、私が足立女史に渡す献本名簿と献辞書きに大幅な時間を要したためである。
 本の装丁は、見づらいFAXで送られてきたものを見てはいたのだが、その予想とは全く違っていた。普通こう言うと「予想よりも良かったのか、悪かったのか」と聞かれるものだが、その質問には何とも答えづらい。この本の内容は、田中氏の筆力に鳥肌が立ったくらいだから、多くの方々に是非読んで頂きたいと思うのだが、そうした内容を既に知っている私としては、私自身の非常にクリアなモノクロの写真が載っている表紙カバーに、黄色系の文字でメインタイトルが三段に横に並んでいるというのは、何とも奇妙・・。そう、奇妙なのだ。
 今まで私が出した本の表紙に私自身の写真が載ったことは何度もあるが、今回ほどその写真が目立ったことはなかった。置いてあると、何というか、そこに本があるというより私の写真の上に何か文字を書いたものが載っているという感じで、本という感じがしないのだ。もし、本だとしたら(実際本なのだが)強いていえば『写真集』の雰囲気なのである。ここまで予想が外れると、もはやコメントのしようがない。ただ、足立女史から受け取った当初は、疲れとやっと出来たという安堵感とで、あまり気にならなかった。
 1時間ほどの足立女史との様々な打ち合せの後、ついつい内容を拾い読みしたりしているうちに5時近くになってしまい、慌てて寝たが、起きてからあらためて眺めてみると、つくづく「奇妙」・・。ただ間違いなく平積みになったら妙に目立つ本になりそうだ。ただ、この本の裏に載っていた新潮社の本の広告に、私が歴史上最も敬愛している女性学者レイチェル・カーソン女史の『沈黙の春』と『センス・オブ・ワンダー』が載っていたのは訳もなく嬉しかった。
 起きてからは、ひたすらPHPの本の原稿書き。そこへ冬弓舎の内浦氏から光岡師との共著『武学探究』の見本本が予定より早く、来週中頃にも出来てくるとの知らせが入る。全くの新刊が、このようにほぼ1週間の間隔で出来上がってくるという事も今までに例がなかった。この分では、今年も予測を超えた事がいろいろ起こりそうだ。
 体調は、どうも喉の痛みが慢性化して完全な風邪症状。「いまは倒れられないからね」と体に言い聞かせて頑張っている。23日の名古屋の会、24日の神戸での内田樹先生との対談、そして週末には東北行き。帰ってくれば盲学校の生徒への指導に、NHKの撮りに、そして今度は西の方への稽古と、ずっと予定は入りっぱなしである。
 ただ、そうしたなかでも気づきはある。16日の千代田の会で、総合格闘技のU選手から質問されて、その場で思いついた「首抱えの捨身」ともいうべき投げ技は、昨日19日の蔵前の会で試みたところ、確かにこの先も残す価値のある技といえそうだ。
 原稿書きばかりでは体に悪いだろうと、旅館の一室でも、ちょっと刀を振ってみたら、「何だ、まだこんなにうねっていたのか」という発見があった。
 とにかく今はちょっとでも体を動かすと、必ず何か気づきがある。そうした中、原稿書きや名簿整理や荷造りに時間がとられるのは辛いが、何とも仕方がない。

以上1日分/掲載日 平成17年1月20日(木)


2005年1月21日(金)

 19日から市ヶ谷の旅館に2泊して原稿書きをしたが、20日の夜は、ついに風邪でダウン。20日はあまりにも大量に鼻水が出るので、近くの薬局でティッシュペーパーを1箱買ってきたが、21日は猛烈な腰のダルさに頭も痛くなり、典型的な風邪の症状…。
 ただ、23日の名古屋は這ってでも行かねば申し訳ないし、24日は晶文社の安藤氏に散々待ってもらった内田樹先生との本のために、神戸に行かなければならない。幸い馴染みの旅館で相客もなく、私のしたいようにさせてもらえるので、静かに休みつつ自分の身体の中をさまざまに探査してみる。すると次元の飛躍というのか、思いがけぬ不思議な感覚に出会ったり、気づきがあったりして、午後になって漸く起きられた。
 こういうことが、野口裕之先生が行なっておられる内観法にどの程度近いのかは全く分からないが、思ってもみなかった不思議な感覚に出会うと、それを何とか武術の技のヒントにしようとする自分がいて、あらためて私のなかに住んでいる、術に対する鬼の如き執念に驚いた。
 私のことを人はよく「五十歳を越えた現在でも日々進化しているのは素晴らしい」などと言って下さるが、「ものは言いよう」であって、少しでも進みたいという餓鬼のような何かに取り憑かれているという事なのだろう。ただ、幸いにもそれが反社会的な犯罪的方向に向かっていないとだけで、こと改めて褒められるようなことではないと思う。
 まあ、このような世界の専門家というのは、多かれ少なかれそういう部分がなければ成り立たないものかも知れず、その道に入りながら、そうした執念のない者は職業の選択を誤ったというべきかも知れない。
 それにしても、普段自覚していないだけに、時に自分の中の鬼を飼っていると気づくのは、あまり気持ちのいいものではない。

以上1日分/掲載日 平成17年1月22日(土)


2005年1月22日(土)

 風邪で寝ていると、40年くらい前の少年時代の感覚がフトしたはずみに鮮烈に蘇ってくる。
 当時、孟宗竹を割って作った手製の弓に、ホロホロ鳥の羽を矧いた矢やエゴノキを削って作った木刀を持って、家の近くの竹やぶや雑木林を歩き回っていた頃の私が、今の私に出会って話を聴くことが出来たら、おそらく息をするのも忘れるほどの思いをしただろう。このような話は、あと1週間ほどで刊行となる『武学探究』の中で光岡師ともしたが、時間は逆転できないから如何ともしがたい。
 新しく刊行となる本といえば、25日刊行予定の新潮社の『身体から革命を起こす』が、既に一部大型書店に出たようで、明日行く予定の名古屋の山口氏から「早速買いました」との連絡が入った。このぶんでは23日には大都市の大型書店の多くには並んでいるように思う。
 文庫本も入れれば、既に30冊くらい私も本を出しているが、今回の本は今まで出したどの本の時にも感じなかった、何ともいえない思いがする。恐らくは、社会に与える影響が、私が出した本の中で最も大きなものになる予感を確実に感じているからだと思うが、「事実は小説より奇なり」である。現実に起こる事は、常に人間の想定を超えるから、今後いったい何が起こるかについてはあまり想像しないようにしている。
 風邪の方は、風邪っぽい諸症状は残っているが、何とか明日は名古屋へ向かえそうである。

以上1日分/掲載日 平成17年1月22日(土)


2005年1月28日(金)

 風邪気を引きずりながらも何とか23日からの全日程をこなして、25日には、まあまあの体調で家に戻ることが出来た。体の方は、本当は熱も出し、汗もかいてリセットしたかったのだろうが、「今は倒れられない」との思いが強かったのだろう。熱も汗も出ることもなく体調は戻りつつある。あまり良い事とも思えないが、4月後半からの休業までは何とかもたせなければならないから何とも仕方がない。
 この間、新潮社から『身体から革命を起こす』が発売され、梅田の紀伊國屋書店に寄ったが、結構売れていたようだった。(実際、売れているらしい。一昨日の26日、新潮社から2刷決定の知らせを受けた)これも多くの方々、なかでも共著者の田中聡氏、編集者の足立真穂女史のお力によるところが大きいと思う。あらためて、ここに感謝の意を表したい。(2刷が決定したといっても、出来上がるまでには早くとも1週間くらいはかかると思う。したがって1部の書店では品切れが出るかもしれない)
 今回の旅は、風邪のせいで記憶が多少あやふやだが、名古屋の会場には中部大学の吉福教授も見え、私自身も気づきがいくつかあった。
 驚いたのは、この日の夜、世話人の方々に送られて、直前に指定席を取って乗った新大阪へ向かう「のぞみ」の車中で、翌日の神戸女学院の内田樹先生との対談の折、いろいろと手伝いに来て下さる予定のU女史と、同じく神戸女学院の講習会で知り合ったS氏が、たまたま東京であった合気道の講習会からの帰りという事で、同じ並びの席に既に座られていた事である。今まで数十年間、どれほどの回数新幹線に乗ったかとても数え切れないが、知人と同じ車両に乗り合わせたことなど1,2回である。同じ車両でもそれほど稀だが、同じ列ということはもちろん初めてである。しかも単に知っている人に会ったのではなく、翌日会う予定の人に会うという、あまりにも稀な出来事に一瞬「ああ、明日のことで、ここで落ち合う約束をしていたんだったかな」と思ったほどである。その、あまりにも稀有な出来事に、もちろん名古屋から大阪までずっと3人で話して行き、話しのついでに人気の絶えた新大阪のホームで、ついつい稽古をしてしまった。
 そんな事で体調はその時は良かったのだが、やはり波があり、翌日約10時間、芦屋の内田樹先生宅で行なわれた対談と鼎談(後半は名越氏も加わったので)では少し辛い時もあったが、最後まで何とかもった。
 この会には15人を越えるギャラリーが集まり、そこで久しぶりに淡路島の山田先生に伴われて、そのギャラリーの一員となっていた、先日の卓球女子シングルスで2連覇を果たした平野早矢香選手の顔を見ることが出来たのは、体調を落とさずに済んだ理由のひとつだったかもしれない。ただ、申し訳ないことに、ここで平野選手に、最近の私の体の使い方をいろいろと解説し、野球のバッティングに応用する動きとして、竹刀を持って構えているところを、こちらは、ごく近い距離から振っても威力を出すという実演で、両手を広げて竹刀を縦に構えている平野さんの竹刀から、10センチほど離れたところから、もう1本の竹刀で打ってみせたのだが、その2回目、より体をまとめて打ったところ、平野選手の手が竹刀を支えきれず、竹刀がハネ飛んで、おでこに当ってしまい、大粒の涙をいくつも流させてしまった。よほど痛かったらしく、内田先生宅の冷蔵庫にあった保冷剤をタオルに包んで、しばらく当てていたが、笑顔を絶やさず私に気をつかっていた様子は健気で強く印象に残った。
 卓球といえば「愛ちゃん」一色のなか、全日本の女子シングルス2年連続優勝という動かしがたい実力を示した選手がキュートな19歳ということで、今後新たなスターとして「平野早矢香」の名が広く世間に知れ渡る予感がした。(平野選手に関しては、朝日新聞のネット上のスポーツ・ジャーナルで、石井晃氏も書かれている)
 しかし、この日の対談・鼎談で圧巻だったのは、やはり名越康文・名越クリニック院長の話。「事実は小説よりも奇なり」の言葉どおり、名越院長が出会った常識を遥かに越えた家庭の事例などに、参加者全員が息を呑んで聞き入っていた。それにしても息を呑む話は活字にしづらい。延々10時間、晶文社の安藤氏には心から御苦労様でしたと申し上げたい。もちろん内田樹先生にも、この場を借りてあらためて御礼を申し上げたい。
 しかし、ギャラリーが多くて、美味しい料理にビールやワインが出てしまったら、なかなか対談・鼎談は成り立ちがたいという事があらためて分かった。
 翌25日は毎日放送からの招きで、同行した高橋佳三氏も交え、角淳一氏と先方のスタッフの方々と昼食を供にして、いろいろと話す。
 昨日27日、『武学探究』の見本本が届き、山積みする用件のなか、つい拾い読みして時間がなくなり、またまた大慌てで出かけ、銕の会の集まりに韻松亭へ。続いて新潮社の『エンジン』の取材を受けたが、帰りついた時、夜は完全に明けていた。

以上1日分/掲載日 平成17年1月29日(土)


2005年1月31日(月)

 見事な東北の雪景色を、山形新幹線の車窓から眺めながらこれを書いている。29日、30日と仙台で稽古会を行なったが、柔道指導者のW先生からの質問のお蔭で、またいくつもの技が出来た。たとえば、足払いに対して、いくつもの密着して吊るされた鋼球の端を打つと、間の球が動かず反対側の球がハネ上がるように、自らが相手の力を伝えて相手に返す因果応報的動き等々。ただ、風邪が抜けておらず、しょっちゅう鼻をかんで、水で喉を潤しながらの講習会になってしまい申し訳なかった。
 30日は午後から山形へ。ここで韓氏意拳の講習会で指導中の光岡師と合流し、共著『武学探究』の刊行祝いも兼ねての打ち上げに臨む。それにしても、きわめて実戦的な韓氏意拳の講習会が、一見実戦的とはとても見えない実に静かで微妙な、きわめて平和的な風景で行なわれているのは何とも興味深い。やはり、よほど縁のある人でないと、このきわめて平和的稽古法が恐るべき実戦的威力を持った拳法となっていることに、情熱を傾けて取り組むのは難しいだろうと思った。
 打ち上げの後は、ホテルの廊下で同行数人の人達に対する光岡師の動きの解説や指導を見学したり、いろいろと話したりして、結局3時間以上ずっと廊下で過ごす。あらためて韓氏意拳の指導体系の緻密さを再認識させられた。こうした事に比べ、現在の日本の武道界やスポーツ界は単なる根性論やら科学的という冠のついた中味のないものが、まだまだ幅をきかせている。
 例えば、相撲界も朝青龍の1人勝ちに対して、関係者達は他の力士達に対して、「せめて気迫だけでも負けないように」といった程度の発言を繰り返すだけだ。しかし、実力も技倆もない者が見せ掛けの気迫を持とうとしても、その結果は恐らく怪我が増えるだけだろう。本物の気迫とは、それに見合った技と力があってこそ出るものである。
 この「日本人力士なぜ弱い」という事に関して、29日付の読売新聞夕刊の『土曜茶論』に私も投稿し、何よりも現在の日本人の子供達を取り巻く環境が、雪が降っても1人も雪遊びをしている子供を見かけないことからも分かるように、体を使うことが無くなったのが根本原因と書いた。この私の意見も『土曜茶論』に採用されたが、「そもそも体がなっていない。精神以前の問題です」と、いかにも「武術をやっているオヤジの意見」といった感じに脚色されて載ったのには多少異和感があった。
 ただ、ここで『土曜茶論』の事を取り上げたのは、ここに投稿された何人もの方々の意見の中にあった作家の堺屋太一氏の意見が、現状を見ているようで見ていないように思われたので、ちょっとその事に触れたかったからである。まず、そのために、この『土曜茶論』で堺屋氏の意見に触れた紙面の部分を引用してみよう。

 日本人力士が勝てない原因を現代の若者に共通するひ弱さに求める意見に対し、「それだと柔道や水泳といった競技の選手がアテネ五輪で大活躍した理由が説明できない」と反論するのは、作家の堺屋太一さん(69)だ。「むしろ、相撲という特定の競技に人材が集まらなくなった、と考えるのが合理的」

 では、どうして人材が集まらなくなったのか。

 「企業にリストラの嵐が吹き荒れ、終身雇用制が崩壊し始めた1990年代前半以降に就職期を迎えた世代からは、一つの集団に生涯をささげるという意識が急速に失われています」 ―後略―

2005年1月29日付  読売新聞より

 私が堺屋氏の反論に反論したいのは、水泳や柔道といった競技と相撲とでは、その基盤となる人材の在り方が全く違うということである。相撲は、プロになるにはまず体格の問題がある。昔から「体が大きいから相撲取りにでもなるか」という話が多かったように、体格が人並み外れて大きいことが前提であり、それだけに相撲に入門する前は素人であった者が多い。現代のように体格が大きい者が昔よりも増えた時代では、体格だけで、すぐ「力士にでもなるか」という発想は遥かに減っただろうが、体格に恵まれていることが非常に大きな前提条件であることは変わりない。
 つまり、他のスポーツにくらべ、本人がその種目をやりたくて始めたという割合が低いのである。水泳にしても、キッカケは親に無理やりスイミング・スクールに入れられたということも多いだろうが、選手として活躍を始めれば本人にもヤル気が出てきていることが多いだろう。そうした泳ぎのエリートの中で、更に選び抜かれたエリートが日本代表となる水泳は、元々選手層の薄い相撲とは事情が違う。柔道も水泳ほどではないにしても、やはり中学以前からその道を専門に稽古を積んだ者達が競い合っている。
 しかし、相撲は学生相撲出身や柔道からの転向者がいるにしても、学生相撲出身は僅かだし、柔道からの転向は何らかの事情で柔道を諦めた者ということになる。つまり、子供の頃から、その道のエリートの中から選びぬかれた水泳などのスポーツ種目と違って、力士の多くは大相撲に入門してから相撲を始める者が多い。それだけに、その時代時代のごく普通の若者の体力、運動能力といったものが最も反映されやすい種目と言うことが出来る。
 昔は入門するまで全くの素人でも、数年で見違えるような強さを発揮した者がいたのは、相撲という競技が子供の頃、野山を遊び回ったり、いろいろな物を持ったり担いだりして働いた動きが最も活かされやすい、つまり日常の生活に密着していた競技だったからである。その、日常に密着した物を運ぶなどという作業で、昔40kgあったセメント袋が、現在では25kgになっていることが何よりハッキリと日本人の体力低下をあらわしている。
 堺屋氏の意見は、こうした事情に対する考察がなく、サッカーが盛んになったので野球に対する人気に翳りが出た、といった類の説明に近いように思われる。もちろん、私の意見もかなり脚色されていたので、堺屋氏の原文は、私がいま述べたことにも配慮があったのかもしれないが、私が、いま、山積みする用件に潰されそうになる状況でもこれを書いたのは、現在の力士の脆さが日本人の若者全体の脆さの最も端的なあらわれである事を、多くの方々に広く認識自覚して頂き、この憂うべき事実を根本的に改める社会教育環境の整備をして頂きたいと思うからである。
 日に日に便利になっていく世の中で、益々取り残されていく身体操縦の感覚。その重要さを何とか1人でも多くの方々に認識して頂きたいと思う。そうしないと、感覚の鈍いロボットのような日本人が増え、日本という国に生きていること自体大変辛くなってきそうである。

以上1日分/掲載日 平成17年1月31日(月)


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