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2005年12月5日(月)

 気がつけば、いつの間にか東北に出発してから10日以上が経ち、帰ってからも1週間になろうとしている。
 この間、東北旅行中も含めていろいろな事があったが、このところ、諸々の用件がありながらも、ずっと心を捉えているのは今の私の技の術理と、『願立剣術物語』のこと。そして、その願立の開祖松林左馬助が深く帰依していたという浄土宗のこと。それに関連して、浄土宗から生まれた浄土真宗の傑出した門徒ともいうべき妙好人のことなどなど・・。
 自分で納得のいく技とは、自分にとって手応えのない動きだということは、確かに想像がつく。それは、胃が一番健全な状態の時は、胃の存在そのものを感じないようなものだろう。技は、たとえば剣などで斬る瞬間に手之内を締めるのではなくて、動き始めた時からその威力を裡に秘めつつ、何事もないかのように進んでいるという事。これはチェーンソーが木を伐る前からチェーンが高速で回っていて、その伐ろうとする木に触れる前に何か別のものが触れても、それを切ってしまう威力があるのに例えられる気がする。
 このことは3日に『願立剣術物語』の38段目に、「ただ仮名の『し』の字を引く如く」というところを思い出して、俄かに書というのはその過程すべてが大事なのだという事に気づき、あらためて目から鱗が1枚落ちた気がした。
 また、18段目に「筆と手と心と一致して今の今を書く時は一の字をひき或いは仮に墨を付けても皆いきおい有ってよき手と言う也」とある。今の今を書くとは、常にホンの一瞬たりとも充実した心身の状態を崩してはならないというだろう。
 55段目に言う「敵に誘われ心も身も飛び出る病有る事、心の驚くは身の内一杯に心行き渡らずして足らぬ処有る故也。一盃と言うが伝也。たとえば闇に燈をたて其光一盃に通に似たり。また像敵の方へ飛び出るは敵を恐るる故、心先へ飛び身も外へ出るぞ。敵を放てただ我が身の内をそのまま動く事也。」も、この極く極く短い一瞬も充実し続けることの重要さを説いたのだと思う。こうした事を知る程に自分の未熟さ、今までのいい加減さに身が痩せる思いがする。
 先月末の仙台での稽古、秋田での小学生との交流、弘前での稽古等で、それなりの気づきがあり、例えば、かなりの武道経験者に、小手返しにかからぬように拳を固めた上にもう片方の手を添えて頑張ってもらったのも崩すなどという事は、一月前なら試みてみる気もしなかったくらい困難な事だったが、こういうことが出来たといえば出来たのだが、この随感録を書くために、今あらためて『願立剣術物語』を読んでいて、その程度のことが出来た、出来ないという事に心を動かしていた自分が本当に小さく見える。
 こうして深夜(5日の午前3時)『願立剣術物語』を読んで、今まで気づかなかった事が文字の上に浮かんでくると、どんなに私の技を褒める人がいても、それによって自信を持つなどという事は全くないし、反対に私の技をけなす人がいても、その人よりももっと具体的に深く厳しく自分の問題点を指摘できる自信がある。
 その点、過日この随感録に引用紹介した妙好人、因幡の源左が自らを罪悪重業の凡夫と深く深く認識していた気持ちの何百分の一は理解できる気がしてきた。何百分の一というのは、人間というのは自惚れが抜けがたいもので、潰しても潰しても容易には潰しきれないからである。(何しろ凡人は、それは生き甲斐にもなっているからだろう)だが、この自惚れと、人間の本質的自覚とは水と油のような状態であるらしい。無影心月流の流祖、梅路見鸞老師が昭和9年夏の『武禅』の創刊号に「真の修行」と題した一文を寄せられているが、そのなかに、

此道を得るには正師の爐鞴(ろはい)に入るは勿論、自己の肺腑を吐露して鉗槌を受くることを要とする。師家も亦学人をして必ず我見を滅却せしめ本心開眼をせしめる。我等も此境を幾度か往来した。「犬になれ、四ッ這になってワンと云へ、云へ」と云はれる。犬の真似は容易だが、犬には成りきれぬ。如何にも馬鹿らしい、人間が犬になれるか等と云った、自惚の撞着が心の一角に潜在していて、如何にしても成りきれぬ。此撞着我執で散々棒喝を喰って、初めて『自惚だ』と気がついた、此自惚がある間は何をしても真の仕事にはなって居らぬ。況や道を修行する等と笑止千万、我ながら笑はざるを得なかった。「馬鹿野郎、今日迄何にしにうせた、タワケ奴が」と大雷一下、此時初めて正師の有難味が明瞭に判った。有難いと思ふ刹那に心の弛みが出た。又一喝一棒を頂戴した。犬になるのを忘れていた。見事真の犬になり切って了った。それから一月程の後であった。犬になり切れた事を喜んでいた時であった。呼ばれる儘に近寄ると「面を洗って来い」云われる儘に洗面して来ると「それで綺麗になったか」-ハッと正念に帰った‐俺は人間だ、万物の霊長だ、師家の殺奪圏から正しく覚醒して来た。カーッ大雷の如き一喝を師に浴びせたが師は更に不関焉であった。

 という部分がある。そして、これに続けて「正師ならば如斯懇切丁寧を極め、我等未到の境を発見せしめる」とあるが、そうした師に出会わず、暗中手探りを続けている私にとって、自らをさまざまな角度から眺め、削り落とし削り落としてゆくしかないようである。
 もちろん、この先いくつも入っている稽古会や講座は、それが私の職業だから止めるわけにはいかないし、私が技を追求していく上で必要なものなので、積極的に取り組む気持ちでいるが、その積極さは今までと随分と違ってくる気がする。つまり、もうこうなったら恥をかくだけかいて、次に進んでいくしかないと思っている。もっとも、これを現象的に見れば、かつての私の技倆では、掛からなかった状況下で技が掛かる場合、それを私が恥をかいているとは見えないかも知れないが、今まで分からなかった願立の深みが今夜一歩踏み込んで分かってみると、先日までのように「いまの自分の技の98%までは不満」といった、まだまだ自分の未熟さに能天気だったレベルを超えて、「本当にお恥かしい限りですが・・これしか今の私には出来ませんので、これで何とか勘弁して下さい」という申し訳なさと、それが分かった以上、何とかしてもう少しマシな状態になってから人生の幕を引きたいという切実な思いに変わってきている。
 これから当分の間(それが何年、何十年続くか分かりませんが)、私の講座等に出席される方は、私が、昔の武の先達が到達した世界にはほど遠いところでもがき、恥をかき続けている事をよくよく承知した上で、私の話を聴いて頂きたいと思います。
 12月10日、11日の長野での講習会は定員にまだ余裕があるとの事です。ご関心のある方はお問い合わせ下さい。

以上1日分/掲載日 平成17年12月5日(月)


2005年12月9日(金)

 『願立剣術物語』第三十三段「足下軽く足は手に引かれて行くぞ…」のくだりは、今まで特に何百回も読み返したところだったが、ここ数日その意味があらためて深く心に入ってくる。以前、武術の体の使い方を糸電話に例えた事があったが、数日前、音楽関係の人達に話していた時、動きの妙を得た古人の体の使い方は、糸電話を2人が駆け回りながらかけ続けている困難さを維持していたほど超絶的だったのではないか?という例えがフト浮かんで、あらためてこの三十三段目の「足下軽く足は手に引かれて行くぞ…」のくだりが一歩深く分かったように思えた。
 つまり糸電話は、糸が張っていなければ伝わらないが、引っ張り過ぎたら切れてしまう。その適切な張りの範囲を互いに動くなかで維持するのが、どれほど困難かは想像して余りあると思うが、動きの妙とはそういう状態だったように思う。そして、これは『願立剣術物語』で説く、手と足に代表される身体各部の関係なのだろう。
 そうしたなかで小さな気づきはいろいろあるが、その程度の気づきでは古人とのあまりの差を実感した身としては、焼け石に水の感である。そう嘆いていても仕方がないから、このプレッシャーをエネルギーとして進むしかなさそうだ。
 技に関してはこんな状態だが、何故か忙しさは去年以上…。今日は池袋の講座に出て、その後最終の新幹線で長野に入る予定。
 そのため、夕方家を出たのだが、昨夜から「明日、池袋に出る前に急を要するこの手紙が書けるだろうか」と心配していたが、案の定、封筒に宛名を書いただけの手紙を持って家を出るありさま…。今年の暮れは一体どんな状態になるのだろうか。

以上1日分/掲載日 平成17年12月11日(日)


2005年12月14日(水)

 ここずっと分単位のスケジュールで動いている気がするような状態。そのため、12月の2日は漫画家の井上雄彦氏を迎えるため、何ヶ月ぶりかに畳が広く見えていた道場も本のゲラやいくつもの作業中の書類やら衣類で、また埋まってしまった。
 9日の池袋の講座が終って、すぐその足で長野に入り、10日、11日と講座。帰ったら井上氏との共著の文庫化の追加原稿が、また大幅書き直しの必要があったため、午前4時まで起きていて、12日はその書き直しと大阪への荷物出しやら何件かの問い合わせの応対で、気づけば13日の午前2時・・。
 そして明けた13日は、文庫本の追加原稿の仕上がりに目を通す間もなく、東大の機械工学部の國吉康夫教授のところへ、産経新聞論説委員の長辻象平氏の案内で、桐朋の長谷川智先生を同道して出向く。
 國吉教授の専門は知能機械情報学だが、つまりはロボットの研究である。私は長辻氏から國吉教授を紹介したいというお話があった時、私がつくった介護技「浮き取り」に対して、どのようなコメントを頂けるのか、そこに一番興味があって伺ったのだが、伺ってみて思いがけぬ収穫があった。
 國吉教授のところには十数人の大学生や院生と思われる人達が集まっていて、そこで私は「浮き取り」や「添え立ち」などの介護の技を中心に、若干武術の技も実演したのだが、國吉教授以下、何人もの人達が実に興味深げにこれらに対して接してこられ、活発な意見交換を行なうことができた。それによって、私は、現代の人間研究に関して非常に興味深い問題点があることを具体的に気づくことが出来たのである。その問題点とは何かというと、同じように人間の体の研究をしていながら、体育やスポーツから入った研究は、人間の動きをより単純に機械的に考えよう考えようとする傾向が強いのに対して、そもそもが機械工学が専門で、その立場からロボット製作のために人間の身体構造の研究をしている工学系の研究者とでは、人間の身体に向き合う根本姿勢がまるで違うということである。

 つまり、体育・スポーツ系の人達の人体の科学的研究は、人間の体をより単純に機械的に解析しようとするのに対し、もともとが機械工学の人達は、人間の作ったロボットでは本物の人体の複雑高度な機能と動きは容易に出来ないから、何とかその複雑な動きに一歩でも近づきたいと思っているということである。

 その結果、私が椅子に座っている人を椅子に座った姿勢のまま抱き上げる「浮き取り」などという奇妙な技は、スポーツ体育系の科学的研究者は、ハッキリ言って関心を持つどころか、「また厄介なことを言い出したな」と迷惑そうな人が少なからずいるのに対し、機械工学系の人達は、「いや、これは面白い」と、まるで難しいパズルに挑むパズリストのような気持ちになるのか、目が輝き、研究心を刺激されたような顔をする人が少なくないということである。
 同じように人体の精妙な動きを研究している筈なのに、正反対といってもいいこの志向性の違いは一体どこから来るのだろうか。その理由について私は、あくまでも私の個人的推測だが、体育・スポーツ研究者は、数学や物理などキッチリと数字を出せる学問に、潜在的にかなり強力な引け目があり、何とかこの不安定で例外や説明不能なことの多い生命体を物理的・機械的に単純化して把握しようと思ってしまうのに対し、機械工学系の人達は、もともとそうした引け目がないだけに、人体の複雑さに畏敬の念を持っており、それに機械がどこまで近づけるか、という関心を素直に持ちやすいのだと思う。
 「賢者は愚者からも学び、愚者は賢者からも学ばない」というような諺があったように思うが、現在の学術界の縦割り制と閉鎖性のため、どれほど無駄な研究に時間と金が使われているかと溜息が出た。本来は文部科学省あたりが分野を横断 してジャンル間を繋ぎ、共同研究を提案したり、無意味な研究を指摘するなどして、活発な議論を起こさせるべきだと思うのだが、この国には(いや諸外国もそうかも知れないが)そうした高い所に立って全体を見回し、適確な指示を出すセクションも人材もいないという事が人類の不幸のような気がする。この事態を打破するため、新しい発想と情熱を持った方の出現を切に望みたい。

 この暮れに入って、いろいろと送っていただいたり、お世話になったりで、本来なら手紙や電話で御礼を述べなければならない方が数十人いらっしゃるが、何とも今は手がまわらない。ここに御礼を述べさせて頂き、略儀の無礼を御容赦頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成17年12月15日(木)


2005年12月22日(木)

 今年は、年が明ける前に思いがけぬ量の雪が日本のあちこちに降っているが、まるでそれと連動しているかのように、今の私はやらなければならない用件がドカドカと降ってくる。今までも忙しさに振り回されていたが、今年はやることがあまりにも多い。特別に本が売れているわけでもないし、ホームページのアクセス数も一時期より減っているのに、なぜだろうか?
 確かに雑誌や新聞等には、この秋、かなり出た。今月に限ってみても、今日も『JANKI−RYU』という桜井章一雀鬼会会長に関する本(いわゆるムック本的な仕様の本)が送られてきたが、この中にも私が4ページほどインタビューに答えたものが載っている。また、20日の『朝日新聞』朝刊には、オーサービジッドで阿蘇の小学校を訪れた折のものが載っている。(この中で、私が最終校正した文に、また手が入って、むしろ日本語として分かりにくくなっているのは、どうも理解しがたいが…それから、光文社のスポーツ誌『バーサス(VS)』にも1ページほど私の紹介が出た。『中央公論』1月号には、内田樹神戸女学院教授との対談が出たし、何か他にもあったような気もする。
 とにかく、この随感録も書こう書こうとしているのだが、その暇がなくて日数が開きがちである。そうなると、いろいろ気にして下さる方があるので、今日は無理やりここまで書いた。この続きは19日の夜、名古屋からの帰りに「のぞみ」の中で書きかけたものにバトンタッチすることで御容赦頂きたい。

12月19日

 15日に朝日カルチャーセンターでの講座を皮切りにめぐった関西への4泊5日の旅を無事に終え、今、最終の1つ前の「のぞみ」で名古屋から東京に向かっている。
 今回の旅は、この4泊が数ヶ月に感じるほど随分遠くまで行っていた気がする。昨日の岸和田も、その前の神戸女学院も、まして朝日カルチャーは昨年のことのように、既に遠い。
 今回初めて知り会った人も少なくないが、それらの人と出会ったのが数ヶ月も、あるいは数年も前からの知り合いのように思える。
 これは、ひとつには、ここずっと私が自分自身の技の未熟さにせつなく恥かしい思いをしてはいるが、事実としては技が今までで一番利いているという状態に、自分が自分をどう把握していいのか分からなくなっているからだと思う。この、私自身も持て余している奇妙な感じに何故なったのか、また、これからどうなるのか、まるで見当もつかないが、技が利いていることは事実らしい。それは、17日、神戸女学院で、現在、日本ラグビー界の代表的選手の一人というH選手といくつかの技を試みた時の反応をみても、今日アイシンでバスケットボールの浜口選手と稽古する際に同行を希望された、重量級のアマレスの選手Y氏(Y氏はロス五輪の最終選考まで残った選手とのことで、現在100キロ弱で、今も国体に出場されているとのこと)と、いろいろやってみた折の反応をみても(わざわざ時間と金をかけて、私の受だけ取りに来ていると思えないし、次に会う機会を強く望まれているので)私の動きを学びたいと思われているようなのだが、どうも私には実感がない。(もっとも、技は利くようになるほど体全体に負荷が散るから実感はなくなる筈だ、と私自身も思っているが、ちょっと立って動いてみれば、まだまだ未熟だらけ…。)それでも、まあ、お役に立つなら、また私自身も勉強になるので、こうした方々との交流は今後も続けていきたいと思う。

12月22日に戻って・・
 この19日付の原稿を『のぞみ』の車中で書き、校正出来ぬまま、留守中にたまっていた用件に追い回されていたのだが、その間にも気づきはあった。一番は『願立剣術物語』の「身の備え太刀構えは器物に水を入れ敬って持つ心地也…」から始まる第十一段目。その気づきについて詳しく書く暇はないが、十年以上もこの本を読みながら、本当に見えていなかったなあと思う。
 私の今の一番の願いは、こうしたことを読み考え、稽古する時間を少しでも得られること。そのため来年は、取材などの依頼を出来る限り断りたいと思うが、あらゆるところで、「科学的」ということにこだわって、見えるものも見えなくなっている人達の目を覚まし、少しは呼吸しやすい世の中にしたいという思いも切実なだけに、どういうことになるか全くわからない。

以上1日分/掲載日 平成17年12月22日(木)


2005年12月28日(水)

 今年もいよいよ押しつまってきたが、やらなければならないことの3パーセントもこなしていない気がする。それでも26日、仕事としては最後のORCNANA公開講座を終える。ナンバをテーマにした講座だったが、ここで私が感じたことは、ナンバという言葉に関して実に多様な思い込みがあるということだ。シンポジウムの途中、フト浮かんだのは、「居合刀」という言葉。
 現在「居合刀」という語は、刀剣商は安物の日本刀、つまり真剣に対して使うが、武道具商は稽古用の模擬刀、つまり非鉄金属で出来たイミテーション刀を指すことが多い。従って、私などは「居合刀」と聞くと、それを口にした人の情報量や状況をよく確かめないと、何をその人が思い浮かべているかわからないので質問されても即答が難しい。まあ、ナンバの現場がこれと同じように混乱していることがわかっただけでも、シンポジウムはやった意味があったのかもしれない。
 しかし、つくづく感じたことは、私は組織には向かない人間だということ。2年前に、四半世紀続けてきた武術稽古研究会を解散して、単に松聲館という小さな道場主という立場になったが、今あらためて思い返してみて、よくあんなにも長く会を続けていられたなと思う。(まあ、会といっても組織らしい組織には程遠かったから続けたのだと思うが、今となれば、それでも私には荷が重い)
 このように、私は組織に向かない人間だが、私以上に組織には全く向かず、一人でその類稀なセンスと技倆を磨き上げ、もはや現代ではこれほどの作品を彫り続ける人物は他にほとんど見当たらないと思われる木彫彩漆作家、渡部誠一翁の個展が、新年1月9日から14日まで銀座のアトリエスズキで行なわれるので、御縁のある方に御案内をしておきたい。
 今回の個展開催にあたっては、渡部翁に惚れ込まれている身体教育研究所の野口裕之先生も多大な応援をされており、会場に来られれば野口先生の内観的世界の一端を感じることも出来るのではないかと思う。

 今年は、また今まで以上に多くの分野に拡がりがあり、たいへん多くの方々にお世話になりました。ただそれだけに、諸々の用件がとてもこなしきれないほど発生し、何人もの方々の御依頼が立ち消えになったり、行方不明になってしまいました。御迷惑をかけた方々にお詫び申し上げます。
 また、お世話になった方々への御礼も、ほとんど申し上げられないまま年を越してしまいますが御容赦下さい。
 明年も動きの質の向上とその方法の私なりの解明を第一に活動して参りたいと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます。

以上1日分/掲載日 平成17年12月28日(水)


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