1999年12月17日(金)
今日は都内で月2回行なっている稽古会の年内最後の日で、その後、打ち上げもあった。
以前は常連中の常連だったが最近ひどく多忙とのことでずいぶん久しぶりのN氏の顔も見え、総勢30名を越えていた。
技については、このところずっと書いていなかったが、前回のこの都内での稽古会(12/3)の折にはじめて「肚に来る」ということが具体的な動きのなかで展開し始め、その後、折に触れて確認作業をしながらこの感覚を育ててきた。
この間、正座して鉄板を重ねたものを膝の上に載せて両手で少し持ち上げるようにしながら肩を落し下げて(溶し込んで)、腰の角度を探ったりしながら、肚に来るという状態を模索し続けてきた。
その結果、今日は小手返、裏鶚(合気道でいう三教、三ヶ条のように前腕の尺骨側を絞ってゆく極め技。以前、捻れそうになるのでもうやめようと思っていたが最近また復活している)等で、相手が両手を使って頑張ったり振りほどこうとしても、かなりの人達に技を通すことができるようになってきた。肚に来る以前は、接着面がツルツルで接着剤の馴染みが悪く、剥がれ易い感じなのが、肚にくると接着剤の浸透がよくなって剥がれなくなってくる感じがするのである。
この際、腰の角度は重要。私は肥田式強健術が、この「肚に来る」という感覚の研究にどれほど役に立ったかわからないと思っているが、肥田式の説くところと、現在の私の体の使い方とで最も大きく異なっている点は腰の角度である。
肥田式は能や仕舞のようによく腰を反らせるが、現在の私はこの正反対で、中国武術でいう尾閭中正というものに近い。なぜかというと私の場合腰を反らせると鳩尾(みぞおち)に緊張がきて下腹が突っ張る感じになってしまうからである。これに対し、私が四方輪の頃に説いたリクライニングシートの原理のように腰を前へ送ってゆくと、ある点でグッと肚へ緊張が来るところがある。
この時、肩は落し下げられ、両足の裏はまるで体重がかなり軽くなったかのような、圧力の減少を感じる。この時の抑え技は、そういう肚の感覚が育つ以前とは、とても同じ人間がやっているとは思えないほど違ってくる。
こうやって肚の感覚が拓きはじめると、ひょっとしてこの感覚に7年以上前に気がつけば、別に「井桁崩し」とか「捻るな」とか「支点を作るな」などと言わなくてもよかったのではないかと、ふと思ったりもする。
しかし、この感覚が段々とハッキリしてきた昨日、手裏剣を打ってみて、この下腹にグッとくる、いわゆる肚・丹田の感覚を維持しようとすると、自然と体が捻れなくなってくることに気づき、この7年間が無駄ではなかったことを実感した。
つまり、肚にグッと来る感覚を維持し続けようとして動作すると、自然と体内に支点を作らない、捻らない、うねらない動きになってくるのである。
もし、井桁術理で居つくな、うねるな、などということが具体的にわかってきていなかったら、これほど肚に来るということと身体各部の動きの関連がわからなかったと思う。
これからも様々な体勢、様々な状況下で、この肚と身体運用の関係を解き明かしてゆきたいと思っている。
以上1日分/掲載日 平成11年12月21日(火)
1999年12月27日(月)
昨日26日は今年最後の日曜稽古。その後、大掃除をして打上げ。
最後の稽古で何人かと手を合わせているうち、体術や剣術で自分の技の利きを試そうとしている時の自分は、潜在的に、「この技が相手に掛かればなあ」と願っている気持があることに気がついた。当たり前といえば当たり前だが、それは見方を変えれば相手の弱さ、未熟さ、欠点を期待して行なっているともいえるのではないか、ということに改めて気づかされ、皆が帰ってからしばらくの間、かなり落ち込んだ。
相手の弱さ、未熟さを期待して技を試みるとは、なんと浅はかなことであろうか。
これが理不尽な侵略に対する反撃であれば、相手の欠点を探し、そこを突くというのは戦の常道であり、なんとか身を守り生き抜くための手段としていささかも恥じることはないだろう。しかし゛武術゛はそれが倒敵護身に端を発したものであっても、日本という風土の中で長い間育まれている間に、戦いを通して自らの動きの質を向上させるものとして認識されてきたのだと思う。少なくとも私自身の武術に対する認識はそうである。そう考えているうち、私が武術のなかでも抜刀術や手裏剣術という、相手を置かずに1人で動きの質を吟味することができる武術を何故好むのかがわかった気がした。こうした武術は結果が歴然として出る以上、あくまでも自分自身の美意識、価値観がこの術の評価のほとんどすべてを決めており、相手の強弱は関係がない。それだけに余計なことに振り回されず、より自分自身と向き合うことができるのである。このことは、古来、弓射が自らと向き合う上できわめて好適な武術として一種独特の発達をしてきたことと関連があるように思う。
そんなことを考えながら一晩越した今日27日は、T学園バスケットボール部の中高生が11人来館した。当初、希望者の中から4、5名を選抜するという話だったが「どうしても行きたい」と希望する者を切り捨てるに忍びず、多人数になってしまった、とのこと。それだけに皆、大変熱心で、体を捻らないことによるガードのくぐり抜け方などに何度も喚声が上がっていた。現在、T学園の高校生は、オリンピック選手でも10回やれば息が上がるという160mのシャトルダッシュを30回こなしても平然としている者が出始めたという。
興味深いことは、私の武術をヒントにしたT学園のユニークな体捌き法を取り入れようとしたある中学では、それを強制したためクラブが崩壊しかけ、指導の先生はクラブへの立ち入り禁止の憂き目に遭ったそうである。「こうしたユニークな方法は、あくまでも生徒の自主性に任せるべきですね」とT学園のK先生はつくづく述懐されていた。どんなに素晴らしいということでも、それを変に体系化、組織化して教えようとするとおかしくなっていくことが多いようだ。
私は畏友G氏から、以前、次のようなインドに伝わる話を聞いたことがある。
…ある若者が道で何かを拾った。それを見た悪魔の弟子が「まずいことになりましたね。あの若者は真理を拾ってしまいました」と師匠の悪魔に云うと、その悪魔は「大丈夫だよ。私はあの若者が真理を広める手伝いをするつもりだから」と云ったという…。
奇しくもこの夜、私は、ある技芸の道で従来その世界にないやり方を開発した稀代の天才の門下で長い間師範代的立場を務め、人望もあったN氏と数年ぶりに会っていた。近年その天才の新流儀の隆盛と共にそれまで流動的だった技法や約束事が固定化し、生きづらくなってきた古くからの常連をかばっているうち、N氏もその門下にいられなくなったという。そんな話をN氏からうかがい、しんみりと過ごした。
師弟の間というのは難しいものである。古くは、現代剣道の実質的祖ともいえる北辰一刀流の流祖・千葉周作と師の浅利又七郎。合気道開祖・植芝盛平と大東流の武田惣角。そして現代でも枚挙にいとまがないほど師弟間が気まずくなった例はある。
私にしたところで、武術稽古研究会創設には少なからぬ痛みを伴なった。また、そうしたゴタゴタを極力無くすために、他の団体では考えられないほど稽古会をフリーにしたのだが、幾人か離れていった人物はあった。ただ私の場合、その人物に対して私の方から何か言ったりしたりしたことはなく、私の言動の何かがその人の何かを刺激して別れていったようである。
もっとも私自身、合気道の旧師から離れる時も、直接私との間に何があったというわけではなかったから、離れる人には離れる人なりの事情があったのだろう。
いつの時代でも、どの世界でも、離合集散は世の常である。「誰にも愛される人物」というのは形容詞としては存在するが、現実にそのような人物がいる筈もない。
人間は不完全ゆえ生まれ変わり、死に変わりしているのだろう。そうやって世代が交代し、時が流れてゆく。
よく、「今どき武術なんてやって何の役に立つのか」などと言う人に、「じゃあ、何なら役に立つんですかねえ。医療が発達しましたけれど、薬害が問題になったり、また実際、医療が有効であれば、昔なら死んでいた人が不自由な体のまま生きて介護の負担が増大しているし…」と言っていた私だが、今はとりあえず私の関わっている人が今よりは明るい顔をしていられるように、ということぐらいが私の生きている目標だろうか。
今年も、週のうち何度、東北の山中の景色が瞼の裏に浮かび、あのような広葉樹林に囲まれたなかで暮したいと思ったことか。一時『もののけ姫』で、もうどこにも自分の居場所はないと、底の底まで落ち込んだが、今は二次林であれ、幾種類もの落葉の広葉樹が枝を広げ、それに常緑の針葉樹や照葉樹が交じって生えているところに再びたまらなく魅せられている。
来年は、都会にいてやってゆこうとする思いと、山の中に入りたいという思いとの、心の中の綱引きが一層きつくなりそうだが、とにかく今、次々と降ってくる縁にそれなりの対応をしてゆこうと自分に言い聞かせているところである。
以上1日分/掲載日 平成11年12月29日(水)