1999年8月8日(日)
7月の四国での稽古会の後に気がついた、肩の自由落下による突きは、その後、片手持たせ、あるいは両手持たせの柾目返で受けがいなしまくってくる状況や、柔道式に組みついてくる相手との対応にも、いままでにない働きを持っていることが実感されてきた。
゛肩の力を抜け゛ということは古今変らぬ武術や技芸の要諦であるが、このことは言うは易く行なうは難い大問題である。
私もいままで、゛燕飛の肩゛とか゛肩の溶し込み゛などいろいろと肩が詰まらない工夫をしてきたが、溶し込んで下げるということは、どこかに強制力がつきまとう。
強制力があるということは、どこかを支点にして無理に押し下げているということである。
すると相手に接した時、その押し下げに使っている支点に相手の力が反応してくる。
もちろん肩が上がっているよりはマシなのだが、相手も体が割れてくると、動きがひっかかってくる。
その点この゛肩の自由落下゛は、ちょうど、昔の井戸の中に(井戸の壁に触れぬように)釣瓶をスーッと落すように沈めるから、支点がなくなる。
といっても、強制力がなく落ちる肩の距離は1〜2pであるから、外部よりむしろ内部感覚で落すようにしなければならない。
こうした肩の動きを、様々な持たせ技や持ち技、例えば両手持ちで、こちらが相手の左右の手を右左の手で触れたと同時に下に沈めてみると(もちろん、この際相手は逆に手を上げたり、横にいなしたりする)、いままでにない崩れが起るようになった。
その有効性を確認してから、あらためて私は、無住心剣術が太刀を使うのに、ただ引き上げて自然に落すだけで、それ以外の動きを一切排した意味がひとつわかったような気がしたのである。
しかし、こうしたことがわかったのも、一時さかんに゛肩の溶し込み゛として強制的に肩を落し込んだ稽古をしてきたからのように思う。
そうやって考えると、私の稽古は僅かずつの気付きの地道な積み重ねでもあるのかもしれない。
「マンネリな稽古を゛地道な稽古゛と言って美化していないか」と私が拙著のなかで問題提起をしたことで、読者の方々の一部に、私が地道な努力を否定しているようにとられている向きもあるようだ。
しかし゛地道゛というのは結果として生じるものであり、又この言葉自体、私のきわめて好きな日本語のひとつで、私自身は地道な生き方に深い共感を持っているのである。
そのいわば憧れにも似た言葉なだけに、単なる゛マンネリ稽古゛を゛地道な稽古゛などと呼んで欲しくないし、私自身、自分の稽古を゛地道な稽古゛と呼ぶのは気恥ずかしい気がするのである。
したがって私の稽古が゛地道な稽古゛かどうかは、私に長年接している方に感想を聞いていただきたいと思う。
ここであらためて申し上げておきたいが、私にとって゛地道゛という表現は誉め言葉であり、それだけに自らの稽古を゛地道な稽古゛と平気で言われる方が(御本人は謙遜的な意味も含めてのおつもりかもしれないが)、私には信じられない思いがしていたのである。
この思いは私だけの特殊事情かもしれず、日本語として一般性を持たないことかもしれないので、ここで念を入れて言い訳をさせていただきたい。
私がこういう思いを持っているのは、おそらく、武術の技を教えたり、そのことを本に書くという仕事はいわば堅気ではない仕事であり、その点、ちゃんと手をかけた農業や道具を造る職人こそ、本当に人間らしく地に足をつけて毎日を作品として生きている地道な人々、という尊敬の思いがあるからのように思う。
以上1日分/掲載日 平成11年8月10日(火)