2000年7月3日(月)
江崎氏より電話。6月29日、手裏剣術で久しぶりに遠間打つに20m30p(十一間四尺八寸)届いたとのこと。
その後何度も試みたがこれ以上の距離は出なかったとそうだが、私が昨年7月12日に19m33p出したから、それより約1m記録が伸びて20m台に入ったということになる。
江崎氏の感想では往時厚板をブチ抜いたほどの人なら、まだまだ十五間以上でも届いただろうという気がするとのこと。きっと実感なのだろう。
江崎氏の新記録を心から祝したい。
私の方は昨夜暑さで手がベタついてきたのを好機に、この非常に手の滑りが悪い状態での打剣の工夫をする。
手が後方に倒れながら、全体としては剣を手之内に収めた手は前へ行く、という形で、四間で抑えを強く利かせた結果、剣先が上を向いたままの立ち飛び状態が何度か出た。打剣において体の分離が進んだというひとつの証明といえると思う。
この道に不案内な多くの人達にとっては、それがどれほどのことかよくわからないだろうが、私にとっては夢がひとつ実現した気分。
昨年から手之内の滑りが悪くても抑えが利くようになってきてはいたが、ここまでではなかったから。
さすがにこの道で苦労している江崎氏からは感嘆された。
以上1日分/掲載日 平成12年7月6日(木)
2000年7月4日(火)
昼少し前、゛のぞみ゛で岡山へ。
宅急便で荷物を送ったはずだが、「どうしてこんなに」というほどの手荷物。とにかく常時持ち歩いているものが、刀の手入具、カッター、ハサミ、切出、絆創膏、糸と針、各色のペン(太いの細いの7〜8本)、修正液、接着剤、封筒、切手、便箋、原稿用紙、各種ゲラや資料……書き出すときりがない。とにかく何かあった時のためにと思うと、ついつい荷物が多くなる。
ただ、時にはそういう癖が幸いすることもある。゛のぞみ゛の窓のブラインドの隙間にシャープペンシルを落したが、いつも持っているガムテープを千切って、すぐつり出すことができた。
こういう私の性質は遺伝するのか、長男がまた山ほどいろいろ持って学校へ行く。友達に「〜もってない?」と訊かれた時、すぐ出せるのが快感らしく、「歩く雑貨屋さん」と言われているらしい。人の役に立つのが快感なのはいいことだと思うが、10s以上のものを背負って行くのはいささかあきれる。
まったく父子揃って、肥田式強健術の創始者・肥田春充翁とは対極の性質だ。肥田翁は台湾に行った時も、持っていたものは財布に手拭1枚と歯ブラシで、これらを懐に入れた着流し姿だったため、荷物を持とうと迎えに出た人間が呆気にとられたという。
そういう旅姿には憧れるが、私は環境・心境の大激変でもなければ一生そういう旅姿にはなれそうもない。
岡山駅には小森君美先生が迎えに出ていて下さり、雨を避けて駅の喫茶店で小1時間休んだ後、岡山市内のK中学校の武道場へ向う。
今回、私の岡山行きが決ったのが6月下旬であったから、人数は20人ほどであったが、陸上競技の元オリンピック選手のT先生や、アマチュアレスリングを相当にやり込まれ今も自宅で指導されているというY先生(共に高校教諭)が初めて参加された。
対タックルでこのところ展開があったため、Y先生にも相手になっていただく。「タックルの入り方はアマレスが最も巧み」とかねて聞いていたが、Y先生の感触は私がいままで体験した人達のなかでは最高。もし私が吸気に気づいていなかったら、このタックルはとても外せなかっただろう(後にわかったが、グレコローマンスタイルの全日本で4位になられたことがあるとのこと)。
この夜はY先生や、以前から岡山の稽古会によく来られる現役レスリング選手でもあるT先生などと様々な状況下で手を合わせ、最近の私の対タックルへの対応が、あながち私の思い込みだけではなく、現に有効なことが確認できた。
そしてこの日最大の収穫は、Y先生と向き合って両手の掌を合わせ、両足はくっつけて動かさず立ち、そこでパチンと互いの両手を合せて相手を後に崩し合うボディーゲーム。このゲームに絶対の自信を持っておられるY先生は目をつぶっても大丈夫とのことで、何度も何度も体験させていただいたが、まず例外なく私がぐらつかされて負ける。
そうなると非常に興味が湧いてきて「もう1度、もう1度お願いします」と、これだけで30分以上はやっていたように思う。
そのうち、下げていた手を胸のところまで上げると、私の体内の重心がそれにつれて上がってしまっていることが明確に自覚できるようになり、なんとか重心を上げずに手を上げる工夫をしているうち、次第に崩されにくくなってきた。
こういう状態になったら私の場合、相手をしてくれる人がいれば一晩中でもやってしまう。
打ち上げの食事会の後、ホテルまで送って下さった小森先生が帰ろうとされるのを引き止め、やはり30分ほど研究を行なった。その結果ひとつ大きな気づきがあり、これを応用するとまた技が変る予感がしてきた。
以上1日分/掲載日 平成12年7月7日(金)
2000年7月5日(水)
夕方から大阪で稽古会の予定になっていたので、午前中に岡山からマリンライナーで四国に渡り、私が香川で行なう稽古会の世話人である守伸二郎氏と会う。
守氏は私が行なっている地方での稽古会の常連のなかでは出色の人物。術理の理解度においても実技においても、「よくここまで…」と思うほどになった。
今回は四国で稽古会をやろうかと思ったのだが、急に予定が空いた上、ウイークデーのため人が集まらず、守氏と個人的に会うことだけにしたのである。守氏とせっかく会うので、どこかでちょっと手を合せたいと思っていたところ、いつも稽古会を行なう多度津の武道館で稽古できるように手配してあるとのことだったので、昼食の後、この武道館で手を合せる。
まず最初手を触れた時、最近吸気の研究にはまっているという守氏は以前より一層崩れにくくなっており、これを崩すのは一苦労だと思ったが、昨夜岡山で手をパチンと合せるボディーゲームをY先生と行なった時、手を胸まで上げると重心もそれにつれて上がってしまったことが思い出され、手を上げても重心が上がらないようにする工夫のひとつとして、かつて私が稽古していた鹿島神流の゛不動剣゛の太刀の操作を思い出し、手を内側に巻き込み(抜刀術でいえば゛逆手抜飛刀打゛を抜くようにして)、右肘を上から見て反時計まわりにめぐらせつつ、吸気で胸の緊張をゆるめ、身体各部が極力居つかぬように同時に働かせ(多方向異速度同時進行)た結果、いままでになく守氏が崩れた。もっとも、守氏には崩れ方などでいろいろ感想や助言をもらい、それらが大きく作用してこの円転の理の活用に生きたと思う。
私自身が受けてみたわけではないから、いったい何が起ったのかよくはわからないが、守氏によると、私の身体各部がうまく居つかず円転して働いたと思われた時、接触点からの私の情報が消えてしまうとのことである。
そう言われてみれば、私の方もその時は一瞬記憶が飛んでいる。たしかに記憶に残るようだったら「Aの時にB」といった2つの事象の関係しか取り扱えず、これだったら相手も私の動きの脈絡が読めていたはずである。
それがなぜ、いままでこのようにいかなかったのかといろいろ思い返してみると、思い当ることは吸気による胸部の解放に気づいていなかったことと、ホンの僅かな動きであっても単純で支点のあるヒンジ的運動は相手に検知されてしまい、その瞬間に相手に阻止されてしまうことなどであろうか。
そう気がついて何度も広い武道館のなかで守氏と二人っきりの稽古を繰り返したが、私の方に僅かでも雑念が入るといっぺんに利かなくなる。それにしても私の技の可否を微妙なレベルでよく論評できる守氏の感覚には頭が下がる。
守氏に感想を聞きながら様々試しているうちにいろいろなことが思い出されてきた。
たとえば、この体の使い方は心道会の宇城憲治先生に見せていただいた裏拳の出し方とも共通するものがあるように思うし、最近は言わなくなっていた井桁崩しから展開した゛四方輪゛の術理に、かつて私が盛んに強調していた頃以上によく適合しているようにも思えてきた。
そして、それに関連して兵庫の山中にある鏑射寺の中村公隆和尚に以前、「いくつもの玉が合わさって回転している状態を考えられたらどうですか」と助言をいただいたことや、工作機械作りの天才・溝口鉄工所の溝口龍一社長が、かつて工夫して作ったが、そのあまりに有効なため世間に出すことを抹消されたという遊星機構の減速機のことまでなぜか浮んできた。
とにかく今回は守氏に感謝。守氏にはいままでにも何度か私の技の進展に貴重なキッカケを作ってもらったが、今回は最も大きかったように思う。繰り返し感謝の意を表すと共に、守氏の今後の益々の精進を祈りたい。
以上1日分/掲載日 平成12年7月8日(土)
2000年7月9日(日)
技に進展があり、体の使い方が変化するといつも起ることだが、今回も5日に香川で気づいた固定的支点を排した「円転の複合体で体を動かす」という動きを7日の都内での稽古会、8日の私の道場での稽古と連続的に様々工夫しながら行なってみて(新たな展開もまたあったが)、体に反応が出た。今回の場合は今朝起きて体じゅう縄で縛られているような筋肉痛が起っていることに気がつく。
最近では吸気に気づいた3月に酸欠状態のような感じが起ったし、技が変る時は常になんらかの反応が体に出る。
しかし今回の気づきは、気づいてから4日経った今、振り返ってみてつくづく思うのだが、今回は術理の骨格としてはなにも目新しいものはない。すべていままでに考え言葉にしてきたものばかりである。
どこが違っているかといえば、そのいままで述べてきた術理を拡大鏡で大きくして見た、というようなことであろうか。
もちろんそれに伴って新たな術理説明の術語は増えた。
たとえば「回転体の入れ子構造」。これは以前、地球が自転しながら太陽のまわりを公転し、太陽がまた地球をはじめとする惑星を連れて銀河系のなかをめぐるように、と説いていたものと同じようなことだが、これを一言で説明するようにしたのである。
またこれに関連して、中国武術で纏糸といわれている体の使い方に関しても、いままでは捻ることをよしとしていなかったから近づかなかったが、今回の気づきで「捻る」−つまりどこかがそれによってつまってくる−ということでなければ固定的支点を排するという意味でむしろ積極的に回転体を駆使し螺旋構造の優位性を使った方がいいのではないかと思いはじめた。
螺旋構造といま書いたが、これを書くと何かとても懐かしい気がする。20数年前、鹿島神流の剣術の稽古に打ち込んでいた頃、この゛螺旋゛という言葉をキーワードにして何とか局面を打開しようとして、いろいろ本や資料を漁っていたことがある。
そして得た螺旋の意味は「螺旋の断片はどの方向からみても曲線である」ということであったが……。その後「井桁術理」に気づいた頃は、円を描こうとしたアームと円そのものを取り違えて、「円の動き、円の動き」と言っている錯覚が世に多いのではないかという反省から、悪しき円の概念に陥らないように円に関してはかなり神経質になっていた。
ただ、「井桁術理」から「ロータリーエンジンの原理」「四方輪」など、円の動きも術理にとり込もうと悪戦苦闘し、その結果、体を捻らない、うねらないということと、体を割って同時に使うこと、固定的支点を排するということへと私の術理の骨格が落ち着いてきていた。
そうした動きのモデルとして6月の末、銀座の博品館というおもちゃ屋で、以前から欲しいと思っていた「スフィア」という井桁崩しの集合体のような構造で大きくなったり小さくなったりするボールを購入し、あらためて術理について考えていたところ、今回、固定的支点を排した回転の複合体による動きに気づいたのである。
今後どのようにこれが育つかわからないが、いままでよりは対応力が出来てくるだろうと期待はしている。
以上1日分/掲載日 平成12年7月11日(火)
2000年7月15日(土)
鍋のなかで煎られている豆のような忙しさで飛び跳ねまわっている。
゛回転体の入れ子構造゛に気づいてから、9日、12日、14日と技にも術理にも進展があったのだが、それを簡単にメモした程度で深く考えている暇もない。
ただ、体のなかではさまざまに考え組み合わせているのか、「こんなに稽古していないのに」と自分でも思うのだが、動きが稽古をやる毎に変ってきている。
そうした変化のなかでも代表的なものが体術の柾目返からの一連の発見である。
これは9日の稽古で、それまでの゛逆手抜飛刀打゛系統の肘を内へと入れてゆく、掌が外向きの回転系の動きに対し、空手の正拳突きのような、肘が外へと開く系統の動きと言ったらいいだろうか、掌を伏せた形の回転系の動き、すなわち柾目返の動きで、この日稽古に来ていた吉田健三氏相手に試みていた時、吉田氏から「もっと左が働くようにしていただけたら、すごくこの技が利く気がします」との指摘を受けたことがキッカケで開けてきたのである。
そしてこの時、身にしみて感じたことは、手首から先のような容易に動く部分と胸・腹・腰のような胴体、つまり体の幹の部分とが五分の状態で動き、それによって合成された動きを生み出すためにはよほど体幹部の居つき、すなわち固定的な支点を消すようにしなければならないということである。
柾目返で右手の出と、居つかない左半身を目指して、左膝と右膝の抜きの連動性、吸気による胸の解体等、いくつもの要素の同時進行を調整しながら試みているうち、粘っこく崩れにくいことでは私のところで何本かの指に入る吉田氏がかつてない崩れ方をした。
この時の吉田氏の名言「そうか、速度差が支点を生むんですね」は永く私の記憶に残るだろう。私の言わんとしたことをドンピシャリで言葉にしてくれた。
武術的センスと観察力では、吉田氏は私よりも才能があるとかねてから思っていたが、こういう名言を聞くとホトホト感心してしまう。
こんなに才能のある人物が会社のなかでは周囲にほとんどその才能に気づかれることなくサラリーマン生活を送っているのかと思うと、本当に勿体無い気がする。
12日は桐朋高校バスケットボール部の指導者で部長のK先生と、K先生と私との縁結びをして下さったH先生、それにお知り合いでやはりバスケットボールの指導者でR高校のU先生が来館される。
この時もいままでにない動きがいくつも生まれたが、私自身最も印象に残っているのは、9日に得た柾目返の感覚を剣術に応用すると、剣道五段のH先生と対してもたちまち間をつめられることである。
また、柔道などの肩や袖を掴んでくる状況の場合に対しても、同側の肩取りの斬落とし(つまり相手が右手でこちらの左肩あたりを掴んでくるのを左手で下に斬り落すもの)も、いままでになく大きく崩せたし、この時相手がこちらの斬落しを嫌って手を抜いてすかそうとしても、単純に手で払うのにくらべればはるかに対応力が出ていることがわかったのである。
この日は他にバスケットボールのポジション取りやターン等にいくつかの新しい技が生まれた。
そして14日、池袋コミュニティ・カレッジの講座で、私はこの柾目返の原理が剣道に対してでも有効であったのと同じように、体術で私の突きを払って同時に相手がもう一方の手で突きを入れようとする場合でも、私の体がうまく柾目返の体で動くと、つまりこちらの突きがそのまま柾目返の体となると、一瞬相手の体が後にのけぞるようになったのである。
おそらくこれは先日この欄に書いた、いわば井桁崩しの集合体ボールともいえる゛スフィア゛(ツクダオリジナル発売の玩具)の動きが、あまりにも全部が同時に動くので見ていると目がおかしくなりそうになることとも若干の関連があるのかもしれない。
とにかく今後はここからの可能性をいろいろと探っていきたい。
これを書いた後、今日15日、また少し進展があった。
この日午後に稽古に来られたI女史と少しこの動きを応用して小手捕、裏鶚を行なったところ、子供の頃、男の子とよく喧嘩をして男の子を泣かせたというだけに敏捷なI女史だが、ことごとくその手を捕えて極められた。そこで時折ただ早く手を出すと(つまり肘や肩が単純なヒンジ運動化している動き)、これまたことごとく振り払われてしまったから、やはりこの動きは゛何か゛あるのだろう。合気道の経験者ならよくおわかりだろうが、素人で敏捷でやみくもに振り払い逃げまわる相手を一瞬で極めるのは難しいのだから。
以上1日分/掲載日 平成12年7月17日(月)
2000年7月21日(金)
゛回転体の入れ子構造(複合回転)゛に気づいてから稽古をする度にいくつもの気づきや発見があるが、18日、19日と仙台で行なった稽古会でも細かいものを入れればその数30ぐらいはあったと思う。
そのひとつひとつを書き出したらきりがないので整理してみると、肘が内に入る形の複合回転は、体がどちらかといえば一重身で、抜刀でいえば逆手抜刀の体となる。
これに対し、肘が外に開く形の複合回転は、体が向身状態となり、体術でいえば柾目返。また、S字状に内から外へと回転方向が入れ替わる場合などがある。
こうして字にして書けば別に珍しくも何ともないが、実技の際に詳しく検討してみると、「ああ、この辺いままでいい加減にしていたなあ」ということがいくつもある。
とにかく1ミリ、いや1ミクロンといえども単純なヒンジ運動で動かさないこと。常に複合された円転の動きの合成であることが何より重要。
しかしこの複合というのも、ある目的のために有効に組み立てられた複合でなければならないわけであり、ただ単に同時に身体各部がいろいろに同時に動いたからといって、それが技として有効に働くことはまずないだろう。
そして、この身体の動きの有効な複合が行なわれるために、自然な吸気が果す役割はかなり重要なものがあるように思う。
こうしたことに気づいて東北から帰った今日21日は、都内での稽古会に臨む。
稽古を始めて何より驚いたのは切込入身などでいままでのように何気なく片手を上げて切込をしようとすると、ひどく体が傾いている正中面が歪んでいる感じがしたことである。これは回転体の複合による動きが身体感覚にかなりしみ込んできたのだろう。
また、柾目返をやろうとした時、相手がもう一方の手で突いたり払ったりしてくるという状況下での対応で、柾目返をする方は肘を外に開く回転体とし、もう一方は肘を内に入れる回転体とし、その双方の手にうまく身体自体の回転が合ってくると、突き蹴りで油断なく対応しようとしている人に対してもいままでになく崩しが入ることがわかった。
この体は以前からの私の技の分類でいけば、相手の真正面から入って崩す゛直入身゛ということになるかもしれない。
とにかく「1ミクロンといえども単純なヒンジ運動で動いてはならない」という、先ほど述べた最近の気づきが「間違ってはいなかった」という確認がとれた気がしている。
この技の有効性は敏感な相手がいなして逃げようとしても゛いなし゛に入るタイミングが遅れ、そのため゛いなし゛が゛いなし゛にならず、いなそうとした時に体がのけぞって、手が私の方にからめとられやすくなっていることからも実感できた。
まだまだ改良の余地はたくさんあるが、またひとつ新たな鉱脈がみつかったような気はしている。
以上1日分/掲載日 平成12年7月24日(月)
2000年7月29日(土)
゛回転体の複合゛という術理の展開を打剣にも応用出来ぬかと考えていたが、一昨日の27日あたりから少し時間を得て検討した結果、具体的な進展がみえてきた。
まず前腕部は若干伏せる方向の回転、それを載せている肩が輪を立てる感じでふくらみ、そのふくらむ上体を載せている両腕の左右の膝が微妙な連関をもってヌケる。
これにより以前より一段階、剣を飛ばすにあたって、どうしても生じてくる゛うねる動き゛を消す手がかりを得てきたように思う。
たとえば自分の身体感覚では、こんなに静かに手を動かしていたのでは四間(約7.2m)飛ぶうちに剣が床に落ちてしまうのではないかと思えるほどであっても、意外に伸びて四間先で床から五尺ほどの高さに低い軌跡で飛んだりする。
つまり、以前私が身体全体が無理なく働いて力を合成するたとえとして、タンカーの上にトレーラー、トレーラーの上にトラック、トラックの上にバイクが乗って走ったとすると、バイクは海に対してタンカーとトレーラーとトラックの速さがプラスされるから、バイクだけが走っているよりよほど速くなると説いていたことに近い現象が起りつつあるのかもしれない。
動きの質が明らかに変ってきた兆しのひとつは、以前私が使っていた四寸七分(14.2p)という、今用いている六寸一分(18.4p)の剣よりもずっと短い剣で、その剣が最も通しにくかった四間が以前よりもずっときれいに通りはじめたことが挙げられる。
この短い剣で四間の距離では、かつては百打して1〜2本通るかどうかであったから、その困難さは想像がつくと思う。
その後、工夫して8割程度通るようにはなったが、常にある種の不安がつきまとっていた。それからまた、剣を一寸以上伸ばしたことにより中距離の安定は得られたが、動きの質が本当に変ったのならば、やりにくかった四寸七分の短い剣でも以前よりずっとよく通せる筈だという考えは、私の気持のなかに根強くあった。
そのため剣を長くしてからも、ごくたまにその短い昔の剣を打つことがあったのだが、その時の感想は常に、「剣を長くしたことで、こんなにも打ちやすくなっていたのだ」という、剣を長くしたことの有意義さを確認することに終始していた。
なぜこれほどに四間くらいの中距離を短い剣で打つのが難しいかということを説明するために、まず中距離に対して長距離・近距離はなぜ打ちやすいのか、その理由を説明しておこう。
まず長距離だが、五〜六間の長距離ではそのぐらいの距離を飛んだところで剣先が首落ちしていくようにしておけばいいので、中距離よりずっとやさしいのである。
次に近距離だが、近距離でも勿論いわゆるピッチング的な投げにくらべれば回転を抑制して飛ばしているわけだが、そのように全体としては抑えつつも近距離であるため、振り込んで剣に回転を与え、その近い距離を剣が飛んだところで剣先が的に向くようにするため、ピッチング的な手首のスナップを利かせるような動きに近いものが出せ、そのためやりやすいのである。
これにくらべて中距離は、ちょっと抑えすぎると剣先が上を向いたまま的に当ってしまうし、少し振り込んで剣に回転を与えると、だいたい三間ぐらいまではやりやすいのだが、三間半を越えて四間ぐらいが最も難しいのである。
この理由は長年考えていたが、ここ数日ではっきりとしてきた。
それは、何か物を飛ばす時、人は離れの瞬間に最大速度を出し、直後に減衰することによってその物が手から飛んでゆくようにする。そしてそのために通常最も有効なのが゛うねり゛である。鞭の動きと同じこの゛うねり゛によって人は通常の押したり引いたりする動きではとうてい出せない早さを出せるようになる。
しかし、この゛うねり゛という動きの系は、それ自体の動きがあまりに強烈なため、同時に他の運動形態との共存が難しいようなのである。
そうしたなか、この゛うねり゛のなかで最終的に出来得る限り抑えを利かせる長距離対応の動きと、手首の前方への回転を抑えつつも最終的には手首のスナップを利かせるという゛うねり゛の動きの最終段階にある程度参加できる近距離用の動きは比較的やりやすいのである。
これにくらべて中距離は剣を飛ばすために最も主となって動いている腕の振りのなかで、その振りよりも感覚的に言えば遅い速度で離れを出さなければならないような奇妙な立場に追い込まれているのである。
しかしこれは至難というより不可能であろう。離れは、いま動いている運動の速度が最高点に達した時に起るのであるから。
まあ、いま述べた゛遅い速度の離れ゛というのはもう少し厳密かつ具体的な表現で言い直せば、掌が微妙な角度、つまりゆるやかな回転のエネルギーを与えつつあるところで離れを生じさせるということであろうか。
こう、口で言うのは簡単だが、これが至難なのである。なぜなら、物を手に持って飛ばす時、人は必ず投げるという身体を使った゛うねり゛運動を起すからである。
しかし、うねっているうちは手裏剣術としての、否、武術としての動きは生まれない。つまり、僅かに三寸太刀を動かしただけで「ヒュン」と太刀風を生じさせることなど永久に不可能だろう。
今回、うねらない動きの難しさがあらためて実感できたと同時に、それを目指さねば武術に志した甲斐がない、との思いを新たにしただけでも手裏剣術工夫の道に入った意味はあったように思う。
以上1日分/掲載日 平成12年7月31日(月)
2000年7月30日(日)
゛回転体の入れ子構造゛というたとえから、「ある動きの系にどうすれば違う動きの系が介入できるか」という具体的な問いかけが今月の27、28日あたりから手裏剣術の工夫によって浮上してきたが、それが29、30日と稽古に来た人達と手を交えて検討した結果、体術、剣術においても具体的な進展がみえてきた。
そのなかで、いままでにない展開をみせてきたのは膝の抜き方の新工夫である。いままで私は、私から相手に働きかける力を生み出すのに、体の沈みを利用し、そのため主として膝の抜きを使っていたのだが、より有効に全身の働きを生かすためには、この膝の抜きをごく僅かにしなければならないのではないかと思いついたのである。
従来行なってきたように、膝を抜くことにより体の沈みを使うというのは、もちろん力んで力を出すのにくらべれば、気配もなく有効なのであるが、どうしても単純に私の体重を利用することになってしまいがちだったのである(ただ単純にとはいっても、気配が消えていればかなり使える。しかし体重の落下という動きは、うねり系の動きと同様、その動き自体の系が強大すぎるため、他の身体各部の動きの介入・参加が難しくなってしまう)。
それに膝の抜きを十分に行なうと、技として働いている時間が長すぎ、威力そのものが減殺されてしまう。これは矢をただ強い力で押しつけるのと、弱い力とはいえ弓から発射するのとでは、その貫通力に歴然とした差が出ることからも理解されると思う。
たとえば、このことから発想を広げると、体術でシッカリと頑張っている力持ちの手を若干(2〜3p)揺することは子供にでもできることであるが、それ以上動かすことは難しい。しかし、この揺すられている、いわばアソビ分の2〜3pの動きの間に仕手の全身から発する力が介入・参加できれば、力持ちといえどもとても持ちこたえられないのではないだろうか。
このようなことはずっと以前にも考えたことがあったのだが、当時はどうにも具体的にその考えを形にする材料があまりに乏しく、単なる空想で終ってしまっていた。それがここ最近の゛回転体の入れ子構造゛(回転体の複合)という気づきから打剣の工夫を経て少し形になってきたようなのである。
たとえば今回の気づきを曲がりなりにも考えつつ、切込入身、柾目返、浪之上(こちらの片手を相手に十分しっかりとつかませ、これを上方に崩すもの)などで、相手の崩れ方をみていると、この術理の工夫もそう的外れでもないようだ。
以上1日分/掲載日 平成12年8月3日(木)