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※2001年8月1日(水)以降については、「随感録」を御覧ください。

2001年4月5日(月)

昨日、4月4日は久しぶりに身体教育研究所の野口裕之先生に、ゆっくり時間をとって戴いてお会いする。
昨年の秋からは、しばしば野口先生に体を観ていただいている名越康文氏らと伺い、ちょくちょくお話をうかがってはいたが、ゆっくりと時間をとって戴いてお会いするのは恐らく1年ぶりぐらいではないだろうか。
昼すぎから夕方まで身体教育研究所の稽古場で、ビデオを見て戴いたり、野口先生発案の硯をみせて戴いたり、多少動いたり等々、贅沢な時間を過ごさせていただく。
いつもの事とはいいながら、野口先生の根本的な物事に対する観察眼の鋭さ、その発想の秀抜さ、そして内観によって高められた感覚の敏感さにはホトホト感じ入る。

かつての日本人は視覚も皮膚感覚があり、それは絵にも現れているというお話で、西洋の遠近法などによる絵は分析かも知れないが、それを学んだ日本人が自ら持っていた感覚を失ったという野口先生の持論は以前にもうかがったが、今回は改めてそうしたことに対する野口先生の嘆きと悲しみが少し理解できるようになってきた。
それはお話を伺っていて、『願立剣術物語』の中に「…下手の的を見て箭(矢)を放つ如く手前虚なり。箭坪の定めというは的を見て放つにあらず、我に定むる処であって放つと見えたり…」というくだりを思い出したからであり、また心道会の宇城先生を突いていて自然と外される、無住心剣術でいうところの「よく当るものはよく外れ、よく外れるものはよく当る…」に相当することに気づいたからでもある。
そういうことに気づいて改めて思い返してみると、昨年11月、宇城先生に対してバットを木刀がわりに上段や中段から打ち込んでいこうとした時は、明確に宇城先生の身体のある部分に狙いをつけていたが(この時は全く付け入る隙が無かった)、私にとって最も構えやすく、宇城先生も多少やりにくい御様子だった下段に落したところからの構えは、何となく宇城先生の姿を視覚でとらえてはいるものの、゛これ゛といった処を見ていなかった。
今回野口先生のお話をうかがって、夢想願立ではしばしば゛眼心身一致゛ということを説いているが、そのことの意味の深さがホンの少しだが垣間見られたような気がした。

そして今日5日は都内での稽古会のある日だったが、名越氏がNHKでの撮りの後、野口先生に体を観て戴くという事だったので、名越氏とも会いたいし、昨日の野口先生のお話しに深く啓発されたこともあり、稽古会の後、すぐ飛び出して瀬田の研究所に向かう。
今回は野口先生も、名越氏の身体を観るのに本当に大変だったようだ。というのも、この日NHK教育テレビの撮りで名越氏がリストカットについて解説し、それが大変な消耗を名越氏に強いたからのようで、野口先生もこんな大変なことは名越氏であるからこそやれるので、およそ誰にでも出来ることではないと述懐されていた。放映は4月9日と10日の両日で、夕方7時か7時過ぎくらいからのようだ。

以上1日分/掲載日 平成13年4月8日(日)


2001年4月6日(金)

今日4月6日、前田英樹氏と私があと1回ずつ載せて終る「現代思想」誌連載の往復書簡『剣の思想』の読者の方から出版社気付で長文の手紙が届いた。内容は、私が映画『もののけ姫』がきっかけで深い絶望感にとらわれていることに関する問題点の詳しい分析であり、そして私が新たな出口をみつけることを望む懇切きわまる提言であった。
とにかくおよそ今まで私の書いたものに対する感想や意見をいただいた中で、これほど内容があり、かつ見事な文章は読んだことがない。読み終わって、このような読者を持てたということは物書き冥利に尽きるとほとほと感服した。この書簡の内容を一言で言うのは難しいが、人に何か意見、それも異論を言う時はかくあるべしという見本の様な見事な手紙であるとは言えるだろう。
人に何か異論を唱える時、最も醜いのは異論を唱えることで自らの自己愛を満たそうとすることだが、今回いただいた御手紙はそうした匂いが全くなく、しかも論理の組み立てが見事で、もしこの方が物を書くことに関して全くのアマチュアであったとしたら、自らの筆の稚拙さに恥じ入るプロの物書きが少なからずいるだろう。このような方はもとより少ないと思うが、それでもいらっしゃるということは、これだけ問題の山積みした現代にあって何よりも生きる希望になる。
私も2月の『交遊録』に書いたように、「生き続けようとする者に絶望は許されない」という言葉でフト目が覚め、その後最近は肩の沈みと下腹丹田の関係が少しみえてきたせいか、どこか自分の行くてに青空をみるようになってきているところへ、このような御手紙をいただいたので、とにかく自分が生きているという事をより実感できるようにする試みは諦めずに続けてゆこうとあらためて思った。

今日はまた、先月初め熊本でお世話になったバスケットボールの指導者のM先生が来館。明後日は生徒も連れて来られる御予定とのこと。折角来られたのだからと、ご質問をうかがって動いているうち相手のディフェンスを崩す新たな体の使い方を発見した。
それはともかく、このM先生はどうやら人と人の縁をつなぐ不思議な才能というか役目を持った方らしい。恐らく今後もこのM先生の縁で得難い方と出会うことが出来そうである。そうなればまた生きる希望が明日につながる。
とにかく私に与えられた今生での役目が終るまで走りぬいてゆこうとの思いを噛みしめた今日一日であった。

以上1日分/掲載日 平成13年4月9日(月)


2001年4月19日(木)

昨日から東北の山中、佐藤家にいる。今日から佐藤光夫・円夫妻と一人娘の遍ちゃんが名古屋方面へ旅行のため、家に残される愛犬2匹と愛猫2匹の面倒をみるために来ているのである。
もちろん理由はそれだけではない。前田英樹立大教授と「現代思想」誌で1年間にわたって続けてきた往復書簡、『剣の思想』の最終回を、この地で留守番をしながら書くことを第一に、その他いくつかある本や雑誌の原稿書きや企画を練ることを誰にも邪魔されずに、この山中でやってしまおうという狙いである。
しかし、昨日来てみて、暖かいのと、そのため予想より遥かに雪がなくなっているのに驚き、果たして原稿がどこまで進むか不安になってきた。というのも、佐藤家の周辺はさすがに桜はまだ咲いていないものの、春最初に咲くマンサクの可憐な花にコブシまで咲きはじめ、フキノトウがそこここに顔を出し、ヨモギもチラホラ見かけたからである。
このような林の中は歩き始めたらドンドン私を惹き込む魅力がそこここにある。ちょっと気分転換のつもりの山歩きも、ハマッてしまったら原稿書きの思惑も大外れとなる。その上、体の動きが変わりはじめているようなので、一人稽古にハマる可能性もある。
しかし、まあ夜は、普通のテレビ局の電波も届かない所なので、普段の生活よりはよほど集中して考えたり書いたりできると思う。

それにしても夢の中を駈けぬけるようにして月日が経ってゆく。
そうした中で、つい先頃(今月8日)も、私と縁のあった私とほとんど同世代の方が一人亡くなった。その方とは、私の最も親しい友人の一人である精神科医の名越康文氏から紹介された同じく精神科医の頼藤和寛氏である。
頼藤先生は、関西では特に知名度の高い精神科医で、「文藝春秋」5月号に『精神科医がガンになって』の手記を寄せられている。享年53歳。その早過ぎる死を悼む声は多いようだが、天才的な方だっただけに、御自身はいま人生の幕を引くことにある面納得されていたようにも思う。
私は、3年前の5月半ば、大阪でカルメン・マキさん、名越康文氏そして私との鼎談共著『スプリット』の出版記念パーティがあった折、お会いしたのが最後になってしまったが、ユーモアあふれる御手紙も何通かいただき、一度はゆっくりとお話しさせていただきたいと思っていたのに残念である。謹んで御冥福をお祈りしたい。
名越氏にしてみれば、昨年秋の安克昌先生、そして今回の頼藤先生と、半年ほどの間にたて続けに最も話の通る同業の御仲間を失い、少なからぬショックであろう。
先日、名越氏と電話で話した時は、「いや、もう次は僕やなーと思いましたわ、ホント」と詠嘆口調だったが、今の名越氏を取り巻く状況からいって、そう簡単にこの世の卒業証書は出ないと思う。それどころか御自身が好むと好まざるとに関わらず、まだまだやり残した事がおありだったと思う御二人の分まで活躍することが、これからの今生での御役目ではないだろうか。

以上1日分/掲載日 平成13年4月22日(日)


2001年4月25日(水)

桜もまだほころんでいなかった東北の山中の佐藤家から、22日の日曜日東京へ戻ってくると、新緑は一段と鮮やかでハナミズキの花がそこここに咲き乱れていた。
ハナミズキは別名アメリカヤマボウシというから、恐らくこの木はヤマボウシに近い木質だろう。実際、花も葉もよく似ている。昨年暮、佐藤家の近くで刀の柄材にとマンサクの木を伐り出して、これを乾かし、その材をよく検討してみたが、粘り強さは、どうしてもヤマボウシからはかなり落ちることが分かったので、今回、2年程前に佐藤光夫氏と一緒に伐って、ずっと佐藤家で寝かせておいてもらったヤマボウシを受けとってきた。そんなことがあるからだろう、ハナミズキを見ていると、つい一度はこの木の材も調べてみたいとの思いにかられてくる。
こんなことを考えていると、フッと心楽しくなってくるのだが、それは自分の命も限りある生であるとの自覚が以前よりハッキリとしてきたからかも知れない。
それというのも、佐藤家で留守番をしている間に少なからぬショックが心に響いてくる訃報を受け取ったからである。私が深く尊敬していた大倭紫陽花邑の矢追日聖法主が昇天されたのは5年前の2月9日であったが、4月19日、遺された矢追鈴月夫人が突然動脈瘤破裂で亡くなったとの知らせを受けとったのである。
その気さくな人柄で「大倭のかあさん」と呼ばれ、多くの人々から慕われていた矢追鈴月刀自は、その気さくな人柄そのままに、この日、小旅行に出かける仕度をされていて、そのままこの世から旅立たれたという。
その話を聞き、ショックは受けたが、同時に流石に「大倭のかあさん」らしいと感銘を受けた。これからは肉体を脱がれたので、自由な立場から多くの人々を見守って戴きたいと願っている。

家に着くと、いくつものFAXやら手紙やらが山になっていた。佐藤家で7分ぐらい書き上げた、前田英樹氏と『現代思想』誌上に連載中の往復書簡「剣の思想」の最終原稿を読み返して加筆、整理しようと思いつつ、ついついもう3日が過ぎてしまった。なんとか連休始めのうちに仕上げて、次の仕事に移りたいと思っているのだが、技の方も変わりはじめているので、その方も整理展開してみたいし、連休に入ってすぐ仙台での稽古会があるし、その後ちょっと風変わりな雑誌の取材で格闘家のS氏と会う予定が入っていたり、プロや実業団の野球やらラグビーやらの選手や指導者の方々が会いに来られたりするらしいので、この連休も気がついたら終っていたということになっているかも知れない。

以上1日分/掲載日 平成13年4月28日(土)


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