2000年6月1日(木)
5月26日、東北から帰り、18日から続いた長旅もようやく終ったが、留守中にたまっていた校正や原稿書き、それに旅の疲れもあって『交遊録』を書く暇がまったくなかった。
それが今日6月1日、ようやく原稿にも目鼻がついた上、どうしても礼状を出さねばならないところがあったので、その礼状に近況も書き、その部分をここに転載させていただくことにした。いささか形の変った『交遊録』となるが御了解いただきたい。
それにしても、また明日は都内で稽古。翌日から1泊で群馬大学同志会の合宿。7日は譲原晶子女史のお招きで千葉商科大学へ。1日おいて池袋コミュニティ・カレッジの講座。そして翌日、翌々日は鎌倉と小金井で空手の方に招かれての稽古と、また慌ただしい日々が始まる。
(以下、手紙からの転載です)
…長旅から帰った日もそのまま都内の稽古場へ寄って3時間ほど稽古をしましたから、終った時はホントにくたびれて、駅まで私の荷物を3人の方に分担して持ってもらいました。こんなことは初めてで、そこから家まで20数キロをタクシーで帰ろうかと思ったほどです。
でも翌日も翌々日も私の道場で稽古があり、稽古は始めればけっこう出来てしまうのでかえって悪かったのか、その2日間の家での稽古の後2日は凄い頭痛がしたり、体がむくんだりしておりました。
ただ、その翌日、つまり昨日5月31日は宮崎駿監督のアトリエ二馬力でのミニ・コンサートにお招きを受けていた日で、9時半頃やっと起き出して、たまっていた校正や原稿書きを出来る限りやって、3時近くに家を出ました。
ほぼ1月ぶりの二馬力は、ここ1番の名物である窓からみえる栃の大木の葉がすっかり大きくなっており、思わずみとれてしまいました。
この二馬力の総支配人的存在の篠原征子女史に宮崎監督の奥様を紹介していただき御挨拶をしている間に、今回のコンサートの主役の御一人ヴァイオリニストの天満敦子女史もみえ、やがてもう1人の主役、上条恒彦氏、そして宮崎監督も来られたので、宮崎監督に御二方を紹介していただきました。
少し遅れて、今回の企画の仕掛人である上条夫人も八ヶ岳からみえられ、コンサートが始まりました。
上条氏の歌を私は初めて間近で聴かせていただいたのですが、その迫力には驚嘆しました。
もし、この建物の近くをちょうど通りがかった人がいたとして、この歌声を耳にしていたら(窓も開いていましたから当然聞こえたでしょう)、それがマイクを通さぬナマの声だとは思わなかったでしょう。
もちろんそれはただ大きいというだけではなく、こちらの胸に響きわたる力がありました。
その後、天満女史のヴァイオリン。今から200年以上前に造られたというストラディヴァリウスのヴァイオリンは湿気を好むとのことで、この日はひときわ微妙な音色をたてたようです。これは期せずして後で宮崎監督も、「楽器のなかでヴァイオリンほど不思議な感じのする楽器はないでしょう」と話されていましたが、私もまったく同感でした。
私は目前3〜4メートルのところで発せられる音の微妙さを身体中で吸収し、天満女史の弓を持つ手の柔らかさを飽かずに眺めておりました。
コンサートの後は軽食が出て2時間ほど歓談がはずみました。
篠原さんから、ごく小人数のコンサートですから、とうかがっていましたが、実際スタジオジブリの関係者以外でその場にいらした方は、宮崎夫人の御友人2、3人と、私を宮崎監督に紹介して下さった加藤晴之氏の他はほとんど見当たりませんでした。
午後7時半頃、天満女史や上条ファミリー(上条夫人の他、息子さんも1人来られていました)を一同で御見送りしたあと、なんとなく宮崎監督と加藤氏と私の3人で、この日のコンサートの感想やら映画のこと、井の頭公園に出来るジブリの美術館のことなどに話が広がり、この日上機嫌だった宮崎監督はほとんど切れ目なく話し続けられ、「あっ、もうこんな時間ですね。どうもおひきとめしてしまって」と言って立ち上られた時は午後10時半近くになっていました。
御話のなかで何度も、御自身の体調がもうタイムリミットに近づいていることを自覚するようになった、と語られていましたが、この方はきっと前へ前へと歩き続けられ、その最期の時まで歩みを止められることはないだろうと思いました。
しかし男の人、ましてもう60歳を間近にしている人で、あれほど笑顔が魅力的な人を私は他に知りません。
監督の体調のことを考えると「御活躍をお祈りします」とも簡単には口にしづらいのですが、現場で活躍されてこその宮崎駿監督だと思いますので、とにかくなるべく心残りとなることがないよう、これからはやりたいことをやっていただきたいと祈るばかりです。
一時の気持の高揚にかられて、ということではなく、しみじみと「ああ、この人のためなら一肌も二肌も脱ぎたい」と思わせる、そんな魅力が宮崎駿という人物にはあります。
帰路、ぱらついている雨のせいか、「お送りしますよ」とおっしゃって下さった加藤氏の御好意に甘え、車に乗せていただきながら、人と人との出会いの縁の不思議さをつくづくと噛みしめました。
以上1日分/掲載日 平成12年6月2日(金)
2000年6月6日(火)
6月に入ってからも出会いは多い。
2日は都内の稽古会に、会員のフランス人のモリエ氏が、マウンテンバイクによる降下の世界最高記録217.391q/hを持つフランス人のBARONE氏一行を案内して来場。言葉はまったく通じなかったが、その真摯な人柄は表情(特に目)に顕れていた。
切込入身とか、後に下がらないように向き合って両手持ちでしっかりと、同時にいなしありで持ってもらうところを崩すものとか、いくつか体験していただいたところ、その少年のような目が一層輝いて好感が持てた。
9月には富士山をマウンテンバイクで降りられるとのことだが、「また是非会いたいのですが、会っていただけますか」と通訳の方を介して言われたようで、私も「どうぞ」と言って握手して別れた。
3日は同志会の合宿で高崎へ。
昨年の夏以来、同志会の面々とは3回目の合宿になる。OB中心であるが、まさに同志的集団で、冗談を言い合っている雰囲気がその親しさと、この会が各人の人生の豊かさとやすらぎをはぐくんでいる様子がうかがえる。
とはいえ、相変らず技に対しては妥協なく、決して自分から受けを安易にとったりしないから稽古も気持ちよく出来る。
そうした雰囲気と宿泊先の錦山荘の温泉のお陰か、深夜まで同志会諸氏と話して、3時間半ほどしか寝なかったにもかかわらず、翌日は最近になく体調がよかった。
この日は朝日新聞の日曜版『名画日本史』で宮本武蔵の「古木鳴鵙図」がとりあげられ、その関連で3ページ目には私の抜刀(逆手抜飛刀打)の写真が載った日でもある。
しかし武蔵の絵が出て、次に私の写真が載るということの落差の大きさにあらためて古人の力量と自らの卑小さを思わざるを得なかった。
この日、同志会の稽古は午後1時半頃まで行ない、その後、出会ってほぼ30年近くになる古くからの武友である小用茂夫氏の稽古会に寄る。ここで小用氏門下のS氏と剣術の手合せをし、おおいに得るところがあったことは、すでに『技と術理の気付き・変化報告』の欄で述べた通りである。
流儀というのは、その技を通してひとつの思想と、その表現形態を持つものなのだということをあらためて知ることが出来たのは非常に貴重な体験であった。小用氏と御門下のS氏には深く感謝している。
そして今日6日は中国武術の散打などでも活躍されているT氏がみえ、いくつか手を合わせる。
人間的にも大変好感の持てるT氏とは武術以外の現代の社会機構や教育の問題にも話題が及んだが、話し甲斐のある楽しいひとときを過すことができた。
以上1日分/掲載日 平成12年6月7日(水)
2000年6月7日(水)
千葉商科大学での講座へ行く。市川駅へは今回の企画をしていただいた譲原晶子女史が迎えに来て下さり、タクシーで大学へ向う。講座の前に今回使わせていただく竹刀を手配して下さった譲原女史の同僚の宮崎緑女史に御挨拶する。
会場の剣道場には約70人ほどの方々が集まって下さって、その中には加藤寛学長をはじめとする教職員の方々も10名ほどおられた。
いざ話をはじめると話したいことがありすぎて、私のなかで優先順位争いをしてしまい(実技もかなり交えて、体験希望の人達とも手を交えたのだが)言葉に詰まりそうになったので、質問を受けた。
そうなると実技の体験希望者が何人もあり、たちまち時間が経って、宮崎緑女史からの質問にお答えしているうちにチャイムが鳴ってしまった。
講座終了後、何人かの方々と談話室で2時間近く座談の場を持ったが、井関利明・政策情報学部長は私の稽古法の「基本はない」という話に非常な共感を示され、「我が意を得たりの思いでした」とまでおっしゃっていただいたのには少なからず驚かされたし、心を動かされた。いままで私のこの話を初めて聞いてここまで理解された方も少ない。その上、年齢的にも還暦を越えられた方でこれほど私の話に共感して下さった方はほとんど思い当らない。こういう方に文部省が教育改革の重要なポストを何故持っていかないのか不思議に思う。「日を改めて、また勉強会にお招きしたい」というお言葉までいただいたので、いつかお声をかけていただいたら、またここに伺ってお話をさせていただきたいと私の方も願っている。
最後に今回の講座の準備をして下さった譲原晶子助教授にあらためて感謝の意を表したい。今回、昔風に言えば譲原女史が教鞭をとっておられる大学へ来てみて、天真爛漫に学生と一体になりながら、同時にとても気を遣っておられる様子を直に拝見し、深い感銘を受けた。おそらく御本人は御自分の長所など夢にも自覚されていないだろう。よく「無私な心が成功を呼ぶ」と称し、どうしたら無私な人間となれるか、という経営者向けのビデオ教材なども販売されているようだが、そういう下心のある無私と、自分の長所を露ほども自覚していない人間とは、造花と天然の花ほどの違いがあることを、今日はあらためて思い知らされた。
以上1日分/掲載日 平成12年6月8日(木)
2000年6月14日(水)
9日(金)の池袋コミュニティ・カレッジの以後、鎌倉、小金井、新宿と連日、講座や稽古会に出かけ、やっと家で少し原稿書きを、と思ったら今度は間なしに連日人が訪ねてくる。
もちろん前もって予約が入っていたのだが、よく知っている人達なので、ことさら何日と前々からハッキリ約束しておらず、大体このあたりで、とおおまかな予定しか入れていなかったのだ。
それがまるで申し合わせたように、毎日毎日1日の空きも重なることもなく来訪者が絶えず、このままでは9日以来、私が出かけなければ誰かが訪ねてこられるという日が20日ぐらいまでは続きそうだ。
そのため、ここ1週間ほどこのホームページの原稿を書いていなかった。そうしたら今日、朝日新聞6/4の日曜版を送っていただいた論説委員の石井晃氏に御礼の電話を入れたところ、「何かありましたか。ここしばらくホームページの更新がないので心配していました」とおっしゃっていただき、「そんなふうに心配して下さる方もあるのか」と、慌ててこれを書いている。
9日、池袋コミュニティ・カレッジは、私の道場の会員のTさんのお兄さんが友人で、元キックボクシングのチャンピオンだったS氏らと来場。
10日の鎌倉はフルコンタクト系の空手道場での稽古会だったが、それだけに皆さん率直で楽しいひとときを過し、あやうく終電に乗りそこねるところだった(もっとも私は妙な運の強さがあって、ハッキリと「もう終電が終ったな」と思った時以外で「あっ間に合うかな」という微妙な時に終電が出てしまった、ということがいままで一度もなく、この日も電車があるかどうか案じてホテルの手配までしようとされたM先生を「もし遅れてしまっても、それは私の支払う人生の税金ですから」と制して電車に乗り、案の定JR南武線の終電に間に合い遠距離をタクシーに乗ることもなく帰宅できた)。
11日も小金井でやはりフルコンタクト系の空手の方々に招かれての稽古。打ち上げの後、私の稽古会の会員では1、2を争うほど古い井上氏と小金井駅前の喫茶店で少し話しをし、最近の術理のまとめをする。
このあと駅近くで桐朋高校のバスケットボール部の主力選手の1人で、私がもっともよく知っているS君に会ったので、横丁に入って最近の吸気による私の技についていくつか実際に手を交えて解説する。3月に会った時には私の切込入身に対してかなりの抵抗を示していたのが、今回ずいぶん簡単な崩れ方をしたから、私もこの3ヶ月近くの間の吸気による技の変化をあらためて実感することができた。若いS君の深く自分の身体内部を探るような表情は、見ていても目に快かった。ああいう表情をするハイティーンが多くなれば、今の日本の社会もずいぶん違ってくるだろう。
12日の月曜日はオペラの専門家のH女史が初来館。また、私の青土社に出す汚い手書き原稿の清書を自ら志願して引き受けて下さったK氏も来られ、しばらく話して稽古した後、朝日カルチャーセンターへ。
この日は並木氏が都合で来られず、中島章夫氏と2人で行なったが、私は初めて自分の教え方が、昔の日本の職人の教え方と同じような、その場の雰囲気に馴染ませることによって育てる、という方法をとっていることに気づいた。
講座の後、中島氏と2人で軽食をとりながら、私の教え方や、年内に合気ニュースから出す予定の私の術理の総まとめの解説書の構想を練ったが、あらためて中島氏の人の話を聞くことと、自分の考えをうまくまとめて話すことの才能の見事さを実感させられた。
以上1日分/掲載日 平成12年6月15日(木)
2000年6月18日(日)
16日、植島啓司先生から送っていただいた植島先生の最新刊『聖地の想像力』(集英社新書)は、まだ拾い読み程度だが、何か新しい示唆をいただいているような気がしている。
この日、都内の稽古会で、タックルしてくる相手に対して間を切る技に新たな進展がみられたが、いま思うとこの本と無関係ではなかった気がする。この対タックル技は、昨日(17日)と今日、何人かの常連会員と試みたが一歩進展したことは間違いなさそう。
それにしても、体の浮きのかけ方と、タメなく、ウネリのない体動の難しさをあらためて感じる。その点、15日の江崎氏の指摘も貴重だったし、今日組み合った常連会員諸氏の粘りも有難い限りだ。
また、16日は郡司幸夫神戸大教授からのお招きで来月6日、神戸大学で私が話をさせていただくことが決った。
どのような展開となるかわからないが、とにかく今はさまざまな角度からの刺激をいただくことにしようと思っている。
以上1日分/掲載日 平成12年6月20日(火)
2000年6月21日(水)
今日は久しぶりにどこにも出かけず誰も来なかったが、やらなければならないことが山積していて、どこから手を着けようかという状態。
そんななか、マガジンハウスの「ターザン」誌からの取材申し込みと、絹の織物についてはその研究の深さで知る人ぞ知る存在といわれるある方が私に会いたいとおっしゃっておられるという連絡が、10年ほど前に2、3度みえたことのあるH女史からあった。
話を聞いていると、どうやら凄い研究をされているらしい。おそらくは世間の常識と正反対のやり方で、一般の通念の及ばぬ世界を切り拓かれたのだろう。どのような展開になるかわからないが、御縁があるのならお会いしていろいろ教えていただきたいと思っている。
この方の研究にはとても及ばないだろうが、私の体を捻らぬ動きも私なりに成果は上がってきている。
また、私の動きを取り入れた桐朋高校のバスケットボール部は、インターハイ出場にほとんど王手がかかっている状態だという。「1年前だったら夢のような話ですよ」と、私をバスケットボール部の部長のK先生に紹介して下さったH先生は一昨日電話で感慨深げに言われていたが、その電話のなかで一般常識というものの殻がいかに固いかについても嘆くというか、苦笑いされていた。
なにしろバスケットボールの練習に「武術のなかの体を捻らない動きを取り入れた」と言っても、ほとんどの人達が興味を示さず、結局、「練習時間がすごく少ないと言っていても、実は陰で猛訓練をしているのだろう」とか「素質がある生徒が集まっていいね」などというふうに、自分達が納得できる理由を無理にでもつくって納得しようとしているらしい。
そういえば昨日、久しぶりに電話をいただいた広島の白石宏トレーナーもあちこちで私のことを話して下さっているらしいが、本気で関心を示す方は非常に少ないそうだ。なかには、「ああ、そういうトレーニングならウチでもやっています」と、内容をよく吟味することもなく予防線を張られる方もあるらしい。
白石トレーナーほど有名な方の紹介でもこの有様では、体を捻らぬ並列処理的体の使い方が、多くの人の関心を呼ぶにはまだまだいくつも階段がありそうだ。もっとも私も、知る人ぞ知るぐらいが一番居心地はいいのだが、学校現場の荒れている状況などを思うと、私が展開中の、スポーツなどでの一般常識に反する動きの原理が有効であった、ということになれば、これを糸口に教育の自由化が行なわれ、現在劣悪な環境に置かれている子ども達に光がみえることも考えられるので、私としてはなんとも複雑な心境である。
もっとも、私の術理のスポーツへの応用については、私よりも深い研究をされている岡山の小森君美先生がいらっしゃるから、私は私で元々私が武術を志した動機である「『人間にとっての自然』とは何なのか」「人間の運命の定・不定」(人間の運命は完璧に決っていて、同時に自由である、という二重性こそが事実に違いないという私の思想の原点)を追いかけていけばいいではないか、と思ったりもしているのだが、さてどういうことになるのであろうか。
以上1日分/掲載日 平成12年6月22日(木)
2000年6月22日(木)
合気ニュースから宇城憲治先生の初めての著作『武道の原点』が届く。A5判の上製本で写真も多く、これは多くの人達に少なからぬ影響を与えるだろう。私も本の腰帯に一筆書かせていただいたが、出来上がった本を見て、あらためて人との出会いの不思議さを思わずにいられなかった。
今週末あたりに刊行される『現代思想』7月号(青土社)から、いよいよ前田英樹立大教授との日本武術に関する『往復書簡 剣の思想』の連載が始まる。第1回目は前田氏執筆。以後交代で6通づつ全12回の予定。
この往復書簡で私自身の武術観が新たに再編成されれば何よりだと思っている。
以上1日分/掲載日 平成12年6月23日(金)
2000年6月23日(金)
7/5(水)、大阪・久保田体育館で稽古会を行ないます
7月4日からの関西行きに合せて講座等の予定を組んでいたところ、5日の予定がキャンセルになったので、急遽5日(水)にいつも私の関西での稽古会の世話をして下さる野口一也氏の稽古時間をお借りして、なんば駅近くの久保田体育館で公開の稽古会を行なうことになった。
ウイークデーの夕方6時半からだが、御関心のある方はこのホームページともリンクしている尚志会のホームページを見ていただくか、野口氏(рO724−32−4366)へお問い合わせをしていただきたい。
以上1日分/掲載日 平成12年6月24日(土)
2000年6月25日(日)
本日は徳間書店で岩渕輝、譲原晶子両氏と新しく出す本(養老孟司先生も加わっていただく予定)の内容についての打合せの鼎談を行なう。
いままで何度となく聴いたが、あらためて岩渕氏の科学に対する切り口の鋭さに深く感じ入った。大阪の精神科医の名越康文氏が、岩渕氏と会って、現在の科学に対する根源的な疑問について語ったのを聴いた時、驚嘆して、「岩渕さんって日本の宝みたいな人ですねぇ」と口にした時の声と表情があらためて思い出された。
そして譲原女史が、またまた貴重な存在。薬学という理系出身とのことだが、こんなにも感性的でアーティスト的な物事の捉え方をする理系出身者は滅多にいないだろう。今後の展開が楽しみである。
日曜日という休みの日に、我々のために出社された徳間書店の方々にはこの場を借りて御礼を申し上げたい。特に企画を通して下さった石井編集長と、石井氏に橋渡しをして下さり、本日の徳間書店での打合せの後、引き続き印度料理店で食事をしながら夜11時近くまでお付き合いいただいた永田氏には心より感謝の意を表したい。
さて、午前1時近くに帰宅してみると、桐朋高校のH先生から同校のバスケットボール部が奇跡的にインターハイ出場を決めたという電話があったとのこと。
昨夜のH先生からの電話では、「ほぼ出場できそうだと思ったのですが、やっぱりいざとなると壁は厚く2連敗してしまい、インターハイ出場は無理でした」とのことだったので、いったい何が起きたのかと思って電話してみる。
H先生の解説では、いままでどうしても勝てなかった強豪チームに大量得点差で勝ってポイントを上げ、インターハイへ行けることになったとのこと。その上、全国大会の選抜校にも選ばれたとのことである。なんでも東京都で、いわゆるスポーツ推薦で中学から選手をとっている約40校以外の高校で、全国大会の選抜校に選ばれたのは初めてのことらしい。
「自分は距離をおいてアドバイスをする程度以上はなるべく関わらないようにしているのですが、それでもこれだけ一喜一憂してしまうのですから、まだまだだなと思いました」とH先生は淡々と電話口で話されていたが、H先生と出会って今年で13年目、当時まだ井桁術理も出ておらず、現在から見ればまったく稚拙だった私の動きに、それでも何かを感じて下さったのか、初対面以来少しも変らぬ誠実さでずっと接して下さっている。思い返してみれば、こういう誠実な方が支えてきて下さったから、「なんとか、それに応えねば」と思い、励まされたことも何度かあったように思う。
H先生の存在がなければ、桐朋高校のバスケットボール部が私と縁が出来るはずもなく、今年のインターハイ出場もなかっただろう。H先生は、まさに縁結び、時の氏神的役割を果されたわけだが、私に対しても、バスケットボールのK先生や部員諸君に対しても、むしろ気配を消そうとされているようだ。そういうH先生の御人柄に、電話で話していて何かふと胸の熱くなるものを覚えた。
H先生は、どうやらこれからも縁の下の力持ち的役割を続けられるおつもりのようだが、より多くの人達に御自身の考えられてきたことを伝えられれば、ずいぶんそれで道の開ける先生や生徒も出ると思う。
いつの日か、御一人でも、あるいは私と共著という形ででも、一冊書かれることを心から願っている。
以上1日分/掲載日 平成12年6月27日(火)