2000年7月1日(土)
28日の夜に上京して、そのままラジオの録りに入った大阪の名越康文氏と、29日から毎日、知友のところや出版社の打合せなどをまわる。
名越氏と一緒にいままで数多くの人々と会い、名越氏がほとんど一人でしゃべりまくった場面も少なくなかったが、唯の一度もそのことでしらけたり浮いたりしたためしがない。昨日あらためてそのことに気づき、人の話を聞き、自分の言葉を相手に入れるのが専門の精神科医とはいえ、ここまで話術が身につくものかとつくづく感じ入った。
その名越氏と今日も、2ヶ月ほど前に名越氏が、名越氏と親しいディレクターのK氏を通じて知り合ったというプロ格闘家のY氏の道場を訪れる。東横線沿線にある道場にK氏の運転する車で、K氏、名越氏、両氏共通の知人であるS女史と4人で到着したのは午後2時を少しまわった頃だったと思う。海外にもその名を知られているY氏は、がっちりとしたいかにも格闘家という体格に笑顔がよく似合った。
挨拶をさせていただいた後すぐ着替えて、Y氏の内弟子諸氏に相手になっていただき、最近展開中の技を説明しながら実演。非常に熱心に質問して下さったので、あっという間に2時間半ほど経ってしまった。
帰り仕度が終って着替えを済ませた後も、内弟子の方々の質問でいくつか技を試み、私にとっても張りのあるひとときを過せた。
さて、明日は渋谷ON AIR WESTで久しぶりのカルメン・マキ ライブ。名越氏と一緒に行くのは昨年の2月以来だろう。
そして1日おいて4日からは岡山・大阪・神戸の旅に発つ。今回の旅は6日の神戸大学での郡司ペギオ幸夫教授の企画による特別セミナーが最大の焦点。゛人間にとっての自然゛について長年私が考えてきたことに一歩前進のキッカケが何かあればと、心から期待している。
以上1日分/掲載日 平成12年7月2日(日)
2000年7月2日(日)
渋谷ON AIR WESTでのカルメン・マキ ライブへ名越・岩渕両氏と行く。久しぶりのバンドの入ったライブでマキさんはのっていたようだ。
一言でいえば「さすがカルメン・マキ」というところ。シャウトひとつとっても、日本の女性ヴォーカルでシャウトして金切声にならず、聴かせるという歌い手は滅多にいないと思う。
名越氏など、この日ちょうど親友重病の報に接したとのことで、「生きているということをあらためて考えさせられますねぇ。カルメン・マキの歌にくらべて自分のやっていることがいかにしょうもないことかと思い知らされましたよ。ああ、もう、ああいう天才が野放しになっているのはいけませんよねぇ。我々凡人の生きている意味を奪われそうで……」と、何かにとりつかれたように感嘆の弁しきり。
岩渕氏ともども、この名越氏の述懐には部分的にまったく不同意。名越氏にそんなことを言われたら、我々も立つ瀬がない。
しかし元気そうなマキさんの様子にはホッとした。これからの益々の活躍を心から祈りたい。
以上1日分/掲載日 平成12年7月4日(火)
2000年7月6日(木)
神戸大学で特別セミナー。
このことに関しては、当ホームページとリンクしている『名越ディアローグ』のなかで名越康文氏がすでに述べられているが、我々はこの日の昼近く名越氏宅を出発して、阪急電車のなかで朝日カルチャーセンターのM女史、朝日新聞論説委員の石井晃氏と一緒になり、阪急六甲駅では名越氏の親友で神戸大学の精神科ではその人ありと知られた安克昌教授、作家の多田容子女史と合流(多田女史は近くでもあり、このセミナーでの実技時の剣術の相手役として急遽私が依頼して参加していただいた)、2台のタクシーに分乗して神戸大学へ。今回私を招いて下さった郡司幸夫理学部教授は会場の滝川記念会館で待っていて下さった。
セミナーは午後1時半からスタート。実技を交え3時間ばかり話をする。郡司氏の周囲の大学院生の諸氏はいわゆる大学院生とは一味も二味も違う感じ。
セミナーの後、三ノ宮の中華料理店での打ち上げに集まった面々は、私も含めてだが旅回りの一座といった趣きがあったように思う。
しかし郡司氏の゛時間゛に対する斬り込みと、それを単に学問として扱い考えるということとは質的にまるで違う迫力(あたかも宗教者が悟りを開かんと求道しているにも似た姿)には感動を禁じ得なかった(名越氏は私以上に感動していたようだ)。
理科系の学生で、『人生とは』と、もし悩むようなら、郡司教授の許へ行けばいいのではないかと思うほど。しかし、この教授の許で世の価値観とは違うところに目が行った人は、卒業後に社会との適応に困る人が出てくるかもしれないと、余計なことまで考えてしまった。
なにはともあれ、郡司教授とは一度、一晩くらいかけてじっくりと話し合う機会を持ちたいものだと思った(その時は名越氏、岩渕氏にもいてもらいたいものだ)。
このまま関西で一泊では翌日都内での稽古会がきついので、この日は新神戸20時27分発の゛ひかり゛に乗り、大阪で20時54分発の゛のぞみ゛に乗り換え帰宅した。
以上1日分/掲載日 平成12年7月9日(日)
2000年7月11日(火)
体が3つか4つあったらなあと思わず考えてしまう。というのも、ただでさえ忙しい上に、ここ何日間かにほうっておけない手紙が何通も来たからである。自分の進路を懸命に考えている高校生や大学生から、その心情を切々と訴えてくる手紙にはどうしても返事を出したいと思うし、旧知の人からの久しぶりの手紙にも返事は出したい。
また現にいま原稿等を手伝ってもらっている人への連絡、そしてその原稿書き。是非書きたい、書かねばという原稿が、雑誌・単行本等で7種類はある。
嫌な上司の許で働くストレスにくらべれば、私がいま抱えているような、やりたいことが山積しながら時間がなくて気になることからくるストレスなど贅沢な悩みといわれてしまうかもしれないが、頭の中に次々と浮ぶ文章やアイディアを形にできないというのは、それはそれで辛いものである。
しかしこんな時代でも、というか、こんな時代だからなのか、現在の社会制度の矛盾に対し「何とかしなければ」と思いつつもがいている若者がいることは、私など生きていく上で励みになる。
その中の一通で、滋賀県のY君からの久しぶりの手紙にはカヌーイストの野田知祐氏の著作を数多く読んで感動すると共に、野田氏の様に過激に建設省と戦っているのにくらべ、「自分がいかに口先だけの似非環境保護論者であるかが思い知らされ自責の念にかられています」と書いてあった。そして野田氏の略歴、「矛盾だらけの河川改修、ダム開発をおしすすめる建設省の比類なき蛮行を一市民の立場から告発し続けている」というくだりが引用してあった。
読んでいると今から四半世紀ほど前、環境問題がいまほど騒がれていなかった頃、食の問題から入って、農業問題、医療問題のいい加減さに我慢がならなくなって、その怒りをエネルギーに一人でいろいろな活動をやったいた頃の気持を当時そのままに思い出してしまった。考えてみれば今もその頃とあまり変っていないかもしれない。今度、岩渕氏らと出す本は、科学の業界の馬鹿馬鹿しさについて相当踏み込んで発言するつもりであるし……。
私も50代に入り、昔ならそろそろ自分の人生の終止符の打ち方について考える頃なので、とにかく言いたいことはできるだけ言っておこうと思っている。
以上1日分/掲載日 平成12年7月14日(金)
2000年7月20日(木)
仙台での番外編的稽古会(当初は8月下旬の予定だったのを、定例の場所の都合で、急遽7月中旬に臨時に場所を変更して行われたもの)の後、昨日、例によって東北の山中深くで炭を焼く佐藤家へ寄る。
そして今日20日は米沢で開かれた縄文フェスタに佐藤ファミリーと行ったのだが、途中、私のために、豪雨時はおそらく、そこここが川となっているであろう凄まじい路面状態の林道を抜けていってもらい感激した。
夏の濃い緑の樹勢にもかかわらず見上げる山肌に点々と目につく灰色の太い幹。これは原生林か、少なくとも数百年にわたって人間の手が入っていない森だという証拠であろう。
いたるところに一抱えも二抱えもあるブナ、ミズナラの大木が天に向って青々と枝を広げ、それらに混ってサワグルミの大木ダケカンバ、カツラ等の木々が山を覆っている。
とても車窓から見ているだけでは勿体無いので、途中から車外に出て佐藤家の愛車スズキの四駆エスクードの後部ドアについているスペアタイヤの上にまたがって、その森が尽きるまでの数qは屋根に貼りついて、この素晴らしい広葉樹の森を満喫した。
ただ、満喫しつつも同時に、この森の木々を見ながら、人間がこうした自然のなかで自然と共に生きられたのは、かつての縄文人や近代ではアイヌ、ネイティブ・アメリカンのような採取生活を営んできた先住民族の暮しまでで、農業を始めたということ自体、今日の環境破壊の元を作ってしまったのではないかという実感があらためて私を強く刺激してきた。
そのため、その景色には感動しつつも、その景色が見事であればあるほど、こうした場所が年々箱庭的に小さくなりつつあることに対して何もできない自分がみじめで、一方で感激しつつも、一方で落ち込んでいくという、じつに奇妙な精神状態を強いられ続けた。
おそらく今後この思いが軽減されることはないだろう。
というか、もし私自身、真に納得できる理由なくしてこの辛さが軽減されたとしたら、それは私がこの私にとって最も根源的な問題から精神の目を逸らしたということであり、これは私の私自身に対する最も犯罪度の高い裏切りであろう。
まったく我ながら呆れ返るややこしい性格だが、私が50年かけて煮詰め、つきつめてきた結果である以上、私の生が終るまでこれと付き合い続けなければならないだろう。
そのためにも身体を通しての技を研がねばならないと思い、同時に技のレベルが上がれば辛さの次元も上がるだろうなあと、諦めと覚悟が入り交じった奇妙な思いにとりまかれつつ今日は一日を過した。
以上1日分/掲載日 平成12年7月23日(日)
2000年7月27日(木)
株式会社インファスからMULTI−MEDIA MIX MAGAZINEとサブタイトルのついた雑誌『STUDIO VOICE』の本年6・7・8月号が送られてくる。これは、この雑誌の10月号のインタビュー欄に、私に出て欲しいという依頼が編集部のF氏から、このホームページの管理人S氏を通してあり、昨日F氏からいただいた電話で私がインタビューを了解したからである。
開いてみると野坂昭如、大野一雄、篠山紀信といった、それぞれの分野では一家を成した方々のインタビューが載っていた。
それを見て、まず何よりも思ったことは、私もこうした方々と並ぶような年齢になったのかということである。
もっとも大野一雄氏は93歳。私の倍近く春秋を迎えられているのだが、なぜか妙に私自身も人生の晩年を迎えているのだという感じがしてきた。この舞踏の大家とは以前、私の畏友である錬肉工房の岡本章氏の公演を見に行った際、しばらくお話させていただいたことがあり、それがもう25年くらい前で、私が20代なかばの頃だった。
当時は将来何をやるとも決めておらず、灰色の霧の中にいた私にとって、すでに大家としてその世界では著名な大野先生は私とはまるで別の時間の流れにいらした感じしかしなかったが、四半世紀経って年齢の開きは同じでありながら、何故か人生の晩年という同じ時の枠のなかにいる気がするのは不思議といえば不思議だが、それを不思議と感じないということがもっと不可思議な気もする。
そしてこれを書きながら、目の前にある、二馬力の篠原征子女史から2日前にいただいた暑中見舞の絵葉書(二馬力のアトリエの全景の写真)をみつめ、この家の主である宮崎駿監督はこの後どのような人生の足跡を残されるのだろうと思うと、何ともいえぬ感情が胸のなかにたなびき、しばらく呆然とした時を過した。
以上1日分/掲載日 平成12年7月29日(土)