2000年5月4日(木)
昨日3日の夜は、2日の深夜上京して拙宅に泊られ、あちこち諸般の用件をこなしながら大活躍中の名越康文氏と、我々共通の畏友二氏を加え、昨年の夏に引越された加藤晴之氏の新居に初めてうかがう。
その後ますます研究の進まれているスピーカーの音を聴かせていただき、その上、深夜2時頃からなんと蕎麦を打っていただく。加藤氏の蕎麦打を拝見するのは6年ぶりぐらいだろうか。
昨年の暮頃、「久しぶりに蕎麦を打とうかと思いますので、もし予定が決ったらお知らせします」とお電話いただいて楽しみにしていたのだが、昨年は最近の環境破壊の影響で年々蕎麦の質が落ちている上に、さらに天候の関係で蕎麦の質があまりに劣悪だったとのことで、蕎麦会は流れてしまっていた。
今回も「決していい粉じゃないんですが」と断られた上で打って下さった。蕎麦は何より原材料でほとんど決るという。
したがって出来上りはたしかに私が何度か口にしたかつての゛究極の゛とまでいわれた加藤氏の蕎麦にくらべれば数段落ちてはいたが、現在一般の蕎麦屋ではまず味わえぬレベルのものであった。
関西人にしては珍しく蕎麦が大好物の名越氏は大喜びだったし、一時期゛翁゛とか゛納札亭゛といったその道では知らぬもののいない店に何度も通ったという同行のG氏も、現在の蕎麦の置かれている困難さを知っておられるからであろう、「流石だ」という表情で頷かれていた。
お心のこもったおもてなしにあらためて心から御礼を申し上げたい。
思い返せば加藤晴之氏とのお付き合いは今年2000年の7月28日で満10年となる。
10年前のこの日、私はある方の事務所の移転祝いのパーティーで、ここに出張蕎麦打に来られていた加藤氏と知り合ったのである。初対面の時は、その薄いウグイス色の蕎麦の味と香りに本当に驚嘆したが、それに劣らぬほど驚いたのは人としての加藤氏の感じのよさである。
私は、いままで数多くの素敵な方々に出会う幸運に恵まれてきたが、初対面の時その感じのよさにホトホト感じ入った人というのは2人しかいない。この加藤晴之氏と、気功の指導者としてその世界では知られている中健次郎氏である。
中氏はその後、中国やインドをずっとまわられているので数えるほどしかお会いしていないが、加藤氏とはずっと親しくさせていただき、その間いくつもの良縁をつないでいただいた。
スポーツ・トレーナーの白石宏氏もそうだし(この白石氏からの縁もさまざまに拡がった)、スタジオジブリの宮崎駿監督も加藤氏に紹介していただいた。また今年の3月末に行ったアライ・フォーラムも加藤氏からの縁が少なからず働いていたように思う。
あらためて御縁があったことに心から感謝したい。
昨夜お会いした加藤氏からは、いままでにない強さと鋭さを感じた。今後、いままで以上にユニークな生き方を実践し、多くの人々を励ます存在になっていただきたいと心から願ってやまない。
以上1日分/掲載日 平成12年5月6日(土)
2000年5月10日(水)
段々と凄まじい忙しさになってきた。特に今月は18日に大阪で精神科医の名越康文氏との公開対談(朝日カルチャーセンター)を皮切に関西・中国地方での稽古会、そして東京の朝日カルチャーセンターでの講座、仙台での稽古会が連日休みなく入っており、おまけに16日、17日も東京で対談と講座。
それ以外に書く方もいまいくつあるかよくわからないほどある。それに道場と部屋の大整理中。具体的に始めている本の企画が4冊分ほどと、すでに私1人で処理できる量を超えていることはわかっていたが、人を雇える余裕もないので、何人かの方々のボランティアでなんとかやりくりできる範囲でやるしかない(そういう状況をあらためて考えてみると、原稿の清書をして下さる榊女史、恵比寿稽古会の中島氏、このホームページの管理人のS氏といった方々にあらためて感謝の思いが湧いてくる)。
しかしこういう時でも、いやこういう時だからこそか、思いがけぬ方からFAXや御手紙をいただくと大層嬉しいものである。
一昨日は坂本龍一、宮崎駿の両氏から相次いでFAXが入った。
坂本氏は、私が少し前に出した手紙の御返事。「日本を出たり入ったりしていますが、近々お会いしましょう」というもの。
宮崎監督からは、5月の末に開かれる「建物に良い音をしみ込ませる」会という二馬力でのミニ・コンサートへのお誘い。それも印刷された形の御案内ではなく直筆で、先日私がアトリエに伺った時のことにも触れられた手紙形式。感激してしまった。
ここ最近は少し回復していたもののずっと気分は落ち込んでいたから、感激してみて、そういえばこんなに気分が高揚したのはいったいいつ以来だろうと思った。
やはり宮崎駿という人物は将としての器のある輝きを持った人だとあらためて思った。映画『もののけ姫』という作品を通して、私にかつてない絶望感を与えた人物に深い思い入れを持つというのもちょっと考えると妙な話のようだが、その人に深く共感するところがあるからこそ、その人のどうにもならない思いを吐き出した映画にかつてない衝撃を受けたのだろう。
とにかく、このミニ・コンサートへのお誘いには感激した。幸い日程的にも空いていたので、すぐ出席させていただく旨、FAXを入れた。
FAXを入れながら「人間、何が幸いするかわからないなあ」と思った。というのは当初、仙台での稽古会は関西地区での講座や稽古会とくっつけると疲れるので、1週空けた5月の月末からにしようと思っていたからである。それが私の勘違いで、関西から帰ってすぐの23日、24日の日程となっていたのを了解してしまい、しばらく経ってから「しまった!」と思ったのだが、決定後変更すると迷惑がかかるのでそのままにしておいたのである。もし当初の予定通りだったらコンサートは断念せざるを得ず、残念無念な思いをするところだった。
楽しみなことがあると、それまでの日々を丁寧に過そうという気になる。毎日が早送りのように過ぎていくだけに有難いことだ。
そして今日は、私が稽古会を始めた頃からの知り合いのM女史からユーモアあふれた御葉書をいただいて心が和んだ。M女史とは、毎年暮れにM女史が書いた絵が使われているカレンダーを送っていただいていることでつながっているが(このカレンダーは私の予定を書き入れるのにたいへん好都合で、10年ほどずっと愛用している)、そのおおらかな人柄は絵にもよく現れている。きっと多くの人達にやすらぎを与えていることだろう。
さて忙しいなか、つい時間を盗むようにしてこの原稿を書いてしまったが、また忙しい日常に戻らなくてはならない。当面は18日からの関西、東北の旅の荷物の下準備をしながら道場の片付け、そしてどうしてもやらなければならない原稿書き、技の整理。それに今日は同志会のY君が稽古に来る。
これだけ忙しいと、やらなければならないことは思いつく順にしておかないとパニックになってしまう。そのため出版社の方々には「急ぎの原稿は遠慮なく催促して下さい」と最近よく言っている。出版社の方以外でも私に何事かを依頼された方は、誠に申し訳ないが、しばしば催促して下さるよう、この場を借りてお願いしておきたい。
以上1日分/掲載日 平成12年5月12日(金)
2000年5月16日(火)
この間、『交遊録』に、毎日を丁寧に送りたい、と書いたが、次々に入る予定で早送り人生はますます加速するばかり。
しかし、その忙しさのなかで印象に残ることはいろいろとある。11日は青土社刊の『現代思想』で6月から連載開始予定の前田英樹立大教授との往復書簡の3回目、つまり前田氏の2回目の原稿が届く。
一読して前田氏の見識とセンスにあらためて深く感じ入った。日本の武の思想を具体的に論じてここまで語れる人は滅多にいないだろうとは思っていたが、「見事!」という他はない。
このレベルで書かれると、これに返す文章が大変。いまさら背伸びをしても始まらないが、せめて三分ぐらいの(五分五分はどうみても無理そうなので)ところまでは向き合える文章を書かねばと気持を引き締めた。
またこの日はずいぶん御無沙汰をしている奈良の松田育三先生から講演集が届く。
松田先生はいちおうは現代医学の医師の資格で御仕事をされているが、この方ほど医師であって現代医学から遠い立場に立たれている方を、私は他に知らない。癌患者に対しても医薬を用いず、ただ心の持ち方を指導するだけで済ましてしまわれる。
講演録のなかで最も印象深かったのは、ある肺癌の老人(男性)に心の持ち方を話された結果、その人は一度再診で来られた後ずっとみえず、かなり経ってから長い長い手紙が来たそうである。それによると、もう自分は癌が治るとか治らないとか一切気にならなくなった。自分が癌になったお陰で、いままで何もしなかった息子が自分の仕事を手伝い、後も継いでくれそうだし、それまでバラバラだった家族が結束した。癌になったお陰で自分はいま大変幸せである。癌になったことに感謝している……というような内容だったという。
これは姑息なプラス思考とは質的に違った自然なプラス思考であり、゛悟った゛という表現も使える見事な気づきだと思う。
松田先生のような存在は極少極微だろうが、クローンや遺伝子治療に多くの医療関係者が目を奪われている現在、人としての在りよう、医師としての在りようを根本から考え直させられる方として、じつに貴重な存在である。
13日は予定をなんとかやりくりして午前中、朝日カルチャーセンターへ。別に何かを講座で話すわけではなく、私が話を伺わせていただくためにである。
私が話を聴かせていただく講座の講師は東京国立博物館の刀剣の専門家である小笠原信夫先生。私が朝日カルチャーセンターの講師をやっているお陰で関連講座の講師という特典で聴講させていただいた。古い時代の太刀の拵えの話など、初めて知った珍しい事実もあった。
15日は朝日新聞大阪本社の論説委員、石井晃氏がカメラマンの近藤悦朗氏と来館。朝日新聞日曜版の『名画日本史』に宮本武蔵の「枯木鳴鵙図」を取り上げるとのことで、そのことに関連して私に話を聞きに来られた。針谷夕雲や松林左馬助ならともかく、武蔵に関してはたいして詳しくない私の話がどの程度参考になったか疑問だが、いろいろお世話になっている石井氏の御役にたてば幸いに思い、私なりの立場から当時の諸流の情況など話をさせていただいた。何やら私の写真も載ることになりそうだが、この特集の雰囲気を損なわぬように祈るのみ。
石井氏を送って道場に戻ってほどなく、石井氏を私に紹介して下さった関西大学の植島啓司先生から御電話をいただく。19日に関大へ来て欲しいというお招き。この日はちょっと体を休めていようかと思っていたが、植島先生のお招きとあらば、もったいなくてとてもお断りなど出来ない。伺う旨申し上げる。
これで26日まですべての日の予定が埋まってしまった。どれも私にとって会いたい方に会ったり話したりするのだから嫌だとは思わぬが、50歳を過ぎてさすがに「体がもつかなあ」と思う。
関西・東北と、とにかく間を空けずに稽古や講座が続くので、稽古着や着るもののローテーションが面倒。どこに何を送るか頭を悩ませ、昨夜は深夜まで荷物作りと諸用をたす。
ところが午前3時頃から始めた打剣の稽古でいままでにない気づきを得、超多忙のなか小1時間稽古に使ってしまう。
それで7時過ぎに起きて、午前中に出す荷物作りの仕上げをして、午後からは合気ニュースの対談のため、杉並の名和弓雄先生宅へ、木村郁子編集員と新宿で待ち合せて出向く。御縁をいただいて30年だが、私がまだ伺ったことのない興味深いお話をいくつも伺えた上、私の手裏剣術の恩師・前田勇先生から名和先生に贈られたという自然木の杖までいただく。
午後7時頃、名和先生の御宅を木村さんと辞した頃は寝不足と過労のせいか頭痛が起きはじめる。それでも対談が5時間近くに及んだので、どの部分をテープ起しするかについて木村さんと新宿の喫茶店で30分ほど相談して帰途につく。最寄りの駅を降りるとさすがにもう歩く気力がなくタクシーで帰宅。
ところが帰ってみるとT書店のN氏から、先日企画会議にかけてみる、とのお話だった養老孟司先生と岩渕輝氏と譲原晶子女史と私との単行本の企画が通ったとのFAXが入っており、その上、神戸大学のあの郡司幸夫教授から、養老先生と私との共著書「自分の頭と身体で考える」(PHP研究所)がたいへん面白かったという感想の御手紙と、是非セッティングするので神戸大学に来て欲しいとの御依頼の御手紙が速達で届いていた。感激のあまり、郡司氏の御手紙を読んでいるうち頭痛の6割は軽減された。その後風呂に入り、食事をし、いまこれを書いている。
明日はまた荷物作りと「アマゾンを語る集い」で話をすることを依頼されているので、昼近くに出なければならないから、もう寝た方がいいのだが、とにかくこの『交遊録』を書くことで少なからず今の自分の状況が整理できるので、相当の犠牲をはらっても書くことにしている。それに『交遊録』に書いておくと畏友諸氏からアドバイスをいただけるというメリットもある。
今後忙しさはさらに増す気配だが、生き続けているのが本当に辛くなる、あの『もののけ姫』以来の落ち込みにからめとられるよりはよほどマシなので、息の続く限りはこの忙しさのなかにいようかと思う。
もっとも、広葉樹林ときれいな水への憧れは一層強くなっているから、突然そっちの方へ生活のモードを切り換えるようなこともあるかもしれない。まあ、それもこれも野口裕之先生に倣い、なりゆきを愛して歩いて(時には走らねばならないだろうが)ゆくことにしよう。
以上1日分/掲載日 平成12年5月17日(水)
2000年5月18日(木)
最近の忙しさは凄まじいというより、あまりのことにマンガの様だ。以前から昼間の電話はゴムバンドで電話の子機を頭に挟んで、通話しながら単純作業をしていたが、昨日などは出かける時間が迫っていたので着替えながら、その上、昼食というほどではないが、先方が喋っている間に一口二口頬張るという非常事態。
以前、トレーラーの名運転手をされていた岸和田の一森秀夫氏が、寝不足の時は赤信号で寝て、緑で目を覚ますという話をされていたがそれを思い出してしまった。
さて、その忙しさのなか、今日は大阪朝日カルチャーセンターでの゛対話ミュージアム 名越康文vs甲野善紀゛に出かける。
最近の少年犯罪の多発で報道機関からコメントを求められ、それに対し(コメントを求めに来た記者のセンスの良さにも打たれたからであろうが)何時間も情熱的に喋ったことがキッカケか、風邪でもないのに40度近い熱を出してフラフラ状態の名越康文氏と、夕方6時半からトークショーに臨む。
控室には朝日新聞大阪本社の論説委員・石井晃氏、関西大学の植島啓司先生、田村スポーツビジョン研究所の田村知則所長などがみえられた他、作家の多田容子女史、写真家の奥村やよい女史、切り絵作家の三木静三郎氏とは廊下で挨拶。
会場に入れば松田メディカルの松田育三先生、その他、私の講座や稽古会で顔見知りの方がチラホラみえたが、もちろんほとんどが初めての方ばかり。担当の宮永女史によれば、招待を含め140人という、朝日カルチャーセンターの講座としては滅多にない人数の方々が集まられているとのこと。
熱でフラフラとはいえ、始まれば名越氏の舌はじつに滑らか。名越氏とは初めての公開対談だが、さすがに7年来の盟友。私にとって最も話の通る畏友だけに(もっとも、それは名越氏の精神科医としての天才的資質によるのかもしれない。おそらく、というよりきっと、「ああ、私の人生でこんなにも私の思いをわかってくれた人はいない」と名越氏のことを思った人は、私以外にも少な目に見積っても50人を下らないだろう)私がいままで行なったこの種の対談のなかでは段違いにやりやすかった。
私の畏友G氏がかねてから名越氏のことを「全身臨床家」「相槌の達人」と評していたが、あらためてその才能の見事さには、時に立ち眩みするほどだった。
話のなかで、私がいわゆる゛基本゛ということに疑問を抱いていることに対して、名越氏も心理学やカウンセリングを学問的にキッチリやって、その知識を覚えた人ほど実戦での(現場での)カウンセリングでは役に立たないことが多いと話されるなど、その噛み合い方の良さは、事前には殆ど打ち合せらしい打ち合せもしなかったが、私にとって快感以外の何ものでもなかった。
私も乗せられて、私のスタッフとして来てもらった野口、守、高橋の諸氏をはじめ、受講者の方々20名ほどを相手に実技と解説を行なった。
講座終了後の打ち上げでは25名ほどの方々と楽しいひとときを過した。
以上1日分/掲載日 平成12年5月23日(火)
2000年5月19日(金)
今日は関西大学での講義。午前9時半に朝日新聞大阪本社論説委員の石井晃氏がホテルに迎えに来て下さったが、なにしろ昨夜は朝日新聞日曜版の『名画日本史』の宮本武蔵「枯木鳴鵙図」の原稿に赤を入れていて、結局2時間半ほどしか寝ていなかったため、しばらくお待たせしてしまった。私に関するところの記述が過大にならないよう訂正したが、どの程度になるのか不安は残る。なにしろ四六判の本ほどのスペースに、抜刀している私の写真が載ることは変えようがないらしいので、また全国指名手配状態となることを覚悟しなければならないようだ(幸い技の写真で顔はあまりみえないから少しホッとした)。
関西大学では植島先生の御依頼で講義。前回'98年の秋は150人程度の受講者だったが、今回はあとで聞けば800人とのこと。後の壁が前回にくらべはるかに遠いとは思ったし、立見の学生諸氏も数十人はいたようにみえたが、まさか800人とは思わなかった。これをみても植島先生の人気のほどがうかがえる。
聞くところによれば選択で植島先生の講義をとる学生数が、他の講義とは段違いに多いらしく(2桁以上)、その状況には植島先生も困っておられるらしい。
受講者があまりに多かったため、私も講義に前回ほど集中できなかったが、いちおう講義を終ってから私の技を実体験したいという希望者が文字通り列を成して並び、強い関心を持っている学生諸氏も数多く出席していたことをあらためて感じた。
私の技(主に切込入身や鎌柄)を体験して「不思議ー!」とか「ヘーン」「なにこれーっ!」とか言いながらはしゃいでいる女子大生を見ていて、ふと今から30年近く前、私の合気道の恩師にあたる山口清吾先生が我々に、「指導者は初心者に対して、まず『不思議だ』と思わせることが出来ることだ」と語られていたのを思い出し、何か感慨深かった。
それにしても体験希望者の数は、私が稽古会を始めてから20年以上経つなかで間違いなく一番多かった。なにしろ列が短くなったのを見て再度並び直した再体験希望者も出る状況だったからとても数は覚えていないが70人ぐらいの相手をしたような気がする。
講義の後、植島先生、石井氏、そして前日の朝日カルチャーセンターで我々が世話になった宮永雅子女史の4人で昼食をとる。
昼食の後、視覚情報センターへ。石井氏が眼の検査を受けられている間に、私は植島先生の御自宅にお邪魔した。
その後、宮永女史の案内で美容室「タクシー」へ。
そもそもここに来るキッカケは5月の初め上京し拙宅に泊られた名越氏のヘアスタイルが以前よりもずっと短くなっているのに、じつに絵になっていてそのことを口にしたところ、名越氏は自身の髪のカットを頼んだ美容師の上田哲広氏の腕がいかに見事かを滔々と喋りはじめ、「そうだ、今度先生が大阪に来はる時に行かれたらいかがですが」ということに話がなり、その場でクリニックのスタッフに電話して、私の予約を入れてしまったのである。
私はここ何年も髪は伸びたな、と思うと妻に適当に切ってもらっているのだが、ちょうどその場に居合わせた妻も、私が美容院に行くことを面白がってすすめてくれたので、私も生まれて初めて美容室に行くことにしたのである。
「タクシー」は心斎橋の繁華街のなかにある。初対面の上田氏の印象は「あっ、この人は職人だな」という感じ。一芸に秀でた人に共通する何かがある。ハサミと櫛を使う手捌きがじつに見事で、櫛を持ち換える時しばしばその櫛が消える。
顔剃り等も一切行なわずカットのみを依頼したが、終って鏡の中の自分の顔が何だか生まれて初めて「あれっ、こんな人が自分のすぐそばにいたのか」と思った。
似顔絵描きの名手はじつに僅かな線でその人の特徴を出すが、髪のカットも僅かなカットの違いが大きく印象を変えるのだろう。その不思議さを身をもって知った。久しぶりに刈り上げた髪は触ると芝生のようで指に心地よかった。
髪をカットした後は名越クリニックに直行。名越氏のカウンセリングが終るまでしばらく待ち、一緒にクリニックを出た。
それにしても名越氏の仕事の大変さは見ていても溜息が出る。診療が終った直後、クライアントの1人から電話。内容は「私これから死にます」というようなことらしい。20分ほど名越氏が電話で話している。まだ熱でフラフラだというのにこの日も25人くらいのクライアントの話を聞いたそうだ。
名越氏の場合、自分の体の感覚に引き込んで話を聞くから、聞いてもらう側にとっては、より思いが深くなるのだろうが、聞く側の疲労は一層激しいだろう。
しかもこの日はこの後、最近の少年犯罪に関して名越氏のコメントを聞きによく来ているというある新聞社の記者I女史とも会う。普通なら熱でフラフラしながら25人もの人達のしんどい話を聞いたのなら「もう、すぐ帰って寝る」ということになるのだろうが、そこが名越氏が他の医師と違うところだろう。そしてそれは責任感などという単純なものではない。自らが背負っている業ともいえる人間の謎に対する切り込みであり、質問の発し手であるI女史のセンスのよさに触発されるからであろう。映画『羊たちの沈黙』、小説『ハンニバル』(トマス・ハリス/新潮文庫)等を例に話は延々2時間以上に及んだ。
以上1日分/掲載日 平成12年5月25日(木)
2000年5月20日(土)
今日は午後1時近くに名越氏宅を出て岡山へ。午前中は名越氏宅で原稿を書いたり電話をしたりしていたが、時間の経つ早さにあらためて驚く。
岡山駅では小森君美先生の出迎えを受ける。会場の中学校の武道場へ向う途中、陸上競技場に寄って少し小森先生の解説をうかがい、その後、喫茶店で少し話をし、稽古会場へ行く。技の解説のため四国の守氏にも来てもらう。
岡山の稽古会は中学校の先生で陸上競技の指導者としては岡山では知る人ぞ知る存在である小森君美先生の縁で集まってくる人達だけに分野も年齢も一番多彩。一人一人詳しく紹介を受けたわけではないのでよくわからないが、陸上競技、アメリカンフットボール、柔道、剣道、レスリング、空手、等々の分野にわたり、中学生と高校生も十数人いたように思う。
この日稽古会で印象に残ったのは、柔道の専門家で体重100s以上、握力140sで林檎を握ると潰れて果汁が滴り落ちるというT先生とガッチリ胸を合せ、互いに十分まわしを取り合った状態で押し合ったことである。これほど体格も力も違う人と真正面から押し合うなど常識外のことだが、実際に吸気で身体を使うとどの程度のことが出来るのか是非知りたいと思ったので、敢えて挑戦してみた。
それに国体にも出場されるレスリング選手で現在整骨院を開かれているT先生とスパーリングをしたことも面白かった。このことは詳しくは『技と術理〜』の方で書くが、吸気に気づく以前ではまずどうみても無理だったことが出来るようになっていた。
あと、中高生も多かったのでけっこう遊んだ。たとえば積み重ねた柔道畳何枚までその場から飛び上れるかを競って、私は20枚(約130p)までいったが、高校生の陸上部員で22枚まで出来たK君がいて、彼には負けた。もっとも私が彼ぐらいの年頃は25枚はいけたように思う。何年ぶりかでこんな高跳びに興じ楽しかった。
そんなこんなで最後まで残った10人くらいの人達との稽古を終えたのが午前0時。しかし今回岡山に来て最も印象深い思い出となったことがこの後から始まったのである。
稽古後3台の車と私を入れて5人は岡山市内の某ホテルへ。小森先生と、小森先生の御仲間の先生2人は特大のバッグや箱を抱えられていたから「ああ、これは何か始まるな」と思ってはいたが、いざ私が泊ることになっていたホテルの和室に上がって、それらの荷を開けられると出てくるわ出てくるわ。炊飯器、鍋、天ぷら鍋、キャンプ用ガスコンロ、油、小麦粉、卵、水、味噌、大小様々な皿、天つゆ、醤油、酢みそ、そして食材のコシアブラ、ノビル、コゴミ、セリ、自然薯などの山菜各種、豆腐、シジミ、茹でたシャコ、タケノコの木の芽和え、等々。それもはんぱな量ではない。聞けば山菜とシジミは小森先生が御自身で採って来られたものという。
3人の方々がそれぞれ手分けして味噌汁を作ったり、風呂場で天ぷらを揚げたり。もちろんシェフは小森先生。私ともう一人の客にあたる松本正大選手(昨年の北海道マラソンの優勝者)は半ば呆気にとられているばかり。しかし採れたて揚げたての山菜はおいしかった。これこそ真に御馳走であると実感。しかし食べ終った時は午前3時をまわっていたと思う。その上また少し技の研究などもやったから、解散したのは午前4時近く。
それにしても小森先生の研究熱心さにはまったく頭が下がる。陸上競技への私の術理の応用は、いまや私より小森先生の方が遥かに進んでいるようだ。この傾向は今後ますます大きくなるだろうから、スポーツ関係者の方で私の術理に関心を持たれた方は、小森先生の許へ行かれることをお勧めしたい。
これは、たとえていえば、私はスポーツへの応用に関しては、食材となる私の武術の動きを提供し、小森先生はシェフとしてその材料をもとにいろいろ調理される、ということだろうか。
人との出会いの妙をあらためて感じた。
以上1日分/掲載日 平成12年5月26日(金)
2000年5月26日(金)
18日に家を出て以来20日まで毎日『交遊録』を書き続けてきたが、気づけばもう26日で、いま東北新幹線の車中でこれを書いている。
つまり21日からは忙しさと疲れで『交遊録』はもちろん、その他2、3書く予定だった急ぎの原稿や校正すら1行も進んでいない。
振り返ってみると、21日は夜が明けてから岡山で2時間半ほど寝て、大阪の稽古会へ。
着いてみればこの大阪もいままでにないほどの強豪揃い。ゴツい人、粘っこい人などが10人くらいは一般参加者に交じっていた。以前なら「こりゃ、だめだ」と諦めたかもしれない場面もいくつかあったが、吸気による体の使い方に目覚めてからは、やりにくい相手と手を合わせると、以前よりずっと「ほおーっ、これはどういう風に対応しているのかな」という興味が湧いてくる。
それにこの日は多田女史のドキュメンタリー収録のためのNHKのTVカメラも入っていたので、つい4時間フルに動いた。そのため終って我に返ると、睡眠不足と連日の疲れで東京まで帰る元気がなくなったので名越氏宅へもう一泊。
翌22日は、この日休みをとっていた名越氏ともう一度、視覚情報センターへ。ここに2時頃までいて14時54分の゛のぞみ゛で帰京。そのまま新宿の朝日カルチャーセンターへ。朝日カルチャーセンターのある住友ビルは新宿駅から数百メートルだが、歩く元気がなくタクシーに乗る。
しかし講座で体を動かすと不思議に元気が出てきて、帰りは講座を手伝ってもらっている中島章夫氏、並木美治氏、それに古くからの会員でこの講座も受講しているI氏らと新宿まで歩き、途中喫茶店で11時近くまで話をする。
しかし少し元気になったと思って道草をくったために、家に戻ってみるとFAXやら手紙やら伝言やらが10件くらいも入っており、その対応をしているうちに午前4時をまわってしまった。
さて明けて23日。やることがたまっていて気になっていたせいか7時過ぎに目覚め、出かけるまでの2時間ほどの間に再びFAXを入れたり電話をかけたりして10時過ぎ慌ただしく仙台へ出発する。
仙台の稽古会も、容易に崩れないことで周囲の人達の間では有名というS氏が初めて稽古会に参加。私にとっても勉強になった。
翌24日は正午まで稽古。その後待ちに待った東北の山中、佐藤氏宅へ、榊女史の車に送られてゆく。
途中、野性のフジが咲き乱れるなか、標高が上がるにつれて新緑の様子も変ってくる。4時半頃着いた佐藤家の周囲は、ミズナラはもう緑色の葉が大きく開いているのに、コナラがまだ銀色の萌が少し伸びた程度。それだけに山は濃い緑、黄緑、肌色がかった緑、銀色と、木々の精気でむせかえるよう。もう、陶然としてしまった。
この日は早く寝て、翌25日は朝から佐藤光夫氏、円さん、遍ちゃんの佐藤ファミリーと山菜採りに出る。
沢伝いに上り、主にアイコ(ミヤマイラクサ)とシドケ(モミジガサ)を採る。佐藤家に戻ってから、佐藤家の裏山でクロモジの小株を掘り採り、山菜とともに二馬力へ送る。
そしてこの日は午後、体調を崩してきた円さんにつきあって、円さん行きつけの山形市内のS整骨院へ行く。上手の評判をとっているS先生に私も診ていただく。
夕方、佐藤家の近くを散歩。毎日のように頭の中に浮かんでくる景色をナマで観られる気分は格別。暗くなりかかるまで、木々のなかで山の気を味わい続けた。
明けて26日、佐藤家での2泊3日も夢のように過ぎ、出発時刻が迫るなか、再び樹林のなかを散歩。山の景色を脳裏に焼きつける。
11時前に佐藤家の3人と車で出発。途中、昨秋開店した評判の蕎麦店で昼食。4月のアライ・フォーラムの帰りに、斉木氏に名越氏ともども連れていっていただいた゛藤岡゛(蕎麦通の間ではつとに有名な店)の味を思い出したぐらいだから、たいしたものだと思う。以前、山形で食べた有名人の色紙に囲まれた店とはくらべものにならないレベル。山の中の街道沿いに、これほどの蕎麦を食べさせる店があるのが不思議なほど。ただ、7年ほど前の加藤氏の蕎麦にはさすがに及ばない。しかしこれも原料の蕎麦の質が全国的に落ちていることが主な理由であろう。ここの蕎麦は、この先も佐藤家を訪れる時の楽しみのひとつになりそう。
13時55分、東北新幹線の白石蔵王の駅で佐藤ファミリーに見送られて、この゛やまびこ゛の車中へ。
さて、これから御徒町の岡安鋼材に寄って支払いをして、そのまま都内の稽古会だ。ちょっとさすがに今日の稽古はキツそうだが、疲れと忙しさで絶望感からは脱していられるので、へばるまで動いていようと思う。
以上1日分/掲載日 平成12年5月28日(日)