2000年8月7日(月)
朝、岸和田の一森秀夫氏から電話。用件は、私が先日入手を依頼しておいた合金工具鋼のSKS43、44についての数量等の確認だった。SKS43は炭素鋼に小量バナジウムが添加された対衝撃用合金工具鋼で、鑿岩機のピストンに用いられるというものである。
これは私が信州の江崎義巳氏といろいろ手裏剣の鋼材について相談し研究した結果、その硬さと丈夫さからいってかなりの造りにくさはあるものの、非常に丈夫だがたいへん造りにくいマレージング鋼(超強力鋼YAG)以外では最も向いているとの結論に達したものである。
その後、SKS43より僅かに炭素量の低いSKS44も試み、ほとんど同じ性能を示したので、SKS43か44で今後も江崎氏に造ってもらおうと思っていた矢先、江崎氏が注文していた信州の鋼材店ではSKS43、44共に入手できなくなってしまったのである。
そこで上野の岡安鋼材に注文したが、ここでも見つからない。とにかく似たものでも、と手を尽してもらって、やっとSKS21が入手できたが、SKS21はバナジウムの他にクロム、ニッケル、タングステンが入っている。ニッケルは粘りが出ようが、タングステンが1%はちょっと気に入らない。それにニッケル、クロムが入っていると焼鈍しが難しく鑢がかかりにくいのではないか、とそれも気になる。
けれど、とにかくものは試しで、それをサンプル程度送ってもらうことにしたところだった。
そしてそこへ一森氏からの電話が入ったのである。ただ一森氏もSKSで鋼種指定で指定通りが見つかる可能性は薄いという。「SK鋼でいいんじゃないですか。600度で焼戻せば十分粘いですよ」とのこと。
まあ確かにSKS43、44以外でも手裏剣用の鋼材として黄紙三号もよく使い、これはSKの5番と同じようなものだから、一森氏の話もわかるが、硬度と丈夫さはやはりSKS43の方が一枚も二枚も上である。
「とにかくSKS43か44、あったらお願いしますよ。20kgぐらいまとめても買いますから」と頼んで電話を置いた。電話を置きながら、SK鋼を600度で焼戻しかける時は、徐冷だと焼戻し脆性が出るんじゃないかな、と思った。
ちょうど前日、江崎氏から「鑢のかけ方を3通り変えてみました。具合を知らせて下さい」との手紙と共に3本の剣が届いていたので、その剣を子細に見ながら、またいろいろと考えた。
3本ともその造形は見事に出来ていたが、なかでも1本はふるいつきたくなるほど見事。横手から剣先にかけての微妙なふくらみと、横手から剣尻にかけての裏反りの具合が絶妙。しばらく飽かずに眺めていた。
眺めながら、やっぱりビーズのサンドブラストかけようか。あるいは木酢等で一度錆つけしてみようか。材質が黄紙三号だからけっこううまく黒錆がついてくれるかもしれないな。そしてSKS21はどんなふうにあがるだろうか、などと思ったりした。
こういうことを考えている時は、現在の私にとってある種無上の時間。心を塞ぐことや悩みはいくつもあるが、ここまで自分が浸れる世界があることは間違いなく今の私にはひとつの救いだろう。
そういえば昨日、その剣と共に送られてきた江崎氏の手紙にも、6月に江崎氏が20m30p直打法で遠間を通してから、手裏剣術への思い入れが一段と深まり、1日1度は稽古するか、剣を造るか、それに関連したことをしていないと禁断症状が起りそうです、とあった。
何事においても上達するには、まずそのことへかける情熱が必要なのだろう。
私も最近ふと突然、走行中の車がエンストを起すように武術の稽古への情熱が切れてしまったことがあったが、そんな時でもこの手裏剣術に関してだけは思いが消えていなかったから立ち直りも早かった。
人間、趣味にしても何にしても、心から打ち込めるものを持つことは大事なことかもしれない。
そういえば以前、整体協会の野口裕之先生が「もう危いという病人でも、薔薇の花の香りを楽しめたり、何か自分が情熱を傾けて打ち込んでいるものを想い出し、その時の楽しさが蘇ってくれば助かる可能性が高いんですよ」と話して下さったことがあった。
このことを思い出しながらも、同時にふと頭の隅に、私が人間として生きていることの辛さをかつてないほど骨身にしみて自覚させられた映画『もののけ姫』を観た8月28日があと3週間でやってくるな、ということが浮んできた。
今年であれからちょうど満3年。あの時生まれた絶望感も3才児になり、確実に私の後半生に影響を与えていることを折にふれて感じている。
しかし、現に私自身がこの世に生まれこうして存在していることは事実なのだから、そのことの意味を知る(というより実感する)という課題がまだ私には残っているぞ、と、あらためて自分に言い聞かせている。
以上1日分/掲載日 平成12年8月11日(金)
2000年8月18日(金)
信州の江崎義巳氏に電話したところ、先日送ったSKS21は、SKS43とくらべて鍛造の具合、焼鈍し後の鑢のかかり具合、焼入れ、焼戻し後の粘りと硬度においてほとんど遜色がないとのこと。
あらためて気づいてみれば、SKS21は刃物用の鋼材の一種である青紙二号にバナジウムを加えたような組成なので、通常の鍛造作業では特に困難ということはないのだろう。
このところずっと重いことばかり考え続けていて体力も気力も落ちていたが、不思議なものでこのSKS21が使えそうだという話を聞いただけでフッと眼の前が少し明るくなった。
少しやる気が出てきたところで迎えた夕方からの恵比寿での稽古では何人もの人と手を交えているうち、かなり稽古に打ち込めるようになり、発見、気づきもいくつかあった。やはり体を通して何かを考えていられるというのは有難い。
8月に入ってからずっと私の心を捉えている重い課題(それがあまりにも重いため、ここしばらく『交遊録』を書いていないのだが)についても書かねばならないだろうと思い、いま書いている。これは、すでに察している方もあるだろうが『イシ・北米最後の野生インディアン』をキッカケに生まれてきたもの。
『もののけ姫』のショックからの3周年は、このまま、これを抱えて迎えることになりそう。
以上1日分/掲載日 平成12年8月21日(月)
2000年8月19日(土)
まだ暑い日があるとはいえ、日が落ちるとひと頃より温度が下がり、樹上では青松虫が鳴きはじめている。
そんな秋の気配を感じる今日この頃であるが、私の気持ちの方はすでに葉がほとんど落ちている晩秋。
そうなった理由の最も大きな原因は、『イシ・北米最後のインディアン』(岩波書店同時代ライブラリー)を読んだためだと思う。
この本の存在は、なんとなく10年以上も前から耳にしていたが、昨月姉に贈られて読みはじめて以来、ちょうど江戸時代の拷問の石抱きではないが、膝の上に乗る石の枚数が段々ふえてきたように、次第次第に利きはじめてきた。
カリフォルニア南部で石器時代の文化をそのまま引きついで生きてきたヤヒ族最後の生き残りであるイシが、その孤独で悲惨な生活に疲れはてたのか、1911年の8月29日、飢え死にしそうな姿で、畜殺場の柵囲いの中で犬に吠えつかれていたのがこの物語のはじめである。
「文明と進歩」の美名の許に行われていた理不尽な殺戮と迫害の数々によって、ヤヒ族はイシ以外全滅したのである。
本書の前半ではその過程と状況を描き、後半は突然20世紀の文明社会の中に中年以後(おそらく50歳すぎ)入ってきたこの石器時代人とカリフォルニア大学付属の博物館の関係者で、深くこの石器時代人を愛した人々との交流を通して、いかにこの人物イシ≠ェ純真な魂と人との対応における気づかい、思いやりを持っていたかを描いている。
イシが死去し、その遺体を解剖するという話が出た時、イシの最も親しい友人であり保護者の一人でもあった、この本の著者シオドーラ・クローバーの夫君アルフレッド・クローバー(カリフォルニア大学附属博物館館長)は、「科学研究のためとかいう話が出たら科学なんか犬にでも喰われろ、と、私の代わりに言ってやりなさい。われわれは自分らの友人の味方でありたいと思います」と、話したという。
また、親友の1人で医師のサクストン・ポープは、イシの死について次のような文を書いている。
そのようにして、我慢強く何も恐れずに、アメリカ最後の野生インディアンはこの世を去った。彼は歴史の一章を閉じる。彼は文明人を知恵の進んだ子供…頭はいいが賢くはない者と見ていた。われわれは多くのことを知ったが、その中の多くは偽りであった。イシは常に真実である自然を知っていた。彼の性格は永遠に続くものであった。親切で、勇気があり、自制心も強かった。そして彼はすべてを奪われたにも拘わらず、その心にはうらみはなかった。彼の魂は子供のそれであり、彼の精神は哲学者のそれであった。
ここに述べられているようにイシ(この名前も本人が部族の掟に従ってか、本名を名乗らなかったためクローバー館長が名付けたのである)は、文明社会が始まった以後の人間が、特別な修業によって磨いた人格よりももっとナチュラルな他の多くの民族の人々にとっても共感できる人としての数々の美質を備えていたようである。
その気づかいのやさしさと深さは、イシがある程度英語を話せるようになってからでも、別れに臨んで別れの言葉をハッキリと言うことには躊躇があり、去って行く人にはさりげなく「もう行くの?」と言い、逆に自分がその場を離れる時は「あなたは居なさい、ぼくは行く」という表現を好んだことにも現れている。
この本によって、私は人間が農耕を始めたということ自体にも何とも言い様のないうしろめたさを明確に感じるようになってしまった。
かって「農は国の基」などと言い開墾することに正義と使命感を感じていた時代の人がうらやましく、同時に愚かさと情けなさの伴ったじつに複雑な感情のカクテルで感じられる。
こういうことを考えるようになったのも時代が進み、人間の環境破壊や人心荒廃が本当に深刻な段階に入ったからだと思う。
もっとも私には幼かった頃から、自然環境の破壊に対する悲しみと怒りが芽生えていて、小学校の低学年の頃から宅地造成で木が伐られ山が削られてゆくことを嘆く作文を書いていた。
ただ、普通そういう思いは年齢を重ねるごとに薄らいで、現実生活への関心の方が強くなるというが、私の場合は精神年齢の退行現象が起きているのか、3年前、映画『もののけ姫』を観てかつてないショックを受けて以来、段々と人間が文明とか文化、科学の美名のもとに行なってきたさまざまな所行に対して根本的な疑惑が浮き出してきてしまい、そこに20代の初め溺れるようにして読んだ、人智の浅はかさを嗤い自然随順を説く『荘子』まで思い出してしまったから、今後私がどのような軌跡を残して生きてゆくのか、我がごとながら呆然とせざるを得ない。
ただ、7日の『交遊録』の最後にも書いたが、私が今になってどう考えようと、私という存在がいまこの世に生きて在ることは紛れもない事実なのだから、そこを徹底してみつめることしかないのかもしれない。
以上1日分/掲載日 平成12年8月22日(火)
2000年8月22日(火)
絶望している時は絶望の「迎酒」が利くらしい。
昨夜、久しぶりに大阪の精神科医 名越康文氏と電話で話し、今日はやはり久しぶりに、社団法人整体協会・身体教育研究所の野口裕之先生にお会いして、つくづくと冒頭の言葉が胸中に浮かび上がってきた。
名越氏については、このホームページとリンクしている『名越ディアローグ』の『日記のような人生』を読んでいただければわかると思うが、バリ島で精神的大激震に見舞れたようで、その直後の8月10日、バリ島から私に電話があったが、その後ずっと余震が続いていたらしく、昨日まで連絡がなかったのである。もっとも私の方もずっと絶望の底にいたから、あえてこちらからも電話をしなかった。
もちろん気にはかかっていたが、以前も何度か精神状態が不思議とリンクしていたから、なんとなく名越氏も辛い状況だろうとは思っていた。そして案の定、昨日の電話の様子では、「誰とも共有したいと思わないしかも太古の昔からずっとそこにあったような絶望感」に包まれ、感情の浮き沈みの中で、自らの精神を載せた小船をどうしようもなくさまよっていたらしい。しかし、考えてみればこれほど多くの事件が起き、価値観が混沌としてきているなかで、しかもそれらに最も翻弄されている人達の話を聞くという職業で、人間ならふりまわされない筈がない(自分の感覚を鈍らせ、形どおりの質問をして、ただ機械的に薬を出すだけの精神科医なら影響を受けることもないかもしれないが)。
詳しい話はまだ聞いてないが(もっともそれがうまく言葉になるかどうかもわからないが)、名越氏の40年近くの人生のなかで非常に大きな節目を迎えているようだ。
そして今日、整体協会で野口裕之先生と5ヶ月ぶりにお会いする。
いままで数十回お会いして、常にその思索の深さと感性の鋭さにタメ息をつかせ続けられてきたが、今回もホトホト感嘆。
これほどの天才になると、いったい十分に話の受けをとれる人はいるのだろうかとあらためて思った(今は関西大学の植島先生ぐらいしか思いつかない。名越氏もまた違ったジャンルで話が聞き出せようが、私には荷が重い)。
対座していて「私自身の抱えている絶望感など、この人にくらべたらホント可愛いいものだな」とあらためて思った。父君で整体協会の創始者・野口晴哉先生も不世出の天才と謳われたが、その才能のジャンルは違うかもしれないが、人間と人間の文化ということをみつめ考えてきたことにおいて、裕之先生の絶望感は父君を超えているように思った。もっともこれは゛時代゛ということもあると思う。先代の晴哉先生が亡くなってやがて四半世紀。あの頃はまだ人間の科学文明の進展に現代ほどの陰はなかったから。
今回はじめて私は裕之先生が音楽研究にしかも抽象的な即興に何故深く打ち込まれているのか、おぼろげながらわかった気がした。
裕之先生は作曲されたものを、ただ演奏するならクローンと同じだと思われているらしい。「生命を語れるのは即興しかない」そして「即興に秩序はなりたち得るのか」ということが裕之先生の追求されている大きなテーマのようだ。
さらに古典とは「過ぎ去った時代を心の底から惜しめるかどうかだ」とも語られ、「それは純粋な感覚の追求でもある」と付け加えられた。
その他にもとても書ききれないし、おぼえきれない感銘を受けた言葉の数々に、私などではとても聞き手がつとまらないので、是非関西大学の植島啓司先生と対談して活字にしていただけるようお願いしたが、言下に「冗談でしょう」と笑われた後で、「いやお話しするだけなら僕もお会いしたいので、今度また機会をみつけてお会いしましょう」と約束して下さった。
終りに「ああ、甲野さんと話してたらよけい絶望しちゃいましたよ」と苦笑されてしまったが、これはまあ多少は話が通じて自分の思いを再確認してそうなったということなのだろうとその時は思ったが、帰り道、ヒョッとしたら、話が深いところで通じず一層寂寥感をおぼえられたかもしれないと思い、恥しさに赤面しかけた。
しかし、同時に絶望感の理解の深浅でこのように感情が動くのだから、私の絶望などまだまだチャチなものだと奇妙な若さを感じ、その分気は楽になった。
しかし、ああいう人が各大学に1人くらいいたならば学問、そして教育というものの在り様もずいぶん変わるかもしれない。もっとも、あそこまで行ってしまうと、周囲からも殆ど理解されず存在しているのかいないのかもわからないということになるかもしれないから、これはなんともわからない。
とにかく、名越氏と野口先生のお陰で絶望を抱えつつ、さらにその絶望の正体について、見極めて行こうという意欲にエンジンがかかったことだけは確かなようで、とりあえず先へ進めそうである。
以上1日分/掲載日 平成12年8月24日(木)
2000年8月23日(水)
絶望を抱え、その正体を見届けようと思うと、またそれなりの忙しさが押し寄せてくる。
今日は桐朋高校の金田伸夫先生から電話があり、金田先生がバスケットボールの雑誌『スポーツ・イベント バスケットボール』(スポーツ・イベント社)8月号の取材を受けた記事の内容をFAXで送って下さった。何やら私の名前が点々と出てくるが、こと、この桐朋高校のバスケットボール部に関しては、謙遜でも何でもなく私は単にヒントを差し上げたに過ぎない。つまり、センスがよく志のある方は、ほんの僅かなヒントからも大きな成果を掴み出すという見本のような話なのである。
今日はまた、『STUDIO VOICE』10月号(9月上旬発売予定)の最終校正を電話でした。このインタビューはかなりの字数があり、私が最近思っていること、感じたことをかなり言わせてもらえた。
この場を借りてインタビュアーの上野圭一氏と編集者の深沢慶太氏に感謝の意を表したい。
そういえば今月31日の木曜日は、大阪の朝日カルチャーセンターで、精神科医の名越康文氏の対話ミュージアムの2回目が開かれる。今回の名越氏の御相手は、かの関西大学教授・植島啓司先生。私も行きたいのだが予定が詰まっていて行けない。
まだ席に多少余裕があるようなので御関心のある方は是非行かれることをお勧めしたい。
問合せは朝日カルチャーセンター・大阪まで(中之島・朝日新聞ビル内・рO6−6222−5222・要予約)。
以上1日分/掲載日 平成12年8月26日(土)
2000年8月26日(土)
千葉市の武道館で手裏剣術を一般に教えられているという八角流手裏剣術の創始者・半田以一師範からお電話をいただいたのは、たしか今月17日だったと思う。
お電話では、来年、香取神宮で全国の直打法の手裏剣術の伝承者、術者を集めた演武会を催したいので、その折お招きしたい、とのお話だった。
八角流と半田師範については武術誌でその御名前を最近知り、公立の武道館で手裏剣術を教えられているとは珍しい、と思っていたので、来年の演武会に出場する、しないはともかく、どういういきさつで武道館で手裏剣術を広く一般に教えておられるのか、そのことを是非うかがいたいし、八角流という手裏剣術も拝見したいと思ったので、出来れば近々一度御稽古を拝見させていただきたいとお願いしたところ、「是非どうぞ、こちらこそ拝見したい」とおっしゃていただき、お招きを受けた恰好になってしまった。
その後、具体的な日時の打合せをしたところ、多くの門弟の方々も来られるとのこと。他流の道場に伺って、単なる演武だけではなく、質問をいただいたら、具体的説明もすることになるだろうし…と躊躇する思いもあったが、八角流は新しく創流された手裏剣術で、ある特定の伝統を受け継いでいるわけではないとのこと。しかも是非拝見したいと重ねておっしゃっていただいたので、私も現在私の知り得る限りのことはお話し、技もお見せしようと心に区切りをつけて、今日伺ったのである。
到着してすぐ、まず何よりも半田先生に、なぜ市の武道館で手裏剣術を公開して教えることが出来るのかうかがいたいと思ったが、そのことはお会いしてご挨拶した時にすぐ明らかとなった。なんと半田先生は、この千葉市武道館の館長を務められていたのである。
着替えてすぐ稽古場である弓道場に伺う。すると多少は予想していたが、なんと40人ほどの八角流を稽古されている方々がズラリと座って私を待っていて下さったのである。
半田先生から御紹介いただき、促されるままに私の打剣法の概要をお話しし、用意されていた畳に剣を打った。手が汗で粘る夏、七間以上を打つのは去年までだったら夢物語だったが、まあ何とか通すことができた。
ただ、夜間の弓道場ということもあって照明が暗かったせいか、どうも間合いの読みがいまひとつしっくり来なかったが、それは私の未熟のせいであろう。
その後、刀による畳表を巻いたものの試斬も要望され、私も何年ぶりかに斬ってみたが、この方はまったく心にかなわなかった。ひとつには最近打剣で体のアソビをとって剣を打つことから、剣術の斬技においても、体のアソビをとる体の使い方を工夫中で袈裟斬りが大きく変わりはじめている時であるため、実際に物を斬るとなった時、身体がどっちつかずで迷ってしまったのだと思う。
その他は多少抜刀術や剣術、杖術なども行なったが、何より印象的だったのは手裏剣に関して、その打法における体の使い方はもちろん、私が用いている剣の鋼材の種類等の御質問まで受けたことである。どう考えてみても多くの人の前で手裏剣術を演武して、私自身今回ほど詳しい解説をしたことなど一度もなかった。
半田先生は何度も「いや、知らない人は刺ってあたり前だと思ってこの難しさなんてわからないんですけど、ここに来ている人達は、その難しさが十分わかっていますから」と口にされていたが、そうした共同理解の基盤があったために私も自然と熱が入ったのだろう。
半田以一先生をはじめ一門の方々に、この場を借りて御礼を申し上げたい。
以上1日分/掲載日 平成12年8月29日(火)