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2000年2月1日(火)

急いで書かねばならない原稿やら手紙が山積している状況だが、それらを全部止めて今日は終日、樹木の枝降し。
昨日、自宅南側の境界面に生えている一抱えある樹齢百年ほどと思われる白樫の木2本に、やはり一抱えある小ナラの木1本が隣家の新築に伴い伐採されるという話を突然耳にし、相手方と地主双方に頼み込み、なんとか根本からの伐採は免れたが大掛かりな枝降しをしなければならない羽目になった。

地上10メートルの枝の上での仕事は緊張の連続。
こうした仕事は好きだし得意でもあったのだが、今回は私にとって思い出深い木の不本意な枝降し作業で、しかも何年ぶりかの仕事であったため気が乗らなかったこともあったのであろう、危機的状況に何度か見舞われ、ついに枝を伐ったはずみに撥ねた枝に左手親指を強打され、一瞬息が止まるほどの思いをした。
痛いことも痛かったが、これで当分不自由な思いをすることになるだろうと思うと一層気持が沈んだ。
それでもやめるわけにはいかないので、日暮れまでに大小数十本の枝を降す。この間、枝に藤蔓がからみついていたりしたため、枝を切り離しても枝の上の方が支点になって思わぬ方向に枝が動き胆を冷したことが一再ならずあった。

まあ稽古になったといえばなったが、日が暮れて木から降り、地上に堆く横たわっている枝を見るのは切なかった。
普通、このような肉体労働を終えると「ヤレヤレ、はかどった」とある種の達成感があるものだが、今回は、はかがゆかなければゆかないで焦り、はかがゆけば大事に思ってきた木の変り果てた姿が進むというありさまで、体を張って仕事してこんなにやるせない思いをしたことはいままでになかった。

こんな思いをしていると、つくづく都会を離れて山中で暮したいと思う。
そう思いつつ、山中で自分の心の痛まない場所の木を伐るのは気持がいいというのは人間の勝手な理屈だなあ、と思ったが、木を伐ることで森林相が豊かになる場合もあるのだから、それはそれで筋が通っているんじゃないか、と自問自答しながら、とにかく日没まで働いた。

仕事を上がって左手親指の手当てをしたが、相当ひどく枝が当たったらしく、今この文章を書いていても左手親指の先は倍ほどに腫れ上がって脈動しつつ鈍痛を発し続けている。
しかし外せない予定がつまっている。
2日は枝降しの続き、そして合気ニュースへの原稿渡し。
3日は、今月20日の公開対談の件で心道会の宇城先生に約13ヶ月ぶりにお会いする予定。おそらくまた驚くような技をみせていただけるだろう。ただ、左手がこのありさまでは十分体験できそうもなく、それが残念。
そして4日は、3月にある国際武道文化セミナーの打合せで日本武道館へ。そこで実演もしなければならないようだ。その後、夕方から都内で稽古会……。
来週8日は、長男が通う中学校での特別授業(今日、依頼を受けた)。
11日は神奈川リハビリテーション病院で話と実演。
12日は大阪でアメリカンフットボールのチームに動きの解説。
そういえば昨日1月31日の朝日新聞夕刊には、毎週月曜日掲載の『私が愛した名探偵』欄に、私が依頼されて書いた土方歳三(司馬遼太郎著「新選組血風録」)が出ていた。

……まったく、考え出すときりがない。今はとりあえず明日の枝降しでこれ以上怪我が増えないことを祈るのみである。

以上1日分/掲載日 平成12年2月2日(水)


2000年2月8日(火)

「2月は逃げる」とよく言われる。ひとつは日数が他の月より2、3日少ないせいだろうが、正月の次の月ということや、いろいろと節目のある3月4月を目前にして気持が急いているためもあるのだろう。
しかし、それにしても今年の2月の日の経ちようの早さは異常。2月に入ったと思ってから、瞬く間に4分の1が過ぎてしまった。

1日、2日、そして5日と木の枝降し。何度か胆を冷やす危険があったが、左手親指の強打と左スネ、左膝の打撲、それに左腿の擦過でなんとか大怪我は免れた。

3日は、今月20日に池袋コミュニティ・カレッジで行う予定の宇城先生との対談の打合せで、宇城先生が在京中に泊まられているマンションへ。
合気ニュースの木村さんから噂には聞いていたが、本当に人の住む気配がないほど物がない。あったのはベッド、テレビ、目覚まし時計、それに私が贈った袋竹刀。それ以外は湯呑茶碗も座布団もない。よくよく見れば御愛嬌のカニサボテンの小さな鉢とテレビの上に本が1冊。おそらくクローゼットの中には若干の着替えは入っているのだろうが、ここまで何もないと痛快。お陰で実技を体験させていただくにはもってこいだった。
そこで約3時間、対談の打合せも行なうには行なったが、6割以上は技を見せていただいた。
もうそれは見事の一言。
あの技の妙には空手の人達も勿論ショックを受けるのだろうが、合気道、柔道などの人はもっとショックかもしれない。なにしろ自由に突き蹴りして来る相手を、瞬時に巻き込んで崩し、投げて抑え込まれる。いなそうが頑張ろうが専守防衛で逃げまわろうが、猫が鼠をいたぶるようなありさまである。
本業の突き蹴りは保険でとっておき、まずは投げて抑えるという形。しかしその動きは誠に理に適い、居付かず捻れず、うねらずタメがない。技を受けていて、そのあまりに、私の術理からみても納得できる動きに、嬉しくなって大笑いしてしまった。
ひととおり技を見せていただいてから夕食を御馳走になり、行きつけのお店2軒をハシゴ。宇城先生も上機嫌でたいへん楽しい時を過させていただいたため、時間がたいへん短く感じたようだ。終電を乗り過ごし、結局深夜の高速バスで帰宅した。

今月20日の宇城先生との対談に関しては、受講希望者が非常に多いと予想されたため、口コミ以外は『合気ニュース』に小さく発表したのみで、このホームページでも公表しなかった。それでもやはりこの日(2月3日)、受講希望者は180名に達したので募集を締切った。いま、このホームページを読まれてたいへんに残念な思いをされている方もいらっしゃるかと思うが、御容赦いただきたい。

4日は日本武道館で、3月11日に行われる゛国際武道文化セミナー゛の打合せ。その後、岡安鋼材をまわって恵比寿の稽古へ。この日は、前の晩が5時まで起きていて3時間ほどしか寝ていなかったから久しぶりに倒れ込むほど疲れた。

5日は枝降しの続きと、今月28日に毎日新聞社で行なう予定の狂言師・野村萬斎氏との対談に関する資料を持って来られたY氏と少し稽古もする。

6日は私の満51歳の誕生日。夕方(というには遅くまで)稽古をして、夜は、このところ抜けられぬ用件でずっと行っていなかったカルメン・マキさんのライブへ吉祥寺StarPine'sCafeへ行く。何年ぶりかに聴いた『いつまでも』は胸にこたえた。

そして今日8日は、長男の通う中学校での特別授業。2年生を2クラスづつ、全4クラスを3時間目、4時間目で行う。
やってみて、つくづく、もはや現在の教育制度が現状に適っていないことを実感させられた。
現在のままでは静かにして普通に学びたいと思っている子も、騒ぎまわって邪魔している子も、教員も皆不幸。それでも学校に生徒が来るのは、社会からの落ちこぼれの恐怖なのだろうか。
ことここに到った以上、私塾でもなんでも認め、企業が新入社員採用にあたって大卒とか高卒とかいう資格一切を取り払い、独自の採用考査を採り入れるしか根本的な改革の方法はないと思う。
10代のはじめというエネルギーが湧いてくる年代に、日本中の多くの中学生が決して楽しくない学校生活を送っているかと思うと本当に気持がふさぐ。とにかく、現在よほど人心把握力のある人が教師となったとしても落ち着いた状態で楽しく学びたいと思っている子供が満足できるような学びの環境をつくることは不可能と言わざるを得ない。
環境破壊を筆頭にさまざまな社会不安と矛盾が拡がっている現代において、学校が荒れるのは当然のことだと思うが、そうであればせめて1人でも多くの子供達に楽しいと思える学びの場を提供することが大人のつとめではないだろうか。
すっかり気持がふさいでいたが、長男が下校してきて2年生の先輩の1人に「すごくよかった、感動したとお父さんに伝えといて」との伝言をもらったのが、せめてもの幸いであった。

以上1日分/掲載日 平成12年2月9日(水)


2000年2月11日(金)

神奈川リハビリテーション病院へ理学療法士の北村啓氏からの依頼を受けて、私の武術の実技実演と術理解説のため、会員の岩渕氏、S氏と共に出向く。
11時近く同病院に到着。ほどなくアフォーダンスの第一人者である佐々木正人・東大教授もみえ、北村氏の企画プログラムに沿って約40人の理学療法の専門の方々に対する研究会が始まる。
はじめ北村氏が約1時間にわたって話をされたが、北村氏のセンスの良さが光る講話内容。
その後、まず私の片手持の沈みや切込入身等をとにかく肌で感じてもらうため全員に受けていただき、その後、術理の解説。参加者のほとんどから少なからぬ関心と興味を持っていただき、やっていた私もやり甲斐があった。

2000年2月12日(土)

朝7時過ぎに家を出て大阪へ。
新大阪駅まで朝日新聞大阪本社論説委員の石井晃氏に迎えに出ていただき、石井氏のご案内で関西学院大学へ。
大学内のレストランでアメリカンフットボールのコーチの方々と昼食を伴にし、2時頃からグラウンドに出て約2〜3時間、ヘルメットやプロテクターを着けて選手とぶつかり合ったり、押し合ったりする。

アメリカンフットボールは、昨年1月末、大阪の稽古会に石井氏が関学(関西学院大学のこと。ちなみにこの大学は「かんせいがくいんだいがく」が正式名称。関東以北の多くの人達は「かんさいがくいん」と読むようだが「かんせいがくいん」がこの大学の読み方)のコーチのO氏を伴って見学に来られたのが縁のはじめ。
このことがキッカケでその後桐朋学園のバスケットボール部に私の術理を応用してもらったり、4月には京大のアメリカンフットボール部で初めてアメフトを体験したりすることになった。

昨年4月に京大で初めてアメフトを体験した時はヘルメットを装着してはほとんどやらなかったため、今回は貴重な体験をした。
何よりも驚いたのは、ヘルメットがぴったりと頭に装着されていたからかもしれないが、それほど重いとも感じなかったこのヘルメットが、実は体の姿勢制御に重大な影響を与えていることに気づいたことである。
走っていて少し前重心になりすぎたかな、と思っているうち、どうしても姿勢が元に戻らず、そのまま前へ倒れ込んでしまった。この時の感じは自分が何か脳に異常をきたしたのではないかと疑うような、自分で自分の体の制御が突然きかなくなったような、それは奇妙な感覚であった。
そのためであろう、ヘルメットを着けている時と脱いだ時とでは、相手を払ったりいなしたりする働きにとても同じ人間とは思えないほどの差が出た。
よく考えてみれば、私のように不安定の使いこなしで体を運用している者にとって、頭部の重量の違いというのは姿勢制御の感覚をまったく狂わしてしまうのだろう。
その上、ヘルメットについている顔面保護のための鳥かごのような鉄のガードは、剣道の面金と同じで視界を遮り、こうしたものにはまったく不慣れな私にとって二重にやりにくかった。
ただ、やっている時は、そうしたことが理由でやりにくいのだということが私にも分からず、終り近くになって漸くそのことに気がついた。
まったく人のオートの調節機能というのは、オートだからこそ便利なのだが、こうした問題点の気づきを遅らせる。

そうした不慣れもあったから、選手諸氏にどの程度参考になったか分からないが、ハッキリと私のような武術的な体の使い方の効果が出たのは、ブロッキングと呼ぶらしい相手との押し合い。私とは30〜40s体重差のある、体重が100sを越えるような若者と次々と手を合わせてみたが1人も私に押し勝った選手はいなかった。後で聞くとベンチプレスで180s上げる、全日本の代表になったような人も混じっていたというから、今回の関西学院大学での実演と解説は私にとっても、私の動きの有効性がそれなりに検証されたことにもなったわけで有難かった。
今回、私を招いて下さったトレーナーのA氏と石井氏にはあらためて御礼を申し上げたい。

2000年2月13日(日)

クボタの体育館で稽古会。
この日は久しぶりに大阪府警で勇名を馳せているZ氏も来られ、私にとってもいい稽古ができた。
稽古会は昨日に続きトレーナーのA氏、石井氏、それにこの日は田村スポーツビジョン研究所の田村知則氏も見学に来られた上、女性陣は作家の多田容子女史、イラストレーターの三木静代女史の常連メンバーの参加も得て盛会だった。
稽古会の後、近くの店で打ち上げをやっていると、世話になった方の葬儀のため稽古会に出席できなかった医学生S氏がこの店を訪ね当てて登場。その人なつっこい笑顔を見せてくれた。「葬儀会場から途中でトレーニング・ウェアを買い、必死で駆けつけたのに稽古会には間に合わず残念でした」としきりに嘆くS氏のため駐車場で若干稽古。

その後、この会の世話人である野口一也氏の車で、久しぶりに訪れる奈良の大倭紫陽花邑へ向う。
大倭に着いたのは9時頃だったと思うが、私の来訪を知って10人ほどの人々が双葉館で待っていて下さり、とても食べきれぬ料理を前に午前3時頃まで話が止まることはなかった。

2000年2月14日(月)

9時頃、7、8人の人々と共に邑から少し離れたところにある大倭神宮へ行く。清掃し、久しぶりに青山日元翁の祝詞を聴かせていただく。
この神宮に佇んでいると、他の寺社では味わえぬ独特の安心感がある。何度か祓の太刀を抜く。
邑に帰って拝殿にも参拝。
かつて、鹿島神流十八代の国井道之師範が遺していかれたという木刀を拝借し、1人で久しぶりに神流の型を使ってみる。
双葉館で朝食兼昼食の後、岸田哲氏、杉本順一氏に挨拶して高橋氏運転の車で林修三・有朋塾塾長と共に学園前駅まで送っていただく。今回も大倭の人々、とりわけ見田女史にはお世話になった。ホームページ上を借りて御礼を申し上げておきたい。
考えてみれば大倭との御縁も20年。4年前に帰幽された矢追日聖法主の奥都城で祈りをささげていると、本当に直に矢追先生とお会いしている感じがしてくるからこれは不思議である。

近鉄の学園前駅からJR乗り換えの鶴橋駅までの時間は、約10年前に初めて出会ってから終始変らぬ御好意で私に接して下さっている林塾長と、今回の大倭での感想などを話しているうち、たちまち過ぎてしまった。

鶴橋駅からは環状線で森ノ宮まで2駅。ここで降りて名越クリニックへ。
しばらく名越康文氏と話をしてから、多田容子女史の兄にあたる多田信広氏がたまたま来られたので、多田氏に奥村やよい女史(合気ニュース刊『武術の視点』の表紙写真撮影の写真家)の写真の展覧会場まで送っていただいた。写真は一にも二にも光をどう生かすかだ、と聞いたことがあるが、奥村女史の写真から、そうしたことに対するこの写真家の並々ならぬ才能をあらためて感じた。

その後は中之島の朝日新聞大阪本社ビルへ。ここで、5月18日に朝日カルチャーセンターで行われる予定の名越康文氏と私との対談の打合せのため、講座担当のM女史と会う。M女史は、朝日新聞大阪本社の論説委員である石井晃氏ともかねてから交流があり、地下の喫茶店には石井氏も来られる。
考えてみれば1年前の昨日13日、朝日新聞の全国版に関西大学教授の植島啓司先生と私との゛対論゛が載ったのだが、その企画・実行・原稿づくりとすべてにわたって石井氏にはお世話になった。
その石井氏に、今回は関西滞在の3日間すべてお会いしたことになり、この方との縁のただならなさをいまさらのように思った。
その上、驚いたのは大島渚監督の映画『御法度』のタイトルを私が書くに至ったキッカケがこの゛対論゛にあったことは知っていたが、大島瑛子プロデューサーからのタイトル執筆依頼の相談が、朝日新聞東京本社の映画関係の部署から石井氏の方へまわってきた時、私を推薦して、私の書いたものなど具体的な資料まで提供されたそうである。
「いやあ、これは面白いことになったと思って……」と、石井氏は悪戯っぽく笑われたが、その笑顔が素敵で、このような笑顔が出るような仕事への取り組み姿勢があれば、創造的な仕事の展開も生まれるのだろうな、とつくづく思った。
そしてこういうことを思うとどうしても今の教育現場のことへ、またすぐに頭がいってしまう。中学生から、もっと自由に自分の感じたことを形にしてゆける教育環境ができれば、よほど日本の社会の明るさも違ってくるだろうに、と……。

それにしても昨年2月のこの゛対論゛の影響は大きく広がった。
これがいくつかの出会いのキッカケになったのだが、それは次の通り。『婦人公論』で糸井重里氏が私との鼎談を組まれたこと。坂本龍一氏が私に強い関心を持たれ再三お会いしたこと。いま述べた大島瑛子女史からのタイトル依頼の件。それに今月末に行なう予定の野村萬斎氏との対談も、野村氏がこの゛対論゛を読まれていたことも大きかったようだ(野村氏はこの記事のことを『週刊朝日』の安藤優子キャスターによるインタビューのなかで触れられていた)。
いままでにない出会いのキッカケを作って下さった石井晃氏にあらためて御礼を申し上げる次第である。

この日は石井氏が仕事に戻られた後、M女史としばらく話してから、最終のひかりで帰京する。
M女史は間のとり方がうまい上、外交辞令で話を聞くということがなく、自分自身も関心があるからこそ真剣に聴くというタイプの女性で、こういう人とは話していても話し甲斐がある。このような人材を多く育てるためにも、今の学校制度は考え直すべきだろう。M女史も中学時代は学校の有り様に非常な疑問を感じたそうである。
現代のように情報が氾濫している時代に、明治時代と変らず、黒板に向って生徒が先生の話をただ聴いている形式の授業というのはもはや限界にきていると言えよう。

以上4日分/掲載日 平成12年2月16日(水)


2000年2月19日(土)

この日は、明日池袋で宇城先生との特別講座があるのだが、私としてはどうしても出たい「銕の会」の集まりが上野の不忍池近くにある韻松亭で開かれるので、稽古をギリギリまでやって駆けつける。
岡安一男・岡安鋼材社長の幹事で鉄や刃物に関心のあるさまざまな人達が集っていて、そこここで話は大盛り上り。
私も鋼の焼戻しの300度、青色脆性について誰かに詳しいことを聞きたいと思っていたのだが、幸い経験者の方に会い、「焼戻し300度だと鉛筆の芯のようにポキポキ折れますよ」との話をうかがえた。もっともこれは充分に鋼が焼入れでマルテンサイト化した場合のようで、焼入れが甘い場合はこの限りではないようだ。
帰りは2年ぶりにお目にかかった市川進先生と池袋まで御一緒する。医学博士で研は名人という市川先生のところへは是非一度うかがいたいとあらためて思った。

2000年2月20日(日)

池袋コミュニティ・カレッジで宇城憲治先生の空手の技を公開していただく。
武術稽古研究会を創設して22年、この日ぐらい急流に流されるようにして時間が経った日はなかったように思う。
朝10時頃、家を出て、深夜4時過ぎに寝るまで、10秒とボンヤリとした時間はなかったと思う。

振り返ってみると、特に何が大変だったとか苦労したということはない。
講座は、私が合計にして3分ぐらい喋っただけで、後はすべて宇城先生が空手の技の実演と解説をして下さったし、講座の後の懇親会は並木美治氏の仕切りでスタッフの人達がよく動き、私は別に何をしたというほどのこともしないで済んだ。

今回の講座で何よりも感じたことは、宇城先生の御人柄の誠実さと謙虚さである(もっともほとんどの人は、その技の凄さが何よりインパクトがあったと思う。私の場合、技の凄まじさは充分承知していたので、何よりも今回は宇城先生の気遣いに打たれた)。
講座に来た人達は、宇城先生の凄さを感じれば感じるほど、「この場合は」「では、この場合は」と、どんどん要求がエスカレートしてきて、宇城先生には失礼な点も多々あったと思うが、そうした要求に出来得る限り応じられていた姿を拝見して、申し訳ないと思うと同時に、やはり自信もあり、本当に誠意もある方なのだとつくづく感じた。

しかし、何度見ても、体のキレは見事。体が居つかず、捻れず、タメがない。なかでも最も印象に残ったのは蹴りに対して体を捌いて、相手の蹴りを外し、蹴りで応じられた動き。
突きの威力は、相手の胸にほとんど触れる位置から突いた時、相手の鼻と口からシューッとタイヤの空気が抜けるような音が出ることからも、その尋常でなさがわかったであろう。
とにかく講座ではF1のレーシングカーが一般道路を50キロの制限速度内で走るような気遣いで注意をして下さったので、受講者に怪我がなくて済んだことが何よりだった(もっとも、宇城先生の技の体験希望者が、その異様に重いローキックを受けて吹っ飛び、苦痛のためしばらく立ち上がれない場面はあったが)。
こうしたこともあったからであろう、事前情報では体験希望者が列を成すほどいる筈だったが、いざとなると希望者はそれほどの人数はいなかった(それでも10人以上は前へ出て、宇城先生の技を肌で感じたと思う)。

ただ私も、宇城先生の空手の凄まじさは参加者の方々によく見ていただきたいものの、変に強情我慢の人が出てきた場合、その方の怪我の恐れもあるため、講座の時はもとより懇親会中も宇城先生の側から離れられなかったので、精神的にはけっこうエネルギーを使った気がした。

講座自体は、予想はしていたが予定の内容が時間内に収まりきらず、2時間の予定が20分ほど超過してしまった。
その上、懇親会は宇城先生の技の凄まじさに触れたからであろう、当初参加予定の人数を大幅に上回る130人ほどが残る。しかも懇親会中に熱心に質問をしてきた人達一人一人に、宇城先生が手をとったり姿勢を直されたりされたため、宇城先生を中心に黒山の人だかりが出来、宇城先生御自身はとうとう懇親会ではビールを2口か3口飲まれただけで終ってしまったようであった。

この日の招待席は朝日新聞論説委員の石井晃氏、糸井重里氏、糸井氏と一緒に来られたプロレスラーのK選手、トレーナーの白石宏氏、スポーツ・ライターの小林信也氏、精神科医の名越康文氏、整体協会の野口裕之氏等がみえられた他、立会人として伊藤峯夫氏、小用茂夫氏、小森君美氏がみえ、懇親会の後はこうした方々のなかでお時間のあった方を中心に宇城先生の会社近くの宇城先生行きつけのこじんまりとしたお店で打ち上げを行ない、夜12時近くまで盛り上った。
その後、私は名越氏と共に帰宅。午前4時近くまで、この日のことやら何やらさまざまに話して床に就いた。
本日の特別講座につき、ここであらためて宇城先生に御礼を申し上げたい。それから宇城先生が専務をされている会社の総務の阿部真理さん、お世話になりました。また、花束まで頂き感謝しております。

そして今回の講座がスムーズに運んだのは、スタッフの方々の献身的な働きがあったからこそ。なかでもチーフの並木氏には、一同あらためてその行き届きぶりに脱帽。お世話になりました。

その上、今回あらためて人の存在の力に気づかされた。
伊藤峯夫氏、小用茂夫氏の御二方は私との付き合いがもう四半世紀になろうとしているが、とにかくそこにいてもらうだけで安心という方々。この御二方は、その人柄を宇城先生も絶賛。

そして私にとって幸いだったのは、名越氏がこの日のために大阪から上京。会が終ったあとも私の家に来られ、寝る直前までずっと話し相手になってもらったことである。
私にとって話の通りの良さでは特別な存在である名越氏と話せたことで、この日の複雑極まりない感想(単純に、受講者に怪我がなくてよかったな、ということから、宇城先生にいろいろ失礼があったのではないかという自責の念、あの人はちょっと言うセンス悪かったな、とか、何であそこでああ言わなかったのかな、とか、これで一層宇城先生の評判が高くなってしまうと、ただでさえお忙しいのにご迷惑がかかってしまうのではないか、etc……)を1人で反芻せずに済んだことである。
名越氏の話の聞き方の見事さについては、この日はじめて名越氏を遠目で見たという信州から来たE氏が、後で私に「人の話を聞いて、あんなふうに相槌をうってうなずける人を見たことがありません。あんなうなずきができるかどうかは私にとって一生の課題です」と感嘆していた。
そういえば畏友のG氏も名越氏のことを「全身臨床家」「相槌の天才」と評していた。さすがにセンスのいい人は、センスのいい人を知るということだろう。

しかし、とにかく、私に縁のあった人達に゛宇城憲治゛という傑出した空手家を実感をもって認識していただけただけでも今回の企画は意味があったのではないかと思っている。

以上2日分/掲載日 平成12年2月24日(木)


2000年2月22日(火)

20日の池袋コミュニティ・カレッジでの講座に御招きした方、出席された方々から次々とお礼や感想の電話が入る。なかでも白石宏トレーナーは大感激。予想はしていたものの、何人もの方々からの感激の度合の大きさに、今後講座に参加した人達から広がる噂で、宇城先生の御負担が大きくなるのではないかと、少し気が重くなってきた。

今回、宇城先生が私の要請を受け入れて初めて技の公開に踏み切って下さったのは、以前から私に義理を感じておられたこと。そして、恩師・座波仁吉先生がお元気なうちに沖縄古来の改変されていない座波空手の真価を世に問い、座波先生の恩に報いたいと思われたからだろう。
宇城先生としてはただそれだけであり、現在形骸化した武道が広まっていることに対して憤り、「俺が本物をみせてやる」といった気負いはまったくないようである。
そのことは、人は酔うと本音が出るというが、講座が終り、懇親会も終った後の打ち上げで、飲むほどに酔うほどに、「誰が勝ったとか負けたとか、そんなことに自分の力をみせつけようとするのは沖縄の武士じゃないですよ。今日は素晴らしい方にたくさん来ていただいて本当にありがたい、いやあ嬉しいです」と何度も口にされていたことからも明らかだと思う。
話の通る人と出会えること、それが宇城先生にとっても最大の喜びであるらしい。
しかし、「勝った負けたなんてそんなことはどうでもいいじゃないですか」という言葉は現在ほとんどの場合、言い訳にしかならないが、使う人が使うと絵になるなあ、とつくづく思った。
こうした御人柄だから、会社での部下の方々の信任も厚いのだろう。

しかしあらためて考えてみると、現在、宇城先生が企業家として製品の開発や経営に関わっておられるというのは、現代の状況下では最も実戦的世界に身を置かれている、ということでもある。
20日はほとんどまるまる半日ずっと傍らに居させていただいて、あらためて思ったことは、やはり宇城先生は少なくとも当分の間は実社会で御仕事をされるべき方だということである。
いままでは、宇城先生が空手の方に専念されたら、日本の空手のため武道のためずっとその方がプラスになると思っていたが、この日初めて空手を御仕事に生かし、御仕事を空手に生かされてこそ宇城先生だと納得がいったのである。
そしてこの思いは、宇城先生が終始明るく振るまわれていたなかでポツリと、「本当、このままじゃもう日本はダメですね」と言われた時に一層感じた。

「ああいう人がいるから、まだ日本はもっているんですよね。僕にはとてもではないが出来ないことで、宇城先生みたいな人に会うと、本当、自分はいったい何なのかなあと考え込んでしまいますよね」と、帰り道、名越康文氏はつくづく述懐されていた。
その名越氏だが,「いやあ、もうね、これからは名越先生みたいな人に出てもらって医学界を変えてもらわなくちゃ困ります。本当、期待してますから」と宇城先生に固く手を握られ、恐縮している姿が絵になっていた。
そういう人達の姿を見ながら、自然環境と人間ということに関して絶望的になっている自分には、いったいどんな役目があるのか、と、やや呆然としてしまった。

西南の役前後を描いた小説『翔ぶが如く』のなかで著者の司馬遼太郎氏は、征韓論に敗れた西郷が鹿児島に帰ろうとするあたりを描いて「しきりに京華名刹の塵埃をさけて田園に帰るというやみがたい詩的衝動にかられつづけていた」と述べているが、西郷と私とでは人としての器量に象と象虫ほどの差があるにしても、このところしきりに東北の山中の風景が頭のなかに写ってくる私としては、気分はどこか共通しているような気がする。
そうした私の思いを察してか、「甲野先生はもう表に出られて、これからの武道界を変える役目があるんですよ。もう、恰好からしてその役目なんですよ。我々のような、こんなか弱い人間と違って……」と、いきなりユーモアのある口調で宇城先生が言われた。
「宇城先生がか弱かったら、いったい誰が強いんですか」と誰かがすかさず言って大笑いとなったが、宇城先生は「いや、強いか弱いかじゃなくて『やるのか、やらないのか。飲むのか、飲まないのか』ですよね」と、そのままビールを前に言葉を続けられ、一層顔をほころばせられていた。

ただ幸か不幸か、私も次々と予定がつまっている。
26日は朝日カルチャーセンターでの講座。100人ぐらい集まるらしい。
28日は前田英樹氏との共著の件で青土社の津田氏と3人で会い、そのあとすぐ毎日新聞社で狂言師の野村萬斎氏と対談。
29日は神奈川リハビリテーション病院へ。何やらプロ野球の投手として著名なK氏も来られるそうだ。
とにかく人と出会い、そのなかで考え、それを人に伝え、それがこれからの時代を拓く人達の養分のひとつにでもなればいいか、と、いまはそう思っている。

以上1日分/掲載日 平成12年2月24日(木)


2000年2月27日(日)

昨日は朝日カルチャーセンターで初めての講座。100人以上の人達が集まっていたようだ。
約3割が女性。その上、活発な質問が多く、同じカルチャーセンターでも池袋コミュニティ・カレッジとはまったく違った雰囲気だった。

2000年2月28日(月)

正午に神田の三省堂書店の入口で、立教大学の前田英樹氏、青土社の編集者、津田新吾氏、小島直人氏と待ち合わせ、地下のレストランで前田氏と私との共著の打合せをする。
青土社の雑誌『現代思想』でこの夏頃から往復書簡の形でかわるがわるに連載し、1年続けてこれをまとめる形にほぼ決定した。
このように御膳立てをして期限を切ってもらわないと、今は忙しさにまぎれてなかなか原稿が書けそうにないから、私にとってもこの形がベストだと思う。
それにしても津田氏は本当に゛編集者゛という感じで、いままでほとんどの場合、著者と編集者役も兼ねてきた私としては新鮮な感じだった。

1時半近くまでここで過し、その後は竹橋の毎日新聞社へ、『サンデー毎日』での野村萬斎氏との対談のため駆けつける。野村氏との対談は、お互いの実演もあり、2時間があっという間に経ったほど、実のある内容となって楽しかった。この対談が『サンデー毎日』誌上に載るのは、3月の末か4月上旬とのこと。

以上2日分/掲載日 平成12年2月28日(月)


2000年2月29日(火)

神奈川リハビリテーション病院へ、理学療法士の北村啓氏の招きで行く。
今月の11日に伺った時と同じように理学療法士の方々を中心に実演と解説を行なう。
この日は、私のことを聞いて関心を持たれたK選手(プロ野球界では身体の運用法やトレーニングの研究に特に熱心な選手だそうである)も来場。何か感じられたのか、「近々是非時間をとってもらえませんか」との要望を受けたので、いちおう来館の日時を決めてこの日は別れる。
この日、打上げはリハビリテーション病院近くの、いろり焼の伍一亭。この日わざわざ参加された桐朋中・高等学校のK先生、徳間書店のN氏ともども話は盛り上った。
帰りは行きと同様、理学療法士のK氏に送っていただき、車中でも話の途切れることはなかった。

以上1日分/掲載日 平成12年3月9日(木)


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