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2003年12月2日(火)

 11月30日は久しぶりに吉祥寺の「マンダラ」であったカルメン・マキ・ライブへ行く。今年も何度か行こうと行こうと思って果たせなかったが、『スプリット』の文庫本化の話もあり、年内に1度は会わねばと思っていたので、もし今日を逃したら日はないかも知れないと思い、山積みする用件をとにかく無理にでも一時忘れてマンダラへ行く。久しぶりのマキさんの歌声は以前より更に重層構造になっていて、その才能には感服した。この日の前日の29日は初めて朝吹美恵子女史にもお目にかかれたので、2日続けて女傑に会う機会を得たことになる。
 今日もどうしても必要な庭の木の枝降ろし(Y氏に御苦労をかけた)、その間にいくつものFAXに電話と、忙しさはもう笑ってしまうほどだが、そうした中でも技の進展はいろいろあるので、今日はこの事について書いてみたい。(最近の私のホームページに関して、ある方から「身辺雑記が多く、技の解説がないのが残念」というお声も頂いたので、私としても本来は技の話は書きたい書きたいと常に思っている事もあり、この御意見を機にごく近々の気づきを御報告したい。ただ、忙しさの悲鳴をあげているので、まだしも企画の依頼にブレーキがかかっているようであり、みっともないとは思うが、その点は御容赦頂きたい)

 まず剣術の袈裟斬りの方法だが、体術の"浪之下"や"肩取りの斬り落とし"の時のように、肩も沈め、足裏は肚に向かって浮かせて剣を落とす。もちろん、このままでは刃筋は全く立たないから、体を前方へ進めつつ抜刀時のように体を開いていく。すると体の重みの利いた袈裟斬りが出来る。この時の肩の沈みは槍の突きの時の前手の肩の沈みと同じ。
 いくつもの違った動きが、結果として一方向に組み上がるという動きは身体各部は別に力まないが、通常の感覚で思いっきり力を入れて相手を崩そうとするより遥かに有効な力が発揮出来るものである。例えば、"捧げ持ち崩し"のように、受が両手で取の前腕を手を上に立てた状態で、シッカリと胸元で掴んでいるものを斬り込むようにして崩す場合、いわゆる手で斬ろうとすれば肩が上がる。手を使わずに体を沈めようとすれば腕が残る。この時、前腕を押し切り気味に掴んでいる受の手之内に添えつつ間合いを計る。離れすぎると、それはそれで肩につまりが起こる。つまり、ある程度緊張はあるが、それ以上でも以下でもない状態をつくり、肩を沈め、両足裏を浮かし、自重をより有効に使うようにする。(ただ床に沈んだだけなら床に多くの体重が移行してしまい、体重が無駄に使われてしまう)より短い時間に、より多くの重みが一気に相手に作用するようにするのである。
 これはタックル潰しやタックル切りにも応用出来る。タックル切りはタックルに来る相手の腕に重い斬りを瞬間的に働かせるもの。タックル潰しより前に相手を崩すもので、タックル潰しより適応範囲が広い。
 又、寝ている人を起こす介護法も、寝ている人の左肩上からこちらの右腕を入れて、足は寝ている人の体を跨ぐ感じで一気に起こす方法など、いくつかの新しい型も開発しつつある。

以上1日分/掲載日 平成15年12月3日(水)

2003年12月6日(土)

 2日に続き、4日もY氏に来てもらって枝降ろし。折から、信州の江崎氏が古くからの友人で少林寺拳法の指導もしているI氏を伴って来館。この両氏と稽古したり、Y氏を手伝ったりする。
 夕方近く、隣家の屋根の上にそびえていた一抱えはあるクヌギの木の枝を下ろすのに、江崎氏らにも手伝ってもらい、ロープ2本を使って無事隣家の瓦も割らず、まず1本降ろせた。
 枝降ろしの最中、難しい次の枝降ろしの方法にいろいろとアイディアが湧く。これは昨夜から考えていた手首の絞り技の工夫とも絡まって、いろいろに頭の中で展開する。
 手首の絞り技とは、合気道で三教とか三ヶ条といわれる形に似たものだが、私の場合は合気道のように相手の掌を取るのではなく、防ごうとして相手が拳を握った状態で、なおかつ振りほどこうともがく事も前提にしているから、なかなか難しい。昨夜から考えていた術理とは、"藤放し"の原理ともいうようなもので、これは弓を製作する過程で竹と木を接着するのに膠を使うのだが、これが固まるまで縄でぐるぐる巻きにし、その縄を更に締めつけるため巻いた縄に楔を打ち込むことをヒントにしたのである。どういうことかというと、こうすると、ただキツク巻く以上に縄をキツク巻き締めることが出来るからである。
 この原理と同じように、手首をこちらの手や腕で捻り上げようとしてもそれほど絞れないが、相手の手を絞り気味にして只おいておき、それを足を居つかせないようにして、ちょうどパンタグラフが起立するように、つまり潰れた菱形が開くように使うのである。これは最近私の術理の解釈についていろいろと書いて送ってくださった群馬大学のS先生の論文も参考になっているかもしれない。「それは井桁崩しの術理ですか?」といわれると、ちょっと言葉につまる。
 そういえば、最近私に代わっていろいろと井桁原理について解釈している人もいるようだが、それが私と同じ見解という保証は全くない。尤も、私はワイパー状のヒンジ運動の問題に代わる動きのモデルとして平行四辺形の変形というモデルを思いついたのであり、これにそれほど積極的な意味を持たせるつもりは当初からあまり無かった。したがって、正しい井桁術理の解釈などというものは、この世に存在しないと思う。もしも井桁にこだわって断言して解説している人があったとしたら、それはその人の井桁術理であろう。それを良いとも悪いとも私は言うつもりはない。(あるいは、その人の方がより深く何かを掴んでいるのかも知れないから・・)ただ、妙なこじつけをしているとしたら、やがてその術理に沿って体を訓練している人は行き詰まりを生じてくると思う。そうなってから井桁の提唱者である私にクレームをつけられても困るから、どうか読者諸賢は御自身の頭と感覚と身体を通して、よく吟味してそれらの解説を読んで頂きたい。
 先日来の枝降ろしで大量の枝が庭に山と積まれているので、鉈の試し斬りの材料にはこと欠かない。そこで何種類かの鉈を使い比べてみたが、それによって、どうもくの字形になった腰折れ形の一般によく見られる鉈の形より、折れ刀風の刃に反りのあるものの方がいいように思うのだが、これは今後の研究によって結論を出したいと思う。そのためもあり、5日に行った「銕の会」で初めてお会いした山林刃物が専門の大崎商店の大崎久雄氏に、このタイプの鉈を注文した。この日の会では、例によって他では滅多に聞くことの出来ない珍しい話をいくつか耳にする事が出来た。これから先も何とかこの会には出続けたいものである。
 最近分かってきたが、抱え上げや平蜘蛛返しなど足裏を垂直離陸させて行なう技の原理は、どうやら極端に省略された捨身技のようだ。どう捨身技かは今後次第に言葉にしていきたいと思っている。

以上1日分/掲載日 平成15年12月7日(日)

2003年12月9日(火)

 今年初めての雪を山形で見ている。今週は週末に仙台の予定だったが、その直前ともいえる週のはじめに東北へ来ることになった。これは、以前から一度桑田投手に射撃の藤井優監督と藤井監督の率いるプロジェクトスタッフ(別にことさら組織としてしっかりプロジェクトを組んでいる訳ではないが、藤井監督の情熱と人柄で自然と集まったスペシャリストの人々)を紹介し、特にこの地の食に対する研究を桑田氏に伝えたかった事と、最近お互いに忙しいのでなかなか予定が合わないため、まとまった時間を取って最近の私の技の研究と気づきを桑田氏に見て聞いて体験してもらいたかったからである。
 オフとはいっても桑田氏は西に東に数日で数千キロも移動しているスター選手だけに、私との予定と藤井監督の予定もすり合わせるのは大変だったが、何とか8日まる1日と9日半日時間が空くという事だったので、昨日早朝に桑田氏と東北新幹線に乗り山形入りしたのである。
 今年は雪が遅く、12月に入っても降っていなかったというが、福島から山形新幹線の線路に入ると絵のような雪景色(6日頃から降り出したらしい)。米沢駅ではバランスボードや最近好評のバランス下駄のメーカーであるマルミツの小関氏の出迎えを受け、上杉神社を経て高畠のデジタル・スポーツ射撃連盟(DSSF)のレンジに向かう。
 ここで桑田氏は蕎麦打ちに挑戦し、その後神山氏宅で山の雪景色を見たりと、束の間とはいえ寛いでもらい、夜は桑田氏を囲み、藤井監督御自慢の13ミリの鉄板でのお好み焼き、おでん、あなごの炭火焼き、ずんだ餅、その他抜群の素材の料理の数々によるパーティー。その用意の間、桑田氏はデジタルの射撃を試みたり、パーティーに来た人達の要望に応えてサインをしたり、記念撮影に応じたり・・。その間、私はやはりこの日招かれていた、先日J2からJ1に昇格したアルビレックス新潟の深沢選手に体のかわし方や競り合い方をいろいろと解説。その様子を桑田氏にも見てもらったりしているうちパーティーとなる。
 料理は栗田、足立の両女史の他にも何人もアシスタントがついたが、目玉はデジタル射撃の用具を開発したNECのスタッフによる広島風のお好み焼き。抜群の食材の多くを生産している菊地氏は桑田氏に農産物の現状について講義。常連の神山氏、山村氏が加わると座は一層盛り上がり、そのうち周囲の人達とも馴染んできた桑田氏もいろいろ冗談を飛ばし、パーティーは大変盛り上がり、誰もが楽しそうだった。
 この日、私は新幹線に乗るまでの車の中も含め、桑田氏とは16時間くらいは一緒にいられたので、最近の私の気づきについてはかなり話す事が出来たが、お蔭で私もひとつハッキリと技の節目を越える事が出来、特に打剣に於いてはDSSFという恵まれた場所で、6間、7間という遠間がかつてない安定さで通るようになった。今日あらためて詳しく検討した結果、今年の5〜6月に、それまでより四分前後伸ばした剣の長さを再び以前の長さか、それに近い寸法に戻すことの決断がハッキリとついた。
 これは、先日気づいた「両足裏の全面垂直離陸はごく短時間の捨身技である」という術理から自然と展開してきたからのように思う。そして、体術も上から体を沈める"切込入身"であっても、下からやや上方へ上る感じの"直入身"も共にこの技の術理を使えば有効である事がハッキリとしてきたのである。
 このように臨時の東北旅行は、技の面でも私にとっても得るところはあったが、今回桑田氏との交流で最も共感できたのは、現在のスポーツ界の少年少女に対する多くの指導者達の対応の酷さに対しての意見が全く一致したからである。
 私は最近スポーツ界と縁が深くなるにつけスポーツをしている少年少女に対して大人の指導者が怒鳴りまくり罵倒しまくる、まるで旧軍隊のような理不尽な行動を取ることが現代でも蔓延していることに愕然としていたが、今回桑田氏と親しく話した事で、桑田氏が私との稽古をしばしばキャンセルしても、なぜボランティアの少年野球の指導に熱心なのか、その理由があらためてハッキリと分かった。つまり自分がやらなければ子供達が大人達のストレスのハケ口のように怒鳴りまくられるので、それが見ていられなかったからである。
 私は何もただ楽しくやればいいとは思わないし、厳しい指導もすぐれた人間を育てると思う。しかし、その厳しさとは、無刀流の山岡鉄舟の春風館や無影心月流の梅路見鸞の武禅道場のような厳しさであって欲しい。どちらも骨身に沁みる厳しさがあったであろうが、指導者が自分のストレス発散のため発狂したように門人に罵声を浴びせるような事をしたとは思わないし、人を指導するという事の責任の重さを、自分自身人間離れした厳しさで背負っていたのである。例えば、梅路見鸞はしばしばギリギリの立場に自らを追い込み、常識的にみて困難と思われる的に向かい、「もし的外したら明日から弓を捨てる」と宣言してから弓を引いているのである。
 今回、私も胸が熱くなったのは、桑田氏が「僕も先生の言われるように、子供達には実際に自分でやってみせて教えるようにしているんですよ」という事と、私が体育を理科や歴史と一緒に教えてこそ身についた学問となる、と説いている事から、「僕も今ここに何人いるかな?ボールは何個ある?じゃあ、キャッチボールは何組出来るかな?」ということから「算数も野球の役に立つんだよ」という指導をしている、といった話を聞いた時である。
 又、近くで練習していた中学生の野球の指導者が、あまりに理不尽だったので、見かねて近づいていき、「ああ桑田さん、指導して貰えますか」と言われたので、子供達と楽しく練習をしたという話にも感動した。
 現在、学級崩壊状態が広がっているが、その理由として体罰の禁止など子供に厳しく接することが難しくなっているためだ、という指摘があり、それも尤もだと思うが、そのためにずる賢くなった問題児が周囲に多くの迷惑をかけても野放しとなり、一生懸命スポーツをしている子供が理不尽な大人の指導の犠牲になっているとう図は全くおかしな事だと思う。それこそ一体何のための教育委員会かと言いたくなる。とにかく1度全てこの国の教育事情について総点検をし直すべきだろう。

2003年12月10日(水)

 昨日の深夜というべきか、今日の夜明け前というべきか、今日の午前2時から2時半近くまでDSSF(デジタル・スポーツ射撃連盟)のレンジで1人で打剣。大袈裟に言えば、「自分にもこんな日が来たのか」と思うほど60本(6本ずつ10回)打って1本がちょっと刺さりそこなったが、後は全て畳に吸い込まれた。もちろん3〜4間の距離でなら驚くに当たらないが、今回はまず7間(約12,7メートル)で6本から始め、次に5間半、4間、1間、3間、5間、2間、6間、2間、1間、3間、4間、3間、5間、3間、6間、4間、5間・・・といったように様々に距離を変え、時に5間で6本まとめ打ちしたり、6間2本、そして変化、あるいは1本1本全て変化というように考えられる距離の揺さぶりを自分に課したのだが、そのすべてに自然と対応していた。もちろん距離によって剣を替えたり手之内の位置を調整したりはしない。
 これは直打法の手裏剣術の難度を知らない人にとっては「へぇー、そんなものか」と思うかもしれないが、この道に少しでも関わった者なら、この状況設定が如何に困難かは分かると思う。20年前の私なら勿論の事、5年前の私でもそんなことが出来る人がいたのかと呆然とするほどのインパクトを受けたことだろう。
 私自身一夜明けて後、この状態が維持出来ているかどうか自信がないほどだ。自分で言うのもおこがましいが、自分が一生のうちここまで出来るようになるとは・・。もちろん希望は強く持っていたが、「現実に出来るようになるか責任を持って請け負えるか」と聞かれたら、「正直言って不可能」という答えしか出せなかったと思う。
 いったい何が起きているのか分からぬが、何かが確実に変わり始めているようだ。

以上1日分/掲載日 平成15年12月10日(水)

2003年12月11日(木)

 片づけ、原稿書き、その他用件が山積みしているというのに、今朝から道場で使っている電話の子機の充電ランプが点かず、はじめは単にコードの中の断線だろうとタカを括っていたのだが、あちこち点検しコードを切って繋ぎ直してもランプが点かず、結局アダプター本体がダメになっている事に気づくのに2時間近く使ってしまった。今、子機が使えないと様々な仕事が滞る。そこでアダプターを電器店に注文する一方、夕方に近くの電気機器のジャンク屋「ハードオフ」へ出向き、使えそうな中古のアダプターを物色する。しかし、中々DC9V200mAのアダプターは無い。仕方がないからDC9V150mAのものを買ってきて電器に詳しい仙台の藤田氏に使っていいかどうか確認し、恐る恐る使い出したが何とか使えそうである。(もしどなたか電話に詳しい方で、これが非常にまずい事であれば御教示頂きたい)
 こんな事と13日からの東北行きの荷物作り、そして電話の応対で片づけも儘ならぬまま今日は暮れてしまった。(当初、子機が使えず効率は大変悪かった)ただ、8日から10日にかけての日々が濃かったので、その代償にこれぐらいの税金は支払わなければならなかったのかもしれない。
 今回の東北行きは、当初8日に桑田投手と山形入りして、9日に桑田氏を見送ってから、私はもう1泊して手紙や原稿書きなどしようと思ったのだが、DSSFの料理担当の栗田女史の御自宅(昔造り酒屋だった)を見学に行って、その見事な棟木に見惚れ(機械鋸による製材以前の見せるためではない実用的な手斧のはつり跡が感動的だった)、ついでに風呂用の薪割りなどをしたため、結局時間は消えていったが気分転換としては貴重だった。しかも、この昼間栗田女史宅へ伺ったことが、夜役に立つのである。(昼に伺っていたお蔭で、深夜、鍵を紛失した栗田女史の急場を救うことが出来たのである)
 いつもの事であるが、今回は特に藤井優監督以下DSSFのスタッフの方々と、これをサポートするプロジェクト・チームの方々にお世話になった。心から御礼を申し上げたい。ただ、高畠町のシンボル的存在である神山氏が、この地にやってきそうな大規模豚舎の反対運動のため忙しく、あまりゆっくりお会い出来なかったのが残念だった。
 しかし、素晴らしい環境が売り物の高畠町に豚肉の製造工場的発想の大規模豚舎が作られることは、どう見てもこの町のイメージにそぐわない。大体経済性を最優先させて畜産を行なうことには本質的な問題がある。BSE(狂牛病)も効率のいい肥育のために草食獣である牛に羊のクズ肉や骨を原料にした特殊飼料を食べさせるような、生物の基本的ルールを無視した効率最優先の考え方に端を発している。
 昔は高価だった肉を廉く沢山食べられるようになって、一見幸福になったかのように思われているが、それだけ成人病も増えているのである。獣肉など殆ど食べなかったかつての日本人の体力の方が、現代人より遥かに優れていた事は間違いない。
 世の中には一体何が必要なのか、いま一度原点に戻ってよくよく考える必要があるのではないだろうか。

以上1日分/掲載日 平成15年12月12日(金)

2003年12月15日(月)

 「“抱え上げ”、“一本釣り”、“平蜘蛛返し”など、足裏全面の垂直離陸による持ち上げ系の技は、ごく省略した捨身技である」と先日書いたが、この事は8日の東北での稽古、12日の池袋コミュニティカレッジでの講座、更には今回の仙台、山形での稽古会の折などで次第に実感が出てきた。よく考えてみれば実に単純なことだ。
 譬えて言うと、昔の釣瓶井戸と同じで、井戸の上に組んだ屋根裏に取り付けられた滑車で2つの釣瓶が上下するわけだが、この原理は現代ではビルのエレベーターにも使われている極めて分かりやすい構造である。つまり、水を汲んだ片一方の釣瓶が上がるために空になったもう一方の釣瓶の重さを利用するという事である。
 そして、これは“直入身”など前進しながら斜め上方へと力を働かせる場合であっても、“切込入身”や、こちらの片手を相手に両手でしっかりと持たれているのを下へ崩す“浪之下”など上から下へと力を及ぼす場合であっても全て有効である。尤も上から下へ力を働かせる場合は「釣瓶の原理」というより「一気に沈み込む」というだけの事だから、滑車によって力の方向を変えるということも要らない一層単純な動きである。
 ただ、この単純な沈み込みが「釣瓶の原理」の気づきによってより威力が増したのは、両足裏の全面離陸という「釣瓶の原理」によって全体重がいったん宙に浮くということで、あらためて今までのような単に直立していた姿勢から膝をぬくということでは、「体重の何割かしか利用できていなかったのだ」という事に気がついたからである。
 人間は「普通に立っている」という事は、さして労力が要らないから、これがどれほどの威力を潜在的に持っているかということには実感として中々気づきにくい。
 今回あらためて言葉にしてみれば、別にどうというほどの新発見でもないような動きでも、現実の技の利きという事では受けた側に明らかな違いを感じさせるものが生まれているのである。どこがどう違うかというと、例えば“直入身”で、相手がいなしもありという条件で、こちらの両手を掴むか払うかしてきた時、殆どの場合「取」(仕手)は強力に相手を押し飛ばそうとして、硬く準備した手で相手に向かってしまう。そのため、「取」はしっかりと柄のついた大柄杓のような状態になってしまい、その柄杓の柄の先を相手に掴まれているため簡単にいなされたり外されたりしてしまうわけである。これに対して、「釣瓶の原理」を利用した“直入身”は、アソビのない釣瓶の縄が引かれれば釣瓶が直ぐ反応するようになっている為、形容が汚くて申し訳ないが、古俗な表現で云うところの「柄の取れた肥柄杓は手のつけようがない」という事で、いきなり動き出してもこれを阻むのが難しいのである。
 それにしても言葉にすれば、このように簡単な事が何故今まで気づかずにいたのか、あるいは気づいても、この私が得た実感がすぐ人に伝わらないのかというと(中には今回の文章を読んだだけで、少しの間に出来るようになる人もいるように思えるが)、体幹部と相手との接点である手をつなぐ肩のありようの微妙な働きを伝え難いからにあるように思う。この肩の働きは、前回10月末に仙台に来た時に気づいた槍術の前手の肩根のありようがヒントになっているのだが、一言で言うならば「ひきつれたり、つまったり、せり上がったりせず自然に・・」という事である。(山形の会では“浪之下”などの沈み技を行なう時、支点となりそうな部分も解体して流すことに気づき技の利きが増したが、これも言葉にすれば今まで散々私が言ってきた事と殆ど変わらない)
 そして、あらためて振り返ってみれば、「全身よく調養して」という無住心剣術の『前集』で説いている、体じゅうの力感のコントラストをなくすという平凡な事になっていくのである。「平凡即非凡」とは、確か肥田式強健術の創始者、肥田春充翁もよく説かれていたが、つまりはそういう事だろう。しかし、この「平凡即非凡」もいくつものランクがあることは間違いなさそうだ。
 いったい現在の私がどの辺にいるのかは定かではないが、私自身の今までの進化の過程でみれば(つまり「当社比)では)かなり大きな気づきのように思う。
 昨年、足裏全面の垂直離陸の重要性を内家拳のH先生の教示をキッカケに気づいた時、頭の中にいくつもの稲妻が走った気がしたが、あれから1年3ヶ月あまりでこの気づきもひとつ結実したように思う。
 結実してみると勝手なもので、ごくありふれた秋の風景のように思えるが、このキッカケとなったH先生とH先生を紹介して下さったK氏、U女史、H先生の日本に於ける師範代のE先生、通訳のK氏にはあらためて感謝の意を表したいと思う。

以上1日分/掲載日 平成15年12月16日(火)

2003年12月17日(水)

 12月も半ばを過ぎたというのに、今年は東北でも驚くほど雪は少ない。例年なら一面の雪景色が当たり前なのに、雪は高い山々に積もっているのが遠望される程度で、山形の平野は晩秋の風景のままである。
 14日に仙台稽古会の後、山形入りし、思いがけずこの地に3泊もしてしまった。ついここに長居してしまったのは、帰宅すれば山積みする用件で息つく暇もなさそうだ、という事が十二分に予測されたことがあったからかもしれないし、藤井優監督をはじめとするスタッフの方々やDSSF(デジタルスポーツ射撃連盟)プロジェクト・チーム(私が勝手にそう名づけただけだが)の方々の御厚意に引き止められた事も大きかったが、おそらく最大の理由は深夜誰にも煩わされることなく、存分に打剣の稽古が出来たからだと思う。DSSF滞在中に打った剣の回数は二千打以上だろう。
 お蔭で"浪之下"などの体術の利きの良さと密接に関係のある打剣方法に気づくことが出来たが、これは体の中に支点をつくらぬように全身が一気に沈むということであり、これを厳密に言えば流れるように沈むということである。この上から下への流れの中で、今まで脇腹辺りの流れというか流し方がよく分かっていなかった事に気づけた事が、個人的には今回の東北旅行での最大の収穫だった。私個人としては、今述べた点が最大収穫だったが、仙台や山形で出会った方々の中に私が恐縮するほど喜んで頂けた方々がいらしたことも幸いだった。
 DSSFでは身体調整のお手伝いと、ピストルの手の上げ方にひとつの提案が出来、これを試した藤井優監督が大感激して下さったので、至れり尽くせりのご厄介をおかけした気がねも軽減できたが、今思い返してみると、ゴルフ雑誌の取材や読売新聞の取材も、上質の飲食物を先方にも提供して頂きながら、ここでこなすことが出来てたから、本当にDSSFにはお世話になっている。あらためて御礼を申し上げたい。
 それにしても両足裏の垂直離陸による、より有効な体の沈みの利用を行なうための稽古は、感覚の練磨そのものである。一にも二にも感覚を鈍らせないようにしなければならない。
 私が東北にいた数日間、結構いろいろなニュースがあった。その中でも長年あちこちの大学で非常勤講師を務められていた私に畏友で非常に優秀な科学者のI氏(科学の本質を問いかけ続けていたため、なかなか理解されにくかった)がM大学の助教授に決まったことは、何だかとてもホッとする知らせだった。

以上1日分/掲載日 平成15年12月18日(木)

2003年12月21日(日)

 気がつけば今年も残すところあと10日。今までも月日の経つのは早いと思っていたが、これほど暮れの日々の流れを早く感じたことはなかった。
 毎日毎日あまりにも多くの事があるので、とてもこの随感録にも書ききれないが(例えば18日はフルートの雑誌で白川女史と対談。19日は思いがけぬ稽古。20日はNHK教育テレビの撮り等々・・)、術理のこと以外にも先月、先々月と歴史的なことで思いがけず分かったことがいろいろあった。
 11月はNHKのスタジオパークに出たことで、『願立剣術物語』の著者、服部孫四郎の身元がわかった。テレビの放映中に、ある年配の女性の方から服部孫四郎は無名の人物ではない旨の連絡があり、弘前のO氏に調査を依頼したところ、服部孫四郎は南部藩の二百石並みの家臣の三代目で、初め小次郎、通称孫四郎保章と名乗り、元文3年(1738)71歳で没し、法名は慈雲寄睡居士、法泉寺に葬られたということがわかった。
 又、最近なにかと話題のナンバに関しては、昨日20日、歌舞伎の研究者である大矢芳弘氏から資料を送って頂いたが、それによると嘉永7年(1854)に初代西川鯉三郎によって書かれた『妓楽踏舞譜』の中に「難波」の字を当てた項目があり、そこには「此振ハ手足一ツニフル也。スベテ謀反人ガ見顕ニ成テ後ニ用ヒシヨシ コレヲ位六法ト云」と説かれているとのことである。
 大矢氏は本来ナンバという言葉の意味は「珍奇で異風な」というニュアンスがあったといわれているが、この感想は私も同感であり、私が折りに触れては言っているように、そもそも昔の日本人がナンバで歩いていたという言い方自体おかしいのである。(なにしろ、ごく当たり前の動きに名称など付くとは思えないから)ただ、現在ナンバという言葉が余りにも広まってしまい、左右の手足を互い違いにして歩く現代風の歩き方と昔風の歩き方を区別する意味で、昔風の歩き方をナンバと呼んでいるのを、今更変えるのも話がよけい混乱しそうに思えるのでどうすべきか私も戸惑っているが、歴史的にみて昔の日本人の歩き方全般をナンバということがおかしいという事だけはあらためてここに述べておきたい。
 暮れに入って多くの方々からいろいろなものを頂いているが、土石流状態で様々な用件が入っているためお礼も殆ど手つかず状態となっている。誠に申し訳ないが、どうか御容赦頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成15年12月22日(月)

2003年12月25日(木)

 世間はクリスマスだというのに、私は自分で自分に贈る大量の資源ゴミやら、「ああ、この資料はどこにどうしようかな」という書類の山のプレゼントに埋まっている。勿論その間にもFAXは来る、電話は来る。
 このところ私への要望も次第に各方面に広がってきて、実に様々な分野から問い合わせが入るようになってきた。例えば23日はヒューストンの航空宇宙局から、宇宙飛行士の艦内での活動時の参考にしたいので一度お会いしたい旨の連絡があり、今日25日は映画で幕末に西洋式調練が日本が入ってきた時の当時の武士の混乱ぶりを描きたいので相談に乗って欲しいという連絡などが入る。とにかく、あれをやろうか、これをやろうかと考えているうちに時間がドンドン過ぎる。
 明日はアフォーダンスの佐々木正人先生を道場にお迎えしての対談だから、何とかこの大量のゴミやら書類を捨てたり整理しなければならないのだが、この随感録を書いているとつい書くことにハマって、明後日のPHPの文庫本編集の太田氏と打ち合わせの時のことまでやりたくなるので危なくてしようがない。
 その上、前からF女史に依頼して待ち望んでいた袴が届いたり、やはり待っていた信州の江崎氏から剣、岡安鋼材から「いろは毛抜」と、他では手に入らぬものも続々届くので、ついこれを見てしまい本当に時間が砂地に水がしみ込むように(普通こういう表現は時間には使わないが)消えていってしまう。
 その上今週の初めに得た体術の「浪之下」での感覚もその後の進展を確かめたい。これは相手に両手でしっかりと、こちらの片方の腕の前腕部を掴まれているのを、前腕を下向きにしたまま、こじったりせずにそのまま相手を潰していくという技だが、手、前腕、上腕、肩、脇の下、腰といった身体各部が滞ったり支点となったりせぬように、全体を1つにして使うという事が以前よりもハッキリとしてきたのである。これはつまり、体の中の動きの流れが逆流せず順に流れるようにするのであるが、普通は、ついどうしても前腕部が早く動いたり、脇腹が逆流しそうになる。
 それが、「ああそうか、ここが今まで働いていなかったなあ」と気づいたのだが、気づいてみるとこういうこともよく分からずによく長年やってきたものだと思う。尤も感覚が育っていないうちに、言葉だけで体じゅうが逆流しないようにと言っても、なかなか今のような感覚は分からなかっただろう。(現に「井桁崩しの原理」を見つけた10年前も体の中の力の逆流については言葉にしていたと思うし、信州の江崎氏からも身体を広い道路に例えて「逆走禁止で稽古しています」といった便りを何年か前に貰って、「なるほど、なるほど」と思った記憶もあるのだから)
 まったく言葉には限りがあるが、感覚は言葉は同じでもドンドン深く入っていくようである。これは今後更に更に感覚を研ぎ澄まして稽古する必要がありそうだ。

以上1日分/掲載日 平成15年12月26日(金)

2003年12月31日(水)

 今年も残すところ10時間を割り込んでしまった。今年は特に後半他に書くべき予定を削っても、この随感録は書いていたのだが、さすがに年の瀬はどうしてもしなければならない事もあって、ここ何日間かはこの随感録も含め、原稿らしきものは何も書けなかった。
 しかし今年は本当に多くの方々と出会った。28日の今年最後の千代田区での会も締め切るのが間に合わず、100人くらいの人達であふれかえってしまった。あまりに多人数であった為、わざわざ来て下さった方々に申し訳ないという思いに駆られたせいもあったのか、とにかく最初から最後まで喋り通し動き通したが、今年最後のこの日は実に多くのジャンルから人が来られていた。
 そして、そうした方々の質問に答えていると、その場その場で自分でも思いがけぬ気づきがある。例えばカヌーの方からの質問で、水をかく動きに体術の引き技が有効ではないかと思いついたし、剣道の方への説明で、鍔競り状態から引き面を打つのに殆ど体を引くことなく面を打てるのは、体幹部のロックによって竹刀を動かす力を得ているので手首や手指は僅かに操作するためだけに使われるため、肩を指さず(つまらせず)に竹刀が操れるのだという事が私自身解説していて理論的にも納得できた。
 それにしても気になる事、やりたい事があまりにも多い。まず何を今一番やりたいかと聞かれたら、先日高畠のDSSF(デジタルスポーツ射撃連盟)のレンジで試射した手裏剣の中で、僅かに重心が後ろにあると思われるものの最後部を微妙に削って拵えを造り直すことであるが、現在とてもそんな時間はないので、こういう事に関しては私の意とするところを殆ど100パーセント理解して造り直してもらえる信州の江崎氏に頼みたいと思っているのだが、その説明を書く時間、荷造りをする時間をどこから捻出するか、それにも迷っている状態である。

 それにしても今年一年皆々様にはいろいろお世話をおかけしました。あらためて深く御礼を申し上げます。
 来年どのような展開となるか全く予想もつきませんが、よろしくお願い申し上げます。

以上1日分/掲載日 平成15年12月31日(水)

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