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※2001年8月1日(水)以降については、「随感録」を御覧ください。

2001年7月17日(火)

仙台の稽古会に出かけて、もう20日近くなる。
この間、切込入身と巻き込みの双方の要素を併立させて行なう小手返など、今までで一番技として利いたように思うし、小手捕その他の抑え技なども、触れた時に切込入身で相手の動きを抑えると、今までになくやりやすいことなども感じてはいるが、何かそれもこれも姑息なソフト上の展開のような気がしてならない。
とにかく体が群泳する魚のように一斉にザッと動くような、動きのハードの質的転換を遂げないと、動きに向上があっても気持ちが一向に納得しなくなってきている。
その動きの質の転換の手掛かりは、現在打剣に最もあるように思うが、今後どうなってゆくかは今のところ皆目見当がつかない。
それにしても最近は目の奥に宮城の山奥の広葉樹や、昨年行った奥志賀の二抱えもあるようなブナやミズナラ、トチなどの大木がしきりに浮かんでくる。
そうなると「人間にとっての自然」とは、別に技を追求することではなく、太陽の移りゆくままに、又四季の移りゆくままに、大地と共に呼吸して生きていくことではないか、などとつい思ったりもする。
もっともそう言いながら、その地へ行けば、そういう木々に囲まれた中で稽古することに無上の喜びを感じることだろうから、私の稽古への思いは一生ぬけぬ゛業゛のようなものかも知れない。

以上1日分/掲載日 平成13年7月21日(土)


2001年7月20日(金)

一昨日の夜、打剣の稽古をしていて、「浮いていなければ、とてもではないが、ちゃんとした打ちは出来ない」ということに気づき、続いてここ暫く体がうねらないために手を先行させたタメのない打ちの工夫をしてきたが、「手の先行ということは、腕が僅かでも胸を蹴って出ることになっていた」ことに気づき唖然とする。その腕による胸の蹴りを無くさねばと思い、膝はヌクが上体が膝のヌキにつれて下へ落ちていかない゛浮身゛の工夫について考えたりしているうち夜が明けてしまった。

8時過ぎ、あまり深く眠れないまま起きて、急ぎの諸用を片付けて道場を掃除しているうちに、約2ヶ月ぶりに信州の江崎義巳氏が来館。早速、前夜気づいたことを話して、体術等で検討してみる。
その結果、両手持たせの直入身(受が取の両手を掴み、あるいは掴まずに払うなどして上下左右自由に取の動きを往なすという、受に十分な対応を許した状態から、受に往なされずに受の体勢を崩すように踏み込んでいく技)では、手が動き始める時と膝を抜いて上体が宙に残るように浮きをかけるタイミングが上手く合えば、今までになく相手に踏み込めることが分かった。

そうした成果を携えて、夕方からの都内での稽古会に臨む。
その結果、この腕の動き始めと体の浮きの一致が上手くいくと、対片手両手持たせの浪之上、浪之下、柾目返、後両手持たせ、切込入身、体勢の崩しあい(サッカーのポジション取り等)、突きへの対応などに今までにない速やかさがあった。
それにしても、手の先行時、腕が胸を蹴っていることに気づかなかったとは。
まあ、これも感覚が以前より研がれてきたから気づけたことなのかも知れないが、まだまだ私の術理と具体的な動きの間には穴がいっぱい空いているということだろう。まだまだ穴だらけということは、それが埋まれば動きが向上するという事だから、向上の希望があるということでもあり、まあまあそれはそれでいいことなのかも知れない。

どういうわけかここ最近、諸々の用件が次々と出てきて息つく暇もない。今日も昼から夕方がくっついていたような感じで、たちまち日が暮れてゆく。そうした中、フッと心が和む楽しみの1つは、昨日来館した江崎氏が八角に鍛ち上げ持ってきてくれた剣の中に、私がこの春から楽しみにしていたスウェーデン鋼のアッサブK−100の剣が入っていたこと。
材質的強度はSKS43が切れた後使っているSKS21の方が確かにあるだろうが、現代では刀匠も原料に使っているという純度の高い炭素鋼だけに、何かこれに寄せる思いには特別なものがある。それだけに江崎氏の仕上げにもう少し手を入れてからサンドブラストにまわそうと思っている。

以上1日分/掲載日 平成13年7月22日(日)


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