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2010年9月3日(金)

 気がついてみると9月も、もう3日。暑さは相変わらずだが、日が落ちると木の上で鳴き出すアオマツムシの合唱がだいぶ大きくなってきている。私個人は今夏の暑さも「まあ夏はこうでしょう」という感じで苦にならないが、そろそろ動物や植物にも被害が出てきているというし、周囲で暑さにへたばっている人達が多いのを見ていると、さすがにもう少し気温が下がってもいいかなと思う。しかし、これで25度を切りはじめたら、きっといまの暑さが懐かしくなると思う。
 現在執筆中の本もあり、忙しい筈の私が、8月の24日に東北から帰って、遠出も泊りがけの仕事もなく、暑さにもへばっていない筈なのに、なぜ仕事がはかどらないのかと思って、よく考えてみたら結構いろいろな事があった。
 ここ1週間ほどの間、在宅が多かったので知友からの連絡、それも思いがけない人達と電話で話したりする事が何度かあった。というのも、ここ10日ほどの間で私が内田樹先生と対談で出した『身体を通して時代を読む』が國吉康夫先生の解説がついて文庫となって出来上がってきたものも含め、私の知友や、薄くでも私が関わった本が7種類くらいも届き、その対応にかなり時間を使ったからだ。その中の1冊である『家族のための介護入門』の著者岡田慎一郎の知人で、私も6月に岡田氏の結婚式でお会いした車椅子の小児科医、熊谷晋一郎医師の著者『リハビリの夜』が新潮ドキュメント賞に選ばれたというニュースに接して、お祝いの伝言や授賞式の日取りの確認などをしたり(この本は私も刊行先の医学書院からの依頼で書評を書いていたので)、また私も多少関わった剣豪の解説書のような連載がまとまって、本になって送られてきて、ちょっと拾い読みしたが、単純な校正ミスから著者の大きな思い違いも含め、大中小と気になるところが10ヶ所以上あったので、つい版元に電話し、これにもけっこう時間を使ってしまった。
 しかし、一度間違って世に出た情報というのは容易に改まらないようだ。まして白井流手裏剣術などという関心を持つ人も極く限られているような分野はなおさらである。白井流手裏剣術は幕末の剣の名人として名高い白井亨義謙の創始というのは、現在その世界では広く流布している説だが(その世界そのものが極少だから広く流布しているという言い方もおかしいが)、それが根岸流手裏剣術の成瀬関次三代宗家が『会津藩教育考』という本を読み誤ったことに由来する間違いだという事は、私がすでに何度か著書や雑誌で指摘している事だが、一向に改まらない。
 今回送られてきた本でも、白井亨の天真兵法に手裏剣術が少なからず関わったが如き記述まである。もし実際にそうなら私も大変興味をそそられるが、私が調べた限りでは(白井亨に関しては私以上に詳しい資料を持っている人はまずいないと思う)そういう事実は全くないし、すでに述べたように白井流手裏剣術が黒河内伝五郎によって会津で行なわれたという事から発生したらしい白井流手裏剣術会津伝承説は、『会津藩教育考』を根岸流三代目の成瀬関次師が読み誤ったためである。
 今回の剣豪本がまったくの小説であれば何も言う事はないが、いちおう資料本の体裁になっているので、やはり事実関係は出来うる限り正確を期すべきだろう。それからこの本の針谷夕雲のところで、私の名前が出てくるのは、私が『剣の精神誌』を書いたので、まあ話はわかるが、私がまるで無住心剣術を使えるかのような記述があるのには驚いた。著者が私のところに取材に来られた時、色々な話をして実際に竹刀を取って何かやったとは思うが、およそ無住心剣術の体現などという大それたものではなかったはずである。人間というのはどうしても自分にとって思い入れのある方向になんでも解釈したがる傾向があるが、困ったものだ。
 それから弓道に関する本『弓具の雑学辞典』を送っていただいたことで話が盛り上がったのは、京都の国際日本文化研究センターの山田奨治准教授との電話。なぜその電話が盛り上がったかというと、山田先生は、大変な労作にして衝撃の問題作『禅という名の日本丸』の著者で、現在私が執筆中の本の中に、この問題作の核心部分を紹介させていただこうと思っていたからである。その件でも話は盛り上がったが、山田先生は、昔の日本の丸木弓の材質などについても詳しく、こうした話が大好きな私としては、例えば梓弓の梓の木は本当にヨグソミネバリなのか?ハゼの木はなぜ弓の側木にいいのか?マユミの弾性の程度は?ケヤキの場合ははやり若木でしょうが、何年目ぐらいのものがいいのでしょうか?等々の話に、つい時間を忘れてしまった。その他にも、神道関係の本を版元のO氏に送っていただいたことで、何年ぶりかで著者と旧交を温めたりした。
 それにしても記憶が残っていないことの程度が数年前に比べ、著しく亢進している気がする。ここ数日の間に他になにかなかったかなあ、と記憶を手繰っても思い出せず、予定表を開いてみて、なんと先月の30日、元格闘家の須藤元気氏とDVDのための対談を笹塚駅近くのジムで行ったことを思い出した。まあ、いったん思い出すとそのときの情景がかなり細部にいたるまで記憶に残っているので、その辺りの記憶力までは、まだ昔とそう変わっていないようだが、これも衰えてきたら人生の卒業の仕方を考えなければならないだろう。しかしまあ、須藤氏はサービス精神旺盛で、私が返答に困るほど私のことを評価されていたので、DVD製作の監督さんやスタッフはありがたかったようだが、私としては、どんな風にこれがまとめられるかと思うと、なんだか空恐ろしい。
 先月の5日に内田樹先生と神戸女学院大学で行なった対談で始まった、このDVDの撮影はこの日をもって終わり、あとは編集に入るそうだ。現在の予定では年内か来年の早いうちに完成し、小さな劇場で若干放映された後、DVDとして発売されるらしい。

 まだ暑い日が続きますが、今月は6日が東京武道館10日は池袋コミュニティカレッジの講座18日は福山19日が四国土佐20日は四国香川で講習会を行います。また、22日は新宿で音楽家を対象とした講座。そして25日は博多の「この日の学校」、26日は熊本での講習会、28日は朝日カルチャーセンター大阪で講座を行います。ご関心のある方はどうぞ。まだ先になりますが、11月10日は朝日カルチャーセンター新宿で、4月に行なって好評だった土田一郎氏との公開トーク「日本の道具刃物を語る」の2回目を行ないます。また11月18日は、慶応大学丸の内シティキャンパスの定例講演会『夕学五十講』は、私が担当します。これらにもよかったらお越し下さい。

以上1日分/掲載日 平成22年9月4日(土)


2010年9月8日(水)

 久しぶりにまとまった雨。しおれかけていた草木もこれで救われるだろう。昨日は横須賀市走水の防衛大学校で講演。講演とは言っても内容は私の技の実演体験会。場所が銃剣道の道場だったので、久しぶりに木銃を手にして、銃剣道部の部員の学生諸君を相手にして私なりの技を実演。日本の銃剣術は明治期、日本の槍術を参考に作りあげたと言われているので、私も槍術の体を応用し、いくつかの動きを動いてみたが、現代の銃剣道の技とはかなり違っていたのか、学生諸君から「おおっ」というどよめきが聞こえた。銃剣道部の部員以外にも積極的な学生諸君がいて、私には滅多にないことだが、道着が重くなるほど汗をかいた。おかげで、私としても改めて気づいたこと、今後新しい技を開発しなければならないと思った状況設定など、課題も見つかり、有意義な数時間を過ごした。防大でのこのような、実演が主となる講演会は、2001年暮れに入江助教授(当時)のお招きを受けて初めて行って以来、5〜6回目かと思うが、今回は久しぶりに講演の後、入江准教授のご自宅にお招きをいただき、奥様の手料理をご馳走になりながら色々と話が弾んだ。前回同じようにご自宅でご馳走になった時の事をよく覚えていたので、その時の事を話題にしたところ、「もうあれから6年ですね」との事。月日の経つ早さにびっくり。てっきり私は3〜4年前の事だと思っていたので…。
 その後、私の自宅まで車で送っていただいたが、その車中で入江准教授は「私は25、6歳で大学の体育の教員になって、当初は就職できたことを喜んでいたのですが、40歳近くになってくると、こんなこと(筋力中心の身体、強さ、速さのためには怪我も仕方ない。20代がピークで後は衰える・・・という身体観を前提にした体育教育)をいつまで続けていられるだろう、50くらいになった頃はどうだろうか、身体も動かなくなってきているのではないか、と先のことを考えているうちに、自分のやっていることに生きがいも楽しさも見出せなくなってきて、気持ちが次第に暗くなってきていたのです。そんな時、甲野先生に出会って、人間の身体の使い方は、工夫次第でまだまだ可能性があることに気づき、身体を使うことの面白さと奥深さにとても興味が出てきて、自分のやっていることが楽しくなってきたのです。何しろ甲野先生の動きに間近で接していると、年をとってもまだまだ可能性があることが実感できますから…。この頃は体育教師をやっていてよかったと本当に思えるようになったのです」と、しみじみ述懐されて、私も何か深く胸を打たれた。
 時折、私の技について過分な、というより歯の浮くような賛辞をもらう事があるが、そんな時は嬉しいどころか白けてしまう。しかし、入江准教授のようなしみじみとした述懐をもって感謝の思いを言葉にしていただくと、なんだか私も胸にこみ上げるものがあった。これは私が、私に対する人からの感謝の言葉を聞いていてこみ上げてくるものがあったというより、なにか映画の一場面でも見ている気分にさせられたからだろう。
 いつのまにか私のやっていることが、人の人生に少なからぬ影響を与え、その人の人生そのものを変えてきたことは、介護で活躍中の岡田慎一郎氏をはじめ何例かあるが、この岡田氏の例ほどはっきりとした形では見えにくいものの、内面的なところで人に少なからぬ影響を与えていることは、潜在的にはかなりあるのかもしれない。そうであったとしたら私の存在も多少は人の役に立ったと言えるだろう。
 やはり「人の役に立つために」と意識的に思ってするよりも、自分が本当に興味のあることを、あきらめずに探求し続けるということの方が、結果として人の心には響くのだと思う。この後も、今までのこのスタイルを変えずに武術の探求を続けていきたいとあらためて思った。

 私が知らないうちに、その人の人生に少なからぬ影響を与えた例としては、岡田氏と並んで代表的なのは数学者の森田真生氏であろう。森田氏と組んで行っている「この日の学校」は、来月10月24日、初めて東京より東の新潟で開かれる事になっている。

 この新潟での「この日の学校in新潟」は、ゲストの光岡英稔韓氏意拳日本代表と、その関係者が、時間、空間、記号、言語、存在といった哲学的課題を森田氏や私と共に語ろうというもので、今までの「この日の学校」の中で最も哲学的、思想的内容を持ったものになることが予想されます。そのため、この顔合わせに関心を持った方々が相当無理をしても時間を作って参加されることが予想されますので、参加ご希望の方は、なるべくお早めにお申し込みください。

以上1日分/掲載日 平成22年9月9日(木)


2010年9月9日(木)

 以前、この随感録でも(2009年6月19日付けで、小学生をこういう人が教えたらずいぶん救われる小学生や親が出るのではないか…)と紹介した事のある佐世保の郵便局員、野元浩二氏は、いままで誰一人として職業を当てた人がいないというユニークな人物。(かの桜井章一雀鬼会会長も、野元氏はプータローと思われていたようだ)私も、この野元氏にどれだけ助けられたか分からない。ただ、渡辺京二先生の『逝きし世の面影』を読むと、昔の日本には野元氏のような人物が全国至るところにいたらしく、そういう点ではきわめて郷愁を誘われる人物でもある。  自称「アホ野元」の野元氏だが、メカには強く、独特の無農薬農法、そしてニホンミツバチに関しては、『我が家にミツバチがやって来た』の著者でニホンミツバチに大変詳しい久志富士男先生の一番弟子の観のある熱血漢。

 その野元氏からは、よく野元氏の人柄そのままのユニークなメールが届くのですが、今回届いたメールはいろいろな意味で一人あるいは知人間だけで読むのはあまりに勿体無い気がしましたので、野元氏の了解を得てここに全文を紹介する事にしました。日本には、まだこのような人がいる事で励まされる方やホッとされる方があると思います。
 文中で「マユ」とあるのは、野元氏の三女で小学3年生の麻有ちゃん。麻有ちゃんは分蜂したニホンミツバチの群に頬ずりして、ニホンミツバチが対応さえ間違えなければ、いかに人と共存出来るかを印象づけた映像を残していて、次回の採蜜を行なう予定との事です。「平田先生」とは、私の佐世保の講習会の世話人で、平田整骨院院長。とにかく人の喜ぶ顔を見るのが生き甲斐という好人物です。また、「火事場の馬鹿器用」というのは、来月新潮社から文庫本として新しく刊行される予定の『響きあう脳と身体』(茂木健一郎氏との共著)の中で、私が使った表現です。では「実は賢い、自称『アホ野元』」野元浩二氏からのユニークメールをどうぞ!
 これを全部携帯で打っているとの事ですから、それにも驚かされます。

本に「火事場の馬鹿力」と共に「火事場の馬鹿器用」の話が、載ってましたが、それに似た「火事場の馬鹿閃き」っちゅうのを体験しました!夕方、家の前の畑の草取りをやっていたら、マユのクラスの子が、二人、遊びに来たんで、こりゃ、ちょうどいいや!と、引っこ抜いて干しておいた草を一カ所に集め燃やしてから肥料を作る作業を手伝わせたら、三人とも、よほど楽しかったらしく、キャッ、キャッ♪喜んで、手伝ってくれやした!赤トンボも飛んでいて、そんな童謡みたいな、のどかな、ひと時が、一転!エンジン音が、して、ハッ!と気付いたら、家の近くの水田で農薬を動力噴霧器で散布しだして霧状の固まりが、ジワジワとこちらに向かって来てるじゃあないですか!「わっ!ヤバい、こっちに来たらハチが、全滅する!」と思いミツバチの巣箱へ!マユは、「ハチさんが、死んじゃう!お父さん助けて!」と泣き叫ぶし、とにかく、どうにかしなけりゃ!と直線距離だと二百メートルくらいなんすが、川をはさんで道路が、迂回していて五百メートルくらいあるんで、モトクロスバイクに飛び乗ってノーヘルのまんま散布してるところへ全開で、ぶっ飛ばして行きました!(この時のスピードは、絶対、レースの時より速かったです!)現場へ着いてから、散布してる人にハチの説明をして、「おいには、農薬をまくな!って権利は、なかばってん、少なくとも、おいん家が、風下の時は、農薬をまかんで、そいから、ネオニコチノイド系のダントツだけは、使わんで!」と言ったら、わかってくれたんで(前にも説明していたのですが、まだ、ピンと来ていなかったみたいで、ぶん殴りたい衝動に駆られていたんですが、その人、近所の人で、すごく情のあるいい人で、いつも、お世話になっているし、いざって時は、助けてくれるし、心が、葛藤しました!)そいから農薬の袋を見せてもらい、種類の特定を!幸い、最悪のネオニコチノイド系では、なく、殺虫剤は、ピレステロイド系、それとイモチ病の消毒剤との混合農薬の粉剤でした(水溶剤より、比重が重く、浮遊する時間は、短い!と言っても30分位は、ただよってますが!)!そいから、また家まで、バイクをぶっ飛ばし、久志先生に電話して、農薬にやられる時のハチの様子は、どうなるのか聞いたら、「なに!そりゃ、大変だ!農薬が、飛んで来たら、落ち着きが、無くなり、入口付近にたくさんの隊列を組んで巣の中に農薬が、入らないように、必死で羽根で扇ぎます!でも次々に力尽きて死んでいきます!」との説明!その悲惨な事態を想像したら、怒りと悲しみで、マユだけでなく、あっしまで、涙が、でてきました!そいから、あっしと嫁さんとマユ(クラスの子は、お母さんが、迎えに来て帰った!)の三人で、(お姉ちゃん二人は、部活でいない!)少しでも農薬を拡散させるために、巣箱の門を横方向から必死にうちわで扇いでいたのですが、ピンとアイディアが、閃いて、扇風機を持ち出し設置!(この時の作業の、素早いこと!いつも、これなら、仕事も、凄いことになるんでしょうが、危機が、迫らない限りありえないっす!)これで、少しは、ましやろうけど、所詮は、巣箱内に農薬に汚染された空気が、入るな!と感じました!そしたら、更にアイディアが、閃き、そうだ!エアコンプレッサーの吸入口に活性炭のフィルターをつけてゴムホースで、巣箱内に空気を送れば、巣箱内から外に向けて空気が、流れるわけでやんすから、それが、バリヤーになり巣箱内のハチは、助かるな!と確信!しかし、もう時間が、無い!いよいよ家に放射能雲ならぬ農薬雲が、届こうとしたとき、不思議な事に風向きが、サーッと変わって、農薬雲が、向こうに去っていくじゃないですか!ほんと、アニメか、パニック映画みたいに、まさに危機一髪!ギリギリ、助かりました!これは、絶対、あっしに取り付いてる?精霊のおかげですよ!感謝します!そうこう しているうちに、久志先生と養蜂業者の方が、心配して駆け付けてくれました!久志先生にこの時閃いたアイディアを話したら、「おおっ、それは、素晴らしい発明だ!特許を取れるかもしれませんよ!」と言っていただきやしたので、山の中でも使えるようにバッテリー方式にしたり、エア流量やコンプレッサーオイルのエア混入を防いだり、と解決しなければ、ならない問題もありますんで試作品を作ってみます!もちろん、これは、苦肉の策で、こんなものいらない環境を目指したいのですが、近所の人をはじめ、つくづく、農協の農薬神話の刷り込みは強いので、無農薬への道は、困難と時間が、伴います!それまでの対症療法としては、いけると思います!甲野先生が、言い出しっぺで、平田先生を通じて久志先生と知り合い、こうしてミツバチと生活を共にすることになったわけですが、(近頃じゃ、オオスズメバチも!)他の地区では、ほとんど絶滅状態です!かわいい、こいつらを絶対に守ってやります!あっ、忙しい時に、しょーもないメール、すみませんでした!
アホ野元!

以上1日分/掲載日 平成22年9月10日(金)


2010年9月13日(月)

 まだ30度を超える日もあるが、陽射しはすっかり秋。その上、日が落ちれば辺り一面樹上で鳴くアオマツムシの声に、どうしようもなく秋を追認させられる。そして、その秋の到着と共に、私のやらなければならない事もハンパではなくなってきた。
 今週は週の後半から中国、四国地方に出かけ、帰って数日して再び西へ。
 九州を3県まわって大阪に出て帰るという日程。そのため、荷物をどこにどう送ったらいいか、その荷物の段取りを考えているだけで相当の時間がとられるところに、様々な企画の相談、取材雑誌の記事の校正などなど…。
 その上、最近は技の上での気づきが結構いろいろあって、それらをどう統合し関連を考えてゆくかが容易ではない。(もちろん、こういう仕事は最もやり甲斐があるが、そこに行きつく前に、とりあえずやっておかなければならないと思って始めた用件がエンドレスにあって、さすがに参ってきた)しかし、そうした疲れを吹き飛ばすのは、これも刺激的な仕事の話しだから、我ながら苦笑してしまう。
 最近疲れ気味の私を元気づけているのは、前述した技の進展と、「この日の学校」を一緒に行なっている森田真生氏のますますの成長ぶりだろう。思い返してみると、ちょうど1年前初めて九州博多の地で「この日の学校」をスタートさせたのだが、あれから1年経ったとは信じられないほど、この1年は早かったように思うし、その短い1年の間に森田氏の才能は何段階もアップして、数学というより人間としてさまざまな才能が大きく花開いてきて、いろいろな試みを成功させてきた。
 その才能の開花は7月にあった九州糸島での数学道場「"懐庵"開き」の催しの際強く感じたが、その後も止まるところを知らない。先日も「和太鼓に関心があるので」という事で、私が和太鼓奏者の佐藤健作氏を紹介し、佐藤氏にも電話でも森田氏の人となりを伝えておいたところ、佐藤氏のライブに行って私との「風の行方」でのトークの話をとりつけてきた。
 数学者として集中的にその研究対象に没入する才能と、イベントを企画プロデュースする才能と、彼と話した相手の心に何か火をつける情熱。こうしたものを併せ持っている人物など、小説家でもリアリティをもって描くのは難しいと思うが、まさに「事実は小説よりも奇なり」だ。
 私も何かと忙しくしていて、つい気づかなかったが、今月25日は彼が数学の道場"懐庵"を開いた、その糸島の地で初めて「この日の学校」が開かれる。本来なら1ヶ月以上前に告知しておくべきだったが、「この日の学校」に関わっている者は全員一人何役もこなしている有様で、その内容についてはいろいろ考えていたが、広く告知することがすっかり遅れてしまった。

 このようなわけで、もう日数もありませんが、人が人として生きることとは何かという事について考えられている方はもちろん、現代のように様々な問題が山積して生き辛くなってきている中で、スポーツ選手のようなハッキリとした目的が持ちやすい世界ではない「数学」という学問を通して、「人が生きる事とは何か」を追求して、これほど明るく目に力のある若者が存在しているという「事実は小説よりも奇なり」を文字通り体現している森田真生という若者を目撃するというだけでも、「この日の学校」に参加される意味は十分にあると思います。
 それでは25日に糸島で御縁のある方々の御参加をお待ちしています。
 この日、前半は私の武術と薪割り体験教室があります。薪割りには、私が数年前に特注して、そのままずっと寝かせていた(現代ではもうちょっと注文してもなかなか出来るところはないという)斧の頭の重さだけが約3キロの大斧を持って行き、初めて使うことにします。

以上1日分/掲載日 平成22年9月14日(火)


2010年9月22日(水)

 16日の朝に出て、中国・四国地方をぐるっとまわって、昨日21日帰ってきたが、いろいろと気づきやら出会いやらあって、宿題に持って出た原稿もあまり書けなかった。
 この旅の間に印象に残った人の顔はいくつかあったが、最も印象深かったのは岡山で久しぶりにゆっくりとお話しした光岡英稔・韓氏意拳日本代表の御自宅での表情。
 私は光岡師範と出会ってすでに16年。親しくさせて頂いてから10年近くになるが、いままで、にこやかさの中に、あれほど鋭く本気な顔を私に見せられた事は全く記憶になかった。そして、その表情は私がこの夏からハッキリと軽い竹刀よりも日本刀、つまり真剣の方が静止状態から発剣するにしても、影抜などで変化させるにしても、明らかに奔るし、速くなったので、それをちょっと使ってみた時の事である。
 その時は、食事を御馳走になり、いろいろな話が出ていたなかで、同席していた人もいて、半分はその人達との話の流れで行なったのだが、それまでずっとにこやかだった光岡師範の表情の中に、私がいままで見たこともない鋭い表情が浮かんだのである。その時、縁が出来て十数年、初めて私の技に光岡師範が、すっと引き寄せられるように積極的関心を持たれた瞬間だったと思う。
 つまり、武術の専門家として「この動きに対してはどうするかな」という事を考えられたのではないかと思う。その後、深夜までいろいろと語り合い、また指導もして頂いたが、その武術の実力が凄まじいことをあらためて知ることが出来たと同時に、話し込んでゆくほどに気づくところが見えてきて、本当にありがたかった。
 これは光岡師範が単なるスローガンや看板としてではなく、真実「人間とは何か」という人間の本質を武の世界を通して追求し向き合われているからだと思う。
 私とは親と子ほど違う年齢という事もあり、また出会った時のいきさつからの流れで、会えば「光岡さん」と気安く呼んでいるが、私の武術研究の人生のなかで、光岡師ほど私に大きな影響を与えた人物は他にいないのではないかと思うし、絆の深さも今後さまざまな事があったとしても気まずくなる要素がまったくと言っていいほど見当たらない。
 これは頭でつくったある主義や理念によって我々が結びついているわけではなく、体感を通して人間とは何かを掘り下げることに関して、数多く語ってきた中で共感する確かなものが育ってきたからだと思う。
 御縁のあった事を心から感謝している。
 この光岡英稔師範が率いる日本の韓氏意拳の指導者の一人で、私の四国の稽古会の世話人も務められている守伸二郎氏は、意拳の指導においても様々なアイディアを駆使した、その指導には定評がある。私も20日の香川県での講習会の後、一緒に研究稽古して少なからぬ貴重な事を学ばせていただいた。

 この守氏が、韓氏意拳を大阪の朝日カルチャーセンターで指導をされていますから、ご関心のある方は受講されることをお勧めします。

以上1日分/掲載日 平成22年9月22日(水)


2010年9月28日(火)

 いま、九州から大阪へ移動中の新幹線で、これを書いている。25日は糸島での「この日の学校」。
 現地まで大型バスをチャーターして行くという形で、懐庵の下の田のほとりまでバスが入ったが、恐らくこのような場所にバスが入ったことは、かつて一度もなかったに違いない。
 この日も、先日この随感録で紹介した野元浩二氏の大活躍で、私が送った大型斧に見事な柄がつき、私もかつてない威力のある薪割りが出来た。この日、森田氏の「あいだの数学」の講義は"見事"の二字に尽きる。
 その後、ウイリアムズ氏指導のヴォイス・パフォーマンスは、巨大な焚き火のお陰もあったのだろうが、よく全員あそこまで続いたと思う。焚き火以外に、このヴォイス・パフォーマンスを続けるエネルギーが続いたと思われる理由として思い浮かぶのは、直前の平尾氏宅での見事な夕食である。平尾夫人は今回も本職のシェフもうなるほど見事な腕をふるわれていた。
 この夜、ひどく懐かしかったのは、何年ぶりかでクツワムシの声を聞いたこと。また、ここで、昼間薪割りをする前に、野元氏が現地にいたオオスズメバチをたちまち慣らし、手で触ったというから、やはり野元氏は普通ではない。
 そして翌日は、野元氏運転の車で熊本へ。細川氏ゆかりの泰勝寺での講習会。敷地内に細川ガラシャ夫人の墓地、凝った茶室、テニスコートほどの池等々があるのには驚いた。
 講座が終わって、現在ここに住まれている御当主(細川元総理の御子息)に御挨拶をしたが、私の本をすでに数冊読まれていたという事には驚いた。この敷地内の駐車場に太い木がいくつも玉切ってあったので、伺うと、薪ストーブ用とのこと。糸島で使った大斧が野元氏の車に載せてあったので、残っていた受講者の方々への参考にという思いもあって、割らせてもらったが、これが一抱えほどあった椎の木か何かで、もの凄く粘り強く、いままでにないほど薪割りで大苦戦。行きがかり上、割りかけで「割れません」という訳にもいかなかったので、割りかけは割ったが、講座中は大して汗をかかなかったのに、この薪割りで大汗をかいてしまった。
 そして打ち上げの後、私の泊った旅館にまで見送ってもらった人達と、約1時間、稽古の二次会。まあ熱心な人達と稽古すると疲れも忘れる。
 そして翌日は熊本の世話人、加納氏ともども野元氏の車で佐世保へ。ここで夕方から剣道関係者対象の講習会。8月に私の剣術の動きが竹刀よりも真剣の方が、鋭く迅速に動くようになって初めて、何人もの剣道家の方々に最近の私の動きを見て頂き、また希望する方々と竹刀を合わせる機会を持ったが、剣道関係の方々は、いままでで一番興味を示されたように思う。もっとも、なかには呆然とした表情の人も見受けられたから、これから私の動きがどのような影響を剣道界にもたらすかは全くわからない。
 ただ、私自身にとっては、この竹刀よりも真剣の方が扱いやすくなった事で、竹刀の使い方も向上がみられた事は確かで、この日もいくつか、いままでにはない技が生まれ、この佐世保の講習会は私にとっても有益なひとときとなった。そのため、この日の打ち上げはホテルだったが、日本座敷の宴会場だったので、竹刀を持ち込み、何人もの人達と再び稽古。講習会で得たことを再度確認し、今後の私自身の稽古の方法を考える資料とした。
 その後は熊本から同行の加納氏と野元氏宅へ。かくれ里の観のある野元氏宅に泊めて頂き、翌朝ニホンミツバチの巣箱を見に行くと、キイロスズメバチが来ていて、ニホンミツバチの群は臨戦態勢を敷いていた。この時のニホンミツバチの動きの素早さと巧みさには目を見張った。かなり長く見ていたが、ニホンミツバチはキイロスズメバチに対しては、かなり余裕があるらしく、一匹も襲われていなかった。

 しかし、我ながら今回の旅は、よく体がもったと思う。これは、技の気づきがあって気持ちに張りがあった事と、何人もの人達が大変な情熱で私を支えて下さったからだと思う。
 今回は、特に佐世保の野元氏には本当にお世話になった。この3日間、私を乗せて走った野元氏の車の走行距離は延べ500キロは軽く越えたと思う。あらためて御礼を申し上げたい。野元氏に関しては、先日9月9日に、この随感録に載せた野元氏のメールが大きな反響を呼び、私が連載を"ほころび"を引き受けているウエッブマガジン『りす』の編集者のT女史から「是非、野元さんを"ほころび"で取り上げて下さい」と強い要請が来ているので、次回、次々回の"ほころび"は「じつは賢いアホ野元」特集となりそうだ。
 この野元氏には何度も繰り返し「甲野先生と出会ってオイの人生が変わった」と聞かされ、「まるで甲野先生体験の『使用前使用後』のように変わったとですよ」と吹き出してしまうような「譬え話」を聞かされたが、この道に入って32年、振り返ってみると、私と出会って「人生が変わった」と熱く語って下さる方は、かなりな人数となっている。なかには名越康文・名越クリニック院長のように、別に私が関わったからと思えない人からも「いや、甲野先生によって人生が変えられたというなら、誰よりも僕が一番影響を受けていますわ」と言われたりする。他にはハッキリと分かりやすい例では、介護の岡田慎一郎氏、数学者の森田真生氏、フルートの白川真理女史などだが、こうした人達は皆それまでの、その業界の中では誰もやらなかった事をやろうとしているという共通項がある。
 そうした流れで、いま一人まだ二十代のK氏も私の影響で、新しい「体の使い方の家庭教師」といういままでにないジャンルを切り拓こうとしている。K氏は私と出会って、すでに10年近くになるが、その独特の観察眼はちょっと他の誰にもないものがあり、私もその才能に感じ入って、私のところに来た雑誌の取材やカルチャーセンターの講師なども彼にやってもらった事が何度かある。今回そうした流れの中で、K氏がある方から身体の使い方の個人指導を頼まれ、そこに行ったところ、K氏自身もそれがいままでになく情熱を傾けられたらしい。
 K氏の場合、介護とかスポーツとかに限定せず。ある面私よりもキメ細かな気づきがある上、そこから生れる発想は余人の及ばぬものがあるので、不特定多数を相手の講座をやるより少人数の人達とじっくり話し込みながら行なった方が彼の性に合うように思えたのである。いずれK氏の事は具体的に紹介する機会があると思うので、御関心のある方は、その時お問い合わせ下さい。

 今回、この大阪に入るまでにも多くの事を体験したが、恐ろしい気づきもあった。それは九州各地を車で走ったが、稲が稔ってきているというのに田園地帯に雀がいない事である。本当に、ただの一羽もという表現そのままにいないのである。ニホンミツバチに大変詳しい久志冨士男先生など「ミツバチたすけ隊」は、その原因がネオニコチノイド系の農薬によるものと考えているが、行政や農薬のメーカーは証拠がないという理由で、具体的には何の対策もとられていない。しかし、これほどに鳥達がいなくなっているのだから、原因を探るべく、どこかにかなり広大な無農薬地区か従来の農薬(それもなるべく毒性の低いもの)使用のモデル地区を作って実験してみる必要があると思う。それは、高校の実質無料化や高速道路の無料化などよりも、よほど急を要する重大な事だと思うのだが、行政の腰は重そうだ。それについては、先日民主党の議員諸氏と山形のナラ枯れの深刻な現状をチャーターバスで見て廻った時、その深刻だという事に対する認識がまったく浅かった事からも推察できる。(もっとも自民党議員だったら、もっと浅かったかもしれないが)
 このように事態は深刻なのだが、マスコミもスポンサーの絡みがあるのか、どうも腰が引けているし、本当に困ったものだ。せめて心ある気づいた人々から声をあげ、より大きな輪にしていくしかないようだ。
 この随感録を読まれた方は、この事についてなるべく多くの人達と語り合って頂けたらと願っています。

以上1日分/掲載日 平成22年10月2日(土)


2010年9月30日(木)

 28日の朝日カルチャーセンター大阪は、驚いたことに朝日新聞の大阪本社発行の9月10日付けの夕刊の一面にある「素粒子」のすぐ下に、このカルチャーセンターでの私の講座の告知が載ったため満員。その後の打ち上げにも20人以上の人達が参加され、ずいぶん盛り上がった。
 私は、私の技を過信されてしまわないようにと思って、「片手の辰巳返し」(私が正座して床に手をつき、その片手を上から全体重をかけて抑えつけるのを、手を上げてその相手を崩す技)を行なった時など、私が苦戦する状況も見てもらおうと、参加者を見回すと、ひときわ大きな人が目についたので出てきてもらった。体重を聞いてみると120キロあるというので、私はいままで110キロしか経験がないので、「これは大苦戦だろう。でもその苦戦の様子を見てもらえば、やらせでない事が分かり、リアリティも出るだろう」と思い、腹を括ってやってみたところ、意外にも簡単に出来てしまった。
 その後、さまざまな質問などに答え、講座が終わってからもバイオリンの演奏者やK1に出場予定という総合格闘技の選手等々、さまざまな方々から質問を受け、打ち上げの会場では竹刀も出して何人かの方々にも動きを解説した。
 翌日はさすがに疲れていたせいか、ホテルのチェックアウトを延長して、昼近くにホテルを出、京都に向かった。この日、予定では昼頃の新幹線で帰宅する筈だったが、3年前朝日新聞の出張授業「オーサービジッド」で私が訪れた京都の洛東高校卓球部の布袋先生から連絡が入って、一人の女子高生に是非とも会って欲しいとの事で、予定を変えたのである。というのも、洛東高校卓球部は、私が訪れたことをキッカケに、その後トレーニング方法を大改革し、私立のいわゆる強豪校がひしめくなか、公立高校としては例外的な活躍をして(公立高校では、中学で活躍した卓球選手を優先入学させることが出来ないので)好成績を挙げているからである。これはひとえに卓球部を引っ張っている布袋先生の情熱によるところが大きいだろう。その情熱で『古武術for SPORTS』の著者、高橋佳三氏にも指導を依頼し、高橋氏も時々訪ねているらしい。
 その卓球部の部員のMさんが大学を受けるにあたって、筑波大学の論文による入試に『古武術と卓球』と題した論文を出し、とても頑張ったので、入るかどうか分かりませんが、一度会ってやって下さいとの事。当初は、私が大阪から京都に出向き、京都駅で新幹線に乗る前に喫茶店ででも30分ほど話そうかと思っていたのだが、Mさんが授業を抜け出すことは無理との事で、京都駅には布袋先生のみ来られた。まあ、そう聞けば、そのまま東京に帰るわけにもいかないので、結局授業が終わる頃まで途中で食事をしながら話をして、洛東高校に出向いた。
 実際にMさんに会ってみると、「時間を作って来た意味もあった」と思わせるほどの"何か"を持っている生徒で、しばらく話をし、ついでに卓球部の部員何人かにいくつかの動きを見せたり体験してもらったりしているうちに、日も暮れてきてしまった。
 帰宅すれば留守中に届いているであろう数々の郵便物やメールと格闘しなければならないので、この日は夕方には帰宅していたかったから、予定外の数時間は今の私にとっては、かなりの痛手だった。しかし、人の縁の不思議さを思い、また「人間として生きていて、何が大事かを見失って仕事もないだろう」と思い、「そうか、今日はこういうシナリオの日だったか」と、その不思議さを味わいながら、19時過ぎの「のぞみ」に揺られて帰途についた。
 さて、もう明日から10月。その明日10月1日は、ホテルオークラで新潮ドキュメント賞の授賞式。私も書評を書かせてもらった『リハビリの夜』の熊谷晋一郎氏のお祝いに行く予定。

 2日は読売文化センター自由が丘の講座。ここはなかなか雰囲気もよくて、やりやすいところですが、まだ人数に余裕があるようなので、御関心のある方はお申し込み下さい。3日は久しぶりに千代田で稽古会8日は池袋コミュニティカレッジの講座13日は綾瀬の東京武道館での講習会。そして15日は近鉄の奈良駅近くの奈良女子大学で講演。一般の方々も入場出来るという事ですので、御関心のある方はお問い合わせ下さい。
 その後、関西は16日が大阪での講習会17日は名古屋で講習会を行ないます。その後は、21日は朝日カルチャーセンター新宿で講座。そして、23日は久しぶりの佐渡での講習会。そして24日は光岡英稔韓氏意拳日本代表をゲストに迎えての新潟で最初の「この日の学校イン新潟」を開催します。御関心のある方はお問い合わせ下さい。

以上1日分/掲載日 平成22年10月1日(金)


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